第82話 マレアの戦い③英雄殺し
ヒュウヒュウと、矢鳴きがうるさい。枯れ草の大地に、みるみる棘が生えていった。
そこら中の甲高い喊声が耳障りで、大声を張り上げた。
『突き殺せ!』
オドゥスの毛皮は刀槍を寄せ付けない。降り注ぐ矢を砕きながら、吹っ飛んだトリバロスに地響きを立てて迫った。
だが二度目の突進は見事に空を切る。敵はあっさり跳ね起きたのだ。
縦横に跳んでオドゥスを躱しつつ、その緑の瞳はしっかり私を睨んでいた。
「よく動くものだ。おまけに猪を楯に使う……大した猿だな」
狙いが定まらないのか、オノスは跳ね回りながら自慢の剛弓に矢をつがえては下ろし、下ろしてはまたつがえと繰り返していた。
「囲みます……『冶金兵!』」
足並み揃えて、青銅の隊列が遠巻きに回り込んだ。土の人形兵とは違う。矢に傷つくことはあっても、砕けることはない。
トリバロスは牙を剥いて顔をしかめながら、こちらの増援をチラリと見た。
「邪魔をするな、獣の分際で!」
苛立たしげに叫び、爪を振るう。古苔のようなオドゥスの背中に紅い血が噴き出した。
だが追撃は来ない。隙を見せればオノスが射貫く。向こうもそれは十分承知していた。
「何をしている、突撃だ!敵勢に当たれ!白猿はおらぬぞ」
方陣のどれかで、若い声が意気揚々と叫ぶのが聞こえた。
(テリメネス……?)
鉄の芋虫が束になって、アルシアの楯壁に突進した。そこにはもう、矢は降っていない。
ドキャッ。
楯で楯を打ち鳴らす音が響いた。
「ブギッ、ギイッ!」
背から血を流し、オドゥスは明らかに昂ぶっていた。標的を串刺しにしようと牙を振り回す。
『よく狙え!休ませるな!』
焦ることはない。有利なのはこちらだ。
二十の冶金兵がトリバロスの退路を塞ぐ。その向こうでは方陣が黒マントの戦列に食い込み、ひた押しに押しつつあった。
「クソッ、小癪な!」
殺意に満ちた眼光が初めて迷いに揺れた。
トリバロスが跳び退り、さらに冶金兵を越えようとした時。なおもオドゥスが追いすがった。
真っ赤な口を大きく開けて腕といわず脚といわず噛みつこうとする。
「ええい、猪風情が」
白影がオドゥスの頭上高々と跳んだ。――そして降り様に、両手の爪を深々と頭蓋へ突き刺した。
「カッ……」
舌の詰まった様な音を立てて、長い牙の間から泡が漏れた。トリバロスの両手を巻き込んで、どうと地面に倒れ伏す。
(だめだ。死……)
「オドゥス!」
シュッ。
私が叫ぶのと同時に、風切り音がした。
次の瞬間、トリバロスの毛皮を突き破って、右脚に深々と矢が刺さっていた。
「焦ったな。終わりだ」
ぐるぐると獲物の周りを旋回しながら、オノスは悠々と二の矢を取り出した。
トリバロスの顔が憤怒に歪む。
「何の、これしき!」
オドゥスの頭から手を引き抜いて、尾で体を支える。残った左の太股がメリメリと盛り上がった。
「む。まだ跳べ……」
オノスの言葉が途中で止んだ。
ブシュッ。
限界まで張り詰めていたトリバロスの左脚から鮮血が噴き出した。
オドゥスが首を振り、牙の先で脚を掻いたのだ。
「な……」
緑の瞳が驚愕に見開かれる。
(まだ、生きて……?いや、そんな……)
見つめ直しても、もう苔緑の巨体はピクリとも動かない。
「よくやったぞ、オドゥス」
オノスだけが冷静に、淡々と矢を放った。右肩を貫かれ、トリバロスがよろめく。
「ガアアッ!!」
「ぬうっ」
(痛ッ!)
両膝をついてうずくまっていたトリバロスが、突如咆哮を発した。
目の前の矢筒にしたたか頭をぶち当てる。オノスが急に後ろへ跳んだのだ。
(な、何が……)
答えはすぐ分かった。白猿の周りを囲むように、一面に同じ白の針が突き刺さっていた。地面にも、オドゥスにも、冶金兵にも。
「猪馴らし!」
歯茎ごと牙を剥きだして、トリバロスが叫んだ。
「脚の一本や二本で、俺を討ったつもりか?トリバロス・ボレイオスを!」
絶叫とともに、姿が変わっていく。手足が細り、鼻面が下がり、獣から獣人の姿に。
プウ!プウ!
トリバロスは左手で体毛を引っ掴み、次々とこちらへ吹きかけた。
毛針は霧のように広がって迫り来る。躱すオノスの動作も次第に大きくなり、そして――一つ大跳躍をした後、赤銅色の脇腹にすうっと紅い線が浮かんでいた。
「そんな!オノス!」
「大事ない……もう勝負はついている」
他人事のようにそう言い放ち、何度目かの矢を放つ。トリバロスとの撃ち合いの中でろくに狙う暇もないが、それでも全て的は捉えていた。
「あれも良い射手だ。動ければな」
いつしか、白銀の霧は収まった。
トリバロスは全身に矢を浴びて、うずくまったまま動かない。傍らには、草原を血で染めながらオドゥスが伏していた。
喊声が少し遠い。味方はだいぶ敵の前列を押し込んだようだった。




