第56話 どん底を抜けて
『方陣!』
謎のかけ声と共に、不動の蛇口門が自ら道を開けていく。
「やっとか。待たせおって」
峡谷の狭間でアルシア軍を指揮するオリゴスは、陣の後方からそっと舌なめずりをした。
レイリスにいた本隊が到着したなら、こうなるのは時間の問題だったのだ。
オリゴスは己の現状に不満があった。
アルシアが王国だった時代から戦働きを続けて四十余年、未だ将軍の地位は得ていない。
そればかりではない。現帝と太后が獣人に市民権を与えたことも、大猿の化け物が自分の上官になったことも彼には我慢ならなかった。
しかし、それで祖国を捨てられるほど思い切りのいい男でもなかった。
そのために部隊長の地位に甘んじてきたが、それも今日まで。
「構えい!」
楯を並べて突進してくる敵の前列を見ながら、意気揚々と号令をかけた。
ここでアンテモエッサ人は壊滅、一番手柄はオリゴスのものだ。こうなれば上官の奇襲が失敗したこともかえって僥倖、そう思われた。
両軍の先鋒が接触する。楯がぶつかり合う鈍い音がそこら中に響いた。
「臆せず当たれ!混ざってしまえば、上の矢は来ぬぞ!」
その指示は正しかったが、しかし城壁の上からは矢が飛んできた。塊になった双方の兵をまとめて貫いていく。
「むっ!?」
オリゴスはすぐ異変に気づいた。
倒れるのはアルシアの兵ばかり。明らかに上から矢を浴びているのに、楯を敷き詰めた敵の方陣はまるで揺るがない。
「こいつら、土でできてるぞ!」
「化け物だ!」
何事か叫びながら、こちらの槍陣は見事に浮き足立っていた。
「突撃!」
一呼吸おいて、城門から雪崩を打って兵が出てきた。奇怪な集団に続いてアルシア軍に襲いかかる。
今度こそ援護射撃は止まったが、すでに前列は崩れつつあった。
「押し返せ!多くは出てこぬ、一人ずつ仕留めろ!」
指揮官の怒声をもらっても、一度広がった混乱は容易く収まらない。
「オリゴス殿、予定通り退きましょう!」
年若い副官の弱気な発言に苛立ちながら、オリゴスは努めて冷静に判断を下した。
「ようし、敵を引きつけつつ、じわじわと下がれ」
* * *
敵陣の方からラッパが聞こえた。
「どうなりました!?」
ぴょんぴょん跳ねてみるが、胸壁の向こうはよく見えない。敵の矢が危ないというのでテロンに降ろされてしまったのだ。
「大活躍だね、人形兵は。敵が逃げてくよ……おっヘーロだ、分かりやすい金髪」
テロンがのんびり解説してくれる。隣の兵達も弓を下ろして壁の内側へ向き直った。矢の届かない位置まで敵が退いたんだろう。
「そうなると……残りはこっちだな」
オイトロンの声に、私も街を振り返る。眼下の広場には、着の身着のままの群衆がひしめいていた。
広場の奥には、ポロスの引く荷車も見えた。
「我らが船長殿が無事なうちに、これを全部外へ出さんと」
「デモフォンさんもあっちに……」
元々街にいた守備隊も、今日来た者も、パルテナイ兵はみな行列の殿を務めるはずだ。
海岸を見やるが、まだ敵の本隊は来ていないらしい。
(急がなきゃ……早く敵を蹴散らして、街の人を外へ)
それがデモフォンのためでもあるはず。
「私も外へ行きます。二人とも、守ってください」
「ええ?それが危ないからここにいるんだけど?」
テロンが素っ頓狂な声を上げた。
「でも、人形兵を動かさないと」
兵達の間をすり抜け、石段を駆け下りる。
結局、二人はついてきた。
「待て待て。そんな小っこいのに前行ったら踏まれっちまうぞ、こうしてこうして」
オイトロンにおぶってもらい、体ごと厚い皮のマントでくるみこむ。
「これも乗せとこうか。強情なんだから、まったく」
すっぽりと兜を被せられると、鼻当てが微妙に視界を遮った。
私の頭には大きいし、重い。オイトロンが歩くたびに耳の横でガラガラ揺れた。
城門を出ると味方はだいぶ進んでいて、前列へ追いつくまでにかなり人を押しのけた。
最前線から少し離れて、右手の崖際に張りつく。オイトロンは油断なく楯を構えていたが、まだ使う機会はなかった。
『方陣を崩すな!確実に敵を押し込め!』
喧噪の中でも人形兵は指示を聞き分けていた。だいぶ砕かれて数は減っていたが、それでも槍を引き受けながら味方を押し進めていく。
時折、前方で黄金の長い髪が翻る。ヘーロだ。槍を振るうたびに敵陣に穴が空いた。
「よし、これなら……」
しかしその時、後方で巨大な集団の動く気配。オイトロンにしがみついて振り返れないが、街から群衆が出てきたということはすぐに分かった。
「どうして!?まだ敵がいるのに!」
「海岸が陥ちたんだ、後ろから敵が来るぞ!」
テロンと同じことを、周りの男達も叫んでいた。
危機に陥ったのは後方だけではなかった。
「伏兵だ!」
誰かが悲鳴を上げる。
いつの間にか先頭は、峡谷の最も狭い部分に差し掛かっていた。十人並んで通れるかどうか。詰まったところへ、頭上から矢が降ってきた。
「いかん、流れ矢が来やがるぞ!」
オイトロンが大楯を高く持ち上げる。鈍い音と共に振動が伝わってきた。
前方で、ヘーロが上方に弓を放つのが見えた。崖の上から、黒い影が転がり落ちてくる。周りの味方も、弓を持つ者は上を狙っている。だが、位置が圧倒的に不利だ。
敵の矢は次々と降り注ぎ、反撃は次第に弱まっていく。
(全滅する)
『坂を登れ!射手を殺せ!』
狂乱をかき分けて神令は何とか人形兵に届いた。
槍も楯も投げ捨て、急斜面を這い上がっていく。左右に十人ずついるかどうか。もう残り少ない人形兵を、崖上の敵は狙い撃ちした。
人形兵がまた一体、穴だらけになって降ってきた。
何本矢を受けようが堪えないが、手足が砕ければ壁は登れなくなる。
「押すな!敵はまだいるんだ!」
「早く進まないと追手が来るぞ!」
周囲で男達が喚く。振り返らなくても、後ろが人で埋まっているのは明らかだった。
最後の一体が落ちる。弓兵を引きつけられる時間は尽きた。
その時、西からラッパの音が響いた。崖の上でも、下でも。
まだ何かあるのか、もう限界だ。そう思ったが、オイトロンだけがその合図を聞き分けた。
「俺たちの軍じゃねえか!?」
「嘘!?」
早すぎる。手紙は出したがまだ三日目だ。すぐに動いたとしても、ロータス河を遡って、マレアの平原を北上して、山間を抜けて……。
「リュキオンに栄光あれ!」
咄嗟に渦巻いた疑問を根こそぎ否定するように、敵の後方から鬨の声が上がった。もみくちゃになった戦場越しにでも分かる巨体の上で、牛頭が日差しにきらめく。
「エウクラトス様!」




