第65話 ポロスの願い、縛霊の深奥
エウクラトス様とヘーロがいれば、牡鹿の解体も一瞬だ。
急造の祭壇を真っ赤に染めながら、塊肉があちこちへ運ばれていく。
普通の鹿でも三百人分くらいにはなるが、これなら二千人くらいいけそうだ。私が獲った分もあるし、今夜は街中に肉を振る舞っても大丈夫だろう。
私も眼下に広がる焚き火の群れを眺めながら、寂しくなった祭壇の脇、ちょうど椅子のように突き出した岩肌へ座り込む。
するとアリキオンが、肉串を持ってやってきた。
「ちとよいかな?……お主まだ食うとらんじゃろう」
「ええ。ありがとうございます……あちっ」
千切ってくれた切れ端を受け取りつつ、お尻を動かして場所を空ける。
「ちと、香り付けが足らんのう……まあ物がないから仕方ないが」
「私は好きですよ、ただの直火焼きも」
リュキオンに来るまで薬味香草の類はよく知らなかったし。
でも、固いのが難点だ。両手と右奥歯で肉を引っ張る。煮込みの方がいいかも。
「ところで、よく私なんか巫女にしましたね?」
当てこすりのつもりだったが、アリキオンはうんうんと頷いた。
「ウム。神殿の管理は本来血統正しき者の務めだのう。パンドーラ様もそうだが」
「……それで神殿にお住まいなんですね」
住んでるというか、押し込められてるというか。
「だがまあ、今はまだ神殿も出来とらんしな。それに、期せずしてアンテモエッサから山ほど来てしまったが……そもそもあまり女子供を呼ぶ段階でもないからな、リュキオンからの候補がおらん」
鹿肉をぐいぐい食いちぎりながら、器用に話し続ける。七十にもなって頑丈な歯だ。
「ま、当面はお主でよかろう。後々、高貴な巫女を立てればよいのだ。ハッハッ!」
(……高貴でなくて悪かったな)
「それに、お主がエウクラトス様の妾になれば、大手を振って巫女になることも出来るぞ?」
「……またそれですか?」
顔をしかめると、何を勘違いしたのかアリキオンは悩ましげに目を伏せた。
「しょうがなかろう、お主を正妃にするのは難しいのだ。奴隷女ということにしておかんと……」
そういう問題じゃない。まったくこのハゲは。
「とにかく、私は当分ここにいればいいんですね?じゃあちょっと皆を呼んで来ないと……」
強引にその場を離れた。
祭儀の喧噪は、浜まで尾を引いていた。それでも、会議場の辺りは少し静かだった。
「ヒーメロペー!テルクシオペー!ポロス!」
呼ばわると、セイレーン姉妹がトコトコと会議場から出てくる。
「もう動けるの?」
「はい、アルジサマ。たぶん飛ぶのもダイジョウブと思います」
「それはよかった。……でも私のいない時に飛ばないでね、アンテモエッサから来た人がいるから」
(あれ?ポロスは……あっ、あんなとこに)
なぜか岬の天辺にいたが、素早く駆け下りてきた。
「どうしたんだい?」
「あっ、テロン。帰ってたんですね」
物音を聞きつけて、二つの天幕からも次々に顔がのぞく。
「丘の上に神殿を建てるらしいんですけど、今のところ私が巫女なんです。それで、向こうに移ろうと思ったんですけど……あの、荷車お借りしていいですか?」
奥の天幕に声をかけると、コーレーが静かに浜へ出てきた。
「ええ。もちろん……というより、私達も行きましょう」
ブラデに支えられつつ、なぜかすぐに外衣を羽織って準備万端だ。
「聖山は戦時の砦、メイコスはいた方がよいでしょう。我が家の家人ですが」
(ふうん。そういうものか)
となるとメイコスも来て、後は……。
「アイソポスさんは来ますよね?どうせ」
「どうせって、一応私は護衛なんですがな。……ちとお待ちを、これを片付けるのでね」
ぼやきながら、テロンと二人で周りの杭を外しはじめる。
ギシッ。
コーレーとブラデが乗った荷車に、セイレーン姉妹を押し込む。
立った状態なら、何とか二人とも収まった。ちょっと嫌な音がしたが。
「アルジサマ。ワタシはケガしてませんけど……」
「分かってるけど、皆が慣れるまでは飛ぶと危ないかもしれないし。……でも歩くのは苦手じゃない?」
現にブラデは今もじっと顔を伏せて、明らかに怖がっている。コーレーが添っているから取り乱すことはないが。
(とにかく、荷車はこれでよし)
後は天幕の片付けを待つだけだ。ヘーロが丘から帰ってないから、力仕事の手が足りないテロン達は少し手間取っていた。
「ポロス、そろそろ準備を……どうかしました?」
青白い月光の中、赤銅色の背中がぽつんと浮かんでいる。ポロスはじっと海を見て黄昏れていた。
「最近は荷運びばかりだ。我らは最古にして最強の戦士なのに……」
特大のため息。すっかり落ち込んでいる。そういえば、今日も散々獲物運びを手伝わせた。
「いいじゃないですか。私には荷引きのポロスのほうがありがたいですよ」
しかし、少し気の毒かもしれない。彼は驢馬じゃない、ケンタウロスなのだ。
(そういえば……)
ポロスには願いがあったのだった。
「ねえ、ケンタウロスは二つの顔を持つんですよね?」
驚いたように、ポロスが私を見下ろす。
「そうだ。今となってはイアトロス翁だけだが……私だって、変わりで弱くなる前はあったはずなのだ。破壊と調和、それを得たくてお前に……」
どこまでが髪だか鬣だか分からないモジャモジャの後頭部を指してみせた。
(縛霊の魔術で……鎧を脚にしたように)
霊を変ずれば、肉もまた。本来の形に戻すのならば、正しい作用のはず。
冴え渡る主の光が、私達を照らしだした。
「今夜は満月。月の女神が微笑んでおいでです……やってみましょうか」
『黄金の弓を持つ乙女、遠矢のアルテミス様……』
(霊を二つに、肉は倍に)
ポロスの目は限界まで見開かれていた。黒い瞳が震えながら、次第に深さを増していく。
『四本腕、八本脚。雲より出づる不死なる神獣の、在るべき形を思い出せ』
神令を唱えるうちに、目の前の肉体が膨れ上がった。慌てて後ろへ下がる。
肩の肉がビキビキとうねり、蹄が激しく砂を掻いた。
その音は次第に大きく、細かくなっていく。新しい手足が生えてきていた。
そして――後頭部の毛が左右に分かれ、中央から肉が盛り上がる。
やがて、ポロスは動きを止めた。唐突に静寂が戻る。
(成功……かな?)
月光に照らされたその体は四本腕に八本脚、イアトロス並の巨躯に変貌していた。
「どうですか、ポロス?」
動かない背中に呼びかけると、後頭部の顔がカッと目を見開いた。
白い。目が真っ白だ、瞳が見えない。
口から牙を覗かせて、その顔はニヤリと笑った。
「ポロス――そうだ、そういう名だった」




