第58話 獅子と牛
その咆哮には聞き覚えがあった。すぐさま、唇を湿らせる。
「レオニダスです!」
「……国崩し……か」
すぐに、稜線の合間から黄金の獅子が現れた。
右だけになった緑の眼光が、楯列を越えて私達を睨めつける。
『アルテミス様、どうか…………。止まれ!』
しかし、止まらない。
(こいつも、トリバロスと同じ……)
勢いもそのままに、レオニダスは方陣に跳びかかった。
「ぐわっ!」「がっ……」
兵達が悲鳴を上げた。毛皮へ突き立てた槍が、次々とへし折れる。重ね革の楯が、絹より軽く裂かれていった。
(直接止められなくったって!)
「下がって、いろ……お前達」
『戦え!眼を狙え!』
エウクラトス様が前に出たのと、私が獣人達を動かしたのは同時だった。
猿獣人の十八番、空中からの刺突が四方からレオニダスを狙う。
「小癪な!」
だが、あちらの方が速かった。黄金の閃光が流れ、背後から迫った獣人の上半身が消し飛ぶ。
次の瞬間にはレオニダスは後方へ跳び退っていた。無人の地面を、黒斧が深々と抉る。
(逃げた?ヘーロの攻撃も避けなかったのに)
エウクラトス様ならあの外皮を貫けるというのか。
黒斧の攻撃をことごとく躱しながら、レオニダスは獣人達を迎撃していった。
「……動きを、止めてくれ」
『押さえつけろ!一瞬でいい』
言われるまでもなく、眼を狙わせるのは諦めた。
黒斧にはヒュドラの毒が残っている。あの毛皮さえ突破できるなら、当てれば殺せるはずだ。
だが、まるで速度は落ちなかった。そもそも、肝心の獣人達すらレオニダスに触れられていない。
七人すべてが倒れるまでそう時間はかからなかった。
獣人を片付けたレオニダスが、一直線にエウクラトス様へ向かう。
「王子!」
オイトロンが悲鳴を上げた。
ガッ!
火花が散る。首筋に迫った牙は黒斧の柄で止められていた。
「……むん」
石柱のような足が獅子の腹を蹴り飛ばす。特に堪えた様子もなく、レオニダスは後方へ跳んだ。
(一対一はまずい。向こうの方が速いんだ)
必死に周囲を見渡したが、ろくな生き物が見当たらない。
しかしレオニダスは一騎打ちをしなかった。すぐに崖際へ走り、残った兵を蹴散らしながら方陣の奥へ入ってくる。
「ピンダロス様!」
狙いに気づいたときは遅かった。
てん、と音を立てて、頬のこけた首が転がった。咄嗟に腰の短剣に手をやった姿勢のまま、鎧も着けないキトン姿が崩れ落ちる。
ズン。
エウクラトス様が駆け寄って黒斧を振り下ろすその音が、妙に遠く聞こえた。
ピンダロスの骸の向こうで、レオニダスが低く構える。
「まずいぜ、こりゃあ……」
次はエウクラトス様だ。絶対に止めなければ。
だがそんな時に頭のどこかで、私はメイコスや、足萎えのお嬢様や、袋叩きにされた獣人達を思い浮かべていた。
彼らに何と言えばいいのだ。私が無能なせいで、誰も彼も無駄死にだ。
(……呼び戻さなきゃ)
そうだ。与霊の魔術は、肉さえあれば。
『天の光輝にして冥府の射手、破壊者なるアポローン様……』
レオニダスはもはや呪言を意にも介さない。エウクラトス様だけを見ていた。
『戦え!戦士たちよ!』
紅く染まったキトンを引きずって、首のない体が獅子の前脚にしがみ付いた。
黄金の鬣が幾筋か、宙を舞った。
エウクラトス様は、一切の躊躇もなく黒斧を振り下ろした。そしてレオニダスも即座に亡骸を蹴散らし、間一髪で躱していた。
だが。
「ニキッペ、これは君がやってるのかい」
テロンがポツリと呟く。
獣人達も、リュキオン兵も動き出す。よろよろと立ち上がり、あるいは這いずって、レオニダスを取り囲んだ。
エウクラトス様が静かに黒斧を構え直す。
しばし睨みあった後、黄金の閃光が一跳びで丘の上へ飛び上がった。立ち並ぶ糸杉の奥へ消えていく。
「失態、だ……。ピンダロス……殿が……」
牛頭から呻き声が漏れたが、誰一人言葉をかける者はなかった。
『……ありがとうございました。もう動かないで、休んでください』
ゆっくりと、全ての骸が地面に肉を横たえた。
「王子!ストラトスとパクトスは息があります!」
その報告に、エウクラトス様はすぐに膝をついて兵の脈を取った。
「私が……運ぶ。……行くぞ」
鎧も外さない男二人を片腕に抱え上げ、滑るように進み出した。駆け足の速さなのに、少しも動きに激しさがない。
残った兵達も、脛当てを軋ませて後に続く。
「……俺たちも行かにゃあな」
オイトロンも走り出す。わずかな振動を腹に感じながら、それでも必死でしがみ付いていた。




