第57話 到来、ミノタウロス
黒い塊が唸りを上げて敵陣を往復した。
エウクラトス様の黒斧は槍の間合いを凌ぐ、槍衾は無意味だ。敵陣の後方で人間らしきものが楯ごと吹き飛ぶのが見えた。
「王子に近づくな!討ち漏らした者を片付けろ!」
アリキオンのような声がかすかに聞こえる。左右の崖際では、細い方陣がじわじわと前進していた。
「助かった……」
崖の上にも、リュキオン兵が来ているようだ。
先ほどのラッパからピタリと射撃が止み、黒衣の弓兵が次々に崖を転げ落ちてくる。
すぐに人に呑まれて見えなくなった。
「そうかな?ここまで来ないよう祈っときな!」
オイトロンはまだ緊張を解いていなかった。目の前の首筋がじっとりと濡れている。
その意味はすぐに分かった。リュキオンに追い立てられた敵兵は、死に物狂いで、こちらに。
散々弓を浴びたせいで、もうだいぶ前列は薄くなっている。ここより前に百人もいないだろう。
(ヘーロがいるけど……)
黄金の後ろ姿は変わらず輝いていた。敵から槍をひったくって振り回している。
だが、こう敵味方が詰まっているのに一人では前面を支えられない。
「踏ん張りどころだよ。ニキッペ、人形兵は?」
テロンの問いに首を振った。先ほどまでにすべて砕けたようだ。少なくとも、兵の形はしていまい。
敵陣に獣人は見えないから、今の私はオイトロンを邪魔するだけのお荷物だ。
(他の、他の物に与霊の魔術をかけなきゃ)
狭い谷間を見渡すが、役に立ちそうな物がなかった。
「……参だ!」
その時、前方で何か聞こえた。
エウクラトス様の動きが止まる。霧のさすように、狂騒が冷えていく。
「降参、降参だ!我らの将は死んだ!降伏する!」
やがて静まりかえった戦場で、一人の男が降参降参と繰り返していた。
顔は見えないが若そうな声だ。だが周りのアルシア兵は異議を唱えないし、地位は高いのだろうか。
「認めよう!武器を捨て、疾く前へ歩け!」
やがて、背後からピンダロスの声。
振り返れないので、オイトロンをつついて後ろを向いてもらう。何列か後ろで真ん中に構えていた。
(あんなとこにいたのか……)
相変わらず一切の防具を着けていなかった。私ですらぶかぶかの兜を被っているというのに、正気とは思えない。
やがて敵兵はバタバタと武器を捨てた。殺気だった男達に急かされながら、峡谷を進みはじめる。
先頭のリュキオン兵は例によってとんでもない速さで歩いてゆくが、こちらも負けていない。何せ後ろが必死で押してくるのだ。
「街はどうなってるんでしょう……」
蛇口門はもう見えない。人だけがひきもきらず流れて来ていた。
「油が用意してあったし、殿は広場に火をつけて時間を稼ぐんじゃないかな?」
「そうだったんですか?殿はデモフォンさん達ですよね」
まだ火の手は見えない。テロンが正しければ、海岸を退いたパルテナイ兵が街中で戦っているのか。
「ありゃ大将、突っ立っちゃって」
オイトロンの言葉に前を見ると、確かにエウクラトス様は道の真ん中で仁王立ちしていた。
アルシアはもちろん、アンテモエッサの男達も身を竦めて避けていく。ヘーロだけは悠々と真横を通り過ぎていったが。
列はほとんど駆け足だ。すぐに私達も追いついてしまった。
「エウクラトス様!」
「久しい、な……オイトロンも……」
牛頭の奥から楽しげな声。
右拳の礼をしようと思ったが、手が塞がっているのだった。
「ありがとうございます。こんなに早く来ていただけるとは……」
「ウム……強行軍、だった……」
それで済む問題なのか。
「我々からもお礼を申さねば。貴軍の助けがなければ、ここで終わっていた」
後ろからピンダロスも追いついてくる。
「エウクラトス殿ですな?私がアンテモエッサの大港督、ピンダロスです。そこの魔術師の薦めで書を出したが、まさか本当に……」
信じられないといった表情で首を振る。珍しく感情が露わだ。
「義を見て……せざるは、勇なき……と……」
(それはどうかなあ)
格好いいこと言っているが、この方は義理人情で兵の命をかけたりしない。そもそも義理なんかないし、何かしらの利益を見ているのは間違いない。
(私のために……は自惚れすぎかな、やっぱり)
アリキオンが納得しないだろうし。
二人の長は並んで歩き出した。その後ろをついていく。
「降伏した、者達は……どのように……」
「街の者全ては到底逃がせなかったのでね、交渉の材料は持っておきたい。上手くすれば交換もあり得る」
なぜかエウクラトス様がゆっくり進むものだから、どんどん人波に追い越される。
「お、王子!?なぜここに?」
視界の端にアイソポスが現れた。慌てて拳礼をしている。
(あっ、ちゃんと荷車守ってくれてる)
無理に押しつけたのに結構律儀だ。
あたふたするアイソポスの横で、ポロスと猿の獣人達が荷車を引いていく。
足下の死体やら武具やらを避けられずガタピシ揺れている。黒布がずれないか心配だ。
「気に、するな……行け……」
首をひねりながら、アイソポスは再びポロスの横についた。
(あっ、そうだ)
『お前達はもう車を離れていい。私の側にいろ』
七人の獣人が、私(を負ぶったオイトロン)の後を歩き出す。
荷車を見送った直後。背後の悲鳴が大きくなった。
「街が燃えてるぞ!」
誰かの叫びが、波紋を打ったように伝播してきた。
オイトロンに振り返ってもらうと、かすかに黒煙が上がっていた。
デモフォン達が火をつけたのか。そうだとして、その後門を出られたのだろうか。
気を揉んでみても、遙かな蛇口門はまるで見えない。
「まだ、パルテナイ兵が……見えないが……いるの、でしょう?……殿を?」
「ええ、海岸で足止めを。」
エウクラトス様は全く焦燥を見せない。ピンダロスの返答を聞いても歩調は変わらなかった。反対に群衆はいよいよ狂乱して横を通り過ぎていく。もはや、牛頭の不審者を気にする余裕もない。
(それでわざわざ遅く歩いてたの?)
パルテナイと話したいことでもあるのか。
行く手に見える西日がだいぶ傾いてきた頃、群衆の列が途切れた。最後の一団に追い越されても、やはりゆるゆると歩き続ける。
両脇を固める尾根もだいぶ緩くなっていた。もう男の二人分くらいの高さしかない。居並ぶ糸杉の群れがはっきり見える。
もう谷間の出口は近い。
「王子!」「王子!」
突然その糸杉の中から、真紅の房飾りを兜になびかせて、リュキオン兵が滑り降りてきた。次から次へと。
いくら低くたって危ないと思っている間に四、五十人は揃っていた。
「さっき上にいた連中だな」
オイトロンにとっては久しぶりの戦友達だろう。だが、話しかけることはなかった。
兵達も猿の獣人を見て一瞬目を剥いたが、すぐにエウクラトス様へ向き直る。
「手はず、通り……だな。……方陣」
「応!」
ボソボソとした命令はすぐ実行された。あっという間に、背後に楯の陣ができあがる。
その時、楯の向こうからスミレ色のマントがやってきた。
(……パルテナイ!)
一塊になっていて分かりにくいが、十人かそこらだ。
血を流していない者は一人もない。どの顔も塵にまみれ歪んでいる。
「……通せ」
即座に方陣が解かれ、左右に分かれる。
「……リュキオンか!?……なぜ?」
先頭にいた男は、困惑しながらも進んできた。
「貴殿が……指揮官か?」
「代理だ。指揮官は……」
男が振り向くと、後ろの兵がすっと広がった。
「デモ、フォン、さん……」
塊の中心にいた兵は、デモフォンを負ぶっていた。
――顔が抉られていた。右の顔面から、骨の白が覗く。右足もない。膝の辺りを縛った布がどす黒く変色していた。
意識はないようだ。いや、それ以前に……。
「いかん、すぐに治療せねば。我々の列を追われよ。逃げた者の中には医者もおる」
「ありがたい」
パルテナイ兵は、リュキオンへの疑問も投げ捨てて再び走っていった。
「五人、ついてやれ……」
すぐさま数名のリュキオン兵が離脱して後を追った。
「エウクラトス殿。我々も早く民を追い、まとめねば」
再び方陣を組ませたエウクラトス様に、ピンダロスが詰め寄った。
「先ほどの者達は門を焼いて時間を稼いだ。追手がかからぬとも限らぬ、少しでも距離を」
「……そうかな」
しかし、牛頭はじっと東を見ていた。
「追手なら……もう、来ている」
谷間の奥から咆哮が轟いた。




