第55話 二度目の滅亡
「でも、逃げていくのに……」
もはや急造の壁に隠れる必要もない。
テロンの言葉に反して、五段櫂船は港から離れていく。
「そりゃここで戦うより、主力と合流する方がいいからね。パルテナイを片付けたらまた来るよ」
「じゃあ、もっと沖で海戦を……」
目を凝らしてみるが、それらしき影はまだ見えない。
だが確かに、新たに湾口に並んだ三段櫂船を数えてみれば十五隻。敵に足止めされたとはいえ少なすぎる。
(アルシアの援軍……)
レイリスにいた軍がそのまま来ているとすれば、数百隻の艦隊だ。ティグリスやレオニダスもいるのか。
「大丈夫なんですか……?イカロスさん達は」
「いやあ、駄目でしょ」
テロンは目をつむって首を振った。
「まあでもパルテナイの船の方が速いだろうし、いざとなったら逃げるよ。問題はいつあの執政官殿が見切りをつけるかだよ、その後はこっちに来るんだからね」
その時、街中にラッパの音が響いた。普段より低く、地を這うような響き。
「サルピンクス!」
「何かあったぞ」
周囲の男達が騒ぎ出す。
少し遅れて、伝令が浜を横切って駆けてきた。裸足の指から血が滲んでいる。
「街を捨てる!家に戻り、家族を集めろ!」
伝令はまた走り去り、辺りは大混乱に陥った。
パルテナイの兵だけを海岸に残して、男達が喚きながら街のあちこちへ散っていく。
「わ、私はどうすれば?」
「どうって、一緒に逃げるしかないだろ。海は無理だし、蛇口門の方へ行こうよ」
淡々とした声に頭が冷える。
(……テルクシオペー。連れて行かなきゃ)
まだ飛べはしない。どうにかして運ぶ必要があった。
「ポロス、ポロス!……あの人来てますか?」
「ああ、来てるよ。僕らの船だと的になっちゃうから、もっと大きいのに……」
テロンの言葉が終わるより速く、浜の右手から蹄の音が聞こえた。
一跳びで壁を越えて、ポロスが私の前に立つ。
「呼んだか?」
「よかった。『乗せてください』」
丸太のような胴身にまたがり、テロンを見下ろす。
「他の皆で、広場へ行っててください。私は寄り道していきます」
「そうなの?いいけど、急ぎなよ」
その言葉に頷いて、声を張り上げる。
『人形兵、西へ!門の前まで行進!獣人達は私についてきて!』
ピンダロスの家へ行くと、玄関先でメイコスが何やら巨大な荷車に壺を積んでいた。
(あれだ!)
「メイコスさん、それ!それ使わせてもらえませんか?」
「む、魔術師殿の声……うおおっ、ケンタウロス!?」
お互い無意味に叫びあう。
ポロスの背から降りて落ち着くまでに壺を一つ割らせてしまったが、中身は空だった。
「はービックリした。猿のことは聞いとりましたが」
胸をなで下ろしながら、メイコスはしげしげとポロスのへそ辺りを眺める。人体と馬体の境目が気になるようだ。
「その荷車にテルクシオペー……中のセイレーンを乗せてもらいたいんです」
「ふうむ、それはワシでなく……奥方様!お嬢様!ご用意はお済みですかな」
(家族がいたのか……)
家の中から、誰かが石段を降りてくる音がする。
二階には女部屋があったようだ。
やがて、老婦人と娘が隣り合って出てきた。
「こちらは魔術師殿ですじゃ。お車にセイレーンを乗せたいと……」
メイコスの説明を聞く母娘の態度は対照的だった。
母親の方は声こそ上げないが、身を縮めてポロスや獣人達を視界に入れまいと震える。しかし娘の方は、父譲りの灰眼をギョロギョロと動かして獣人を数えていた。
(足萎え……)
娘は母親の肩に掴まって右足を引いている。キトンの裾から覗く足首は、黒ずんで萎びていた。
「あなたが魔術師。街の仇を我が家に招き入れた」
灰色の視線がこちらを向いた。その瞳を真っ直ぐ見上げる。
「はい。どうか今一度お赦しを」
娘はしばらく無言だったが、次第にその口角が持ち上がる。端麗な細面がパックリ裂けるスゴい笑顔だ。
「いいでしょう。またも我らのアンテモエッサは滅ぶようですから。……母様、よろしいかしら」
母親は顔を伏せたままコクコクと頷く。
「ありがとうございます。じゃあポロス、この荷車を引いて」
「何だと。ケンタウロスに馬車馬の真似事を……」
『黙れ。従え』
途端に、大人しく引き手の間に挟まる。娘とメイコスが、楽しげに目を細めた。
「あら……」
「おほう、お見事」
「テルクシオペー、『私がいいと言うまで喋らないで、動かないでね』」
獣人達に運ばせて、テルクシオペーを荷台に乗せる。その横には母娘とメイコスが体を押し込む。
場所を空けるためポイポイと投げ捨てた壺は全部空だった。
「壺を積むより形が分かりにくくていいかもしれんですな。魔術師殿、そこの布を被せてくだされ」
「はい」
メイコスに従い、玄関にあった黒布を四人の上に被せる。
荷台を固定して、再びポロスにまたがった。
「それじゃ、出発します。……『広場へ!』」
広場と、その先の蛇口門に続く大路は人で埋まっていた。
「通してください!ピンダロス様の荷車です!」
大声で呼ばわるまでもなく、ポロスと獣人達を見て大抵の人は道を空けてくれた。
だが、大路が途切れ広場に入るとその余裕すらなさそうだった。
「おお、魔術師殿」
「……アイソポスさん」
横合いから声をかけられる。相変わらずくたびれた鎧姿が立っていた。
「実にお久しぶりですな。すぐ会えるものと思っとったが」
流れるようなイヤミは無視する。
「よかった、ちょっとこの車見ててください」
「は?」
アンテモエッサでは、リュキオン兵のアイソポスも私と変わらない立場だろう。でもポロス達だけ残すよりマシだ。
『荷車を守れ!』
獣人達に神令を投げてポロスから飛び降り、人波をかき分け門へ向かう。
「戦える者は前を固めろ!」
「女子供は前が空いてからだ」
城壁の上も下も、みっちりと兵が詰めかける。
その最前列、紅い蛇口門のすぐ手前には、命令通り人形兵が整列していた。すぐ傍で、ヘーロ達がピンダロスと何か話している。
喧噪の中、彼らだけに奇妙な静寂があった。
「ピンダロス様!」
「む、来たか。この土人形はお前の兵だそうだな」
息せき切って駆けつけた私を、怜悧な視線が見下ろす。
痩せこけた顔は普段とまったく変わらない。淡々と、街を放棄する算段をつけていた。
「はい。魔術で動きます」
「痛みも疲れも、恐れも感じないそうだな」
「そうです」
灰色の瞳が爛々と光を放つ。
「では、先頭を任せよう。……この先の敵を退かさねば退路はない。門が開いた後、敵陣へ突撃させろ」
ピンダロスの指令で武具が運ばれてくる。人形兵達が獣皮を張った大楯を構え、どす黒い色の滲んだ槍を捧げ持った。
いくつかは敵兵から奪った楯だ。蛇の絵が描いてある。
「お前までここにいることもあるまいよ。命令は上からでいいだろ」
ヘーロがチョイチョイと城壁を指す。
「……ヘーロはどうするんですか?」
「アタシは行くさ」
そうだろうな。
「……怪我しないでくださいね」
「あいよ」
微笑むと、ヘーロは門へ向き直った。
「じゃあ僕らはどいてようか」
人形兵の後ろを、アンテモエッサの男達が埋めていく。
テロンとオイトロンに連れられ、門の前を離れた。
門の脇の石段を登り、城壁の上へ。
守備兵達はまだ弓を構えていない。静かに敵と睨み合っていた。
隊列に体を割り込ませるようにして、場所を空けてもらう。
「テロン、ちょっとお願いします」
胸壁が高くて外が見えない。テロンに抱えてもらった。
敵は街からの退却を読んでいたらしく、門の外には静かに兵が整列していた。
数は以前と同程度だが葦原のように槍を並べて、手ぐすね引いて待っているという雰囲気だ。
「あれに、突撃を……」
深呼吸して号令を待っていると、オイトロンに肩を叩かれた。
「リュキオンの出番だな」
「え?」
「戦法さ。楯をみっちり並べて、そこへ槍を突き出すわけよ。陣の名前は……」
「ようし、行くぞ!」
ピンダロスの号令が飛んだ。隣の兵達が一斉に矢をつがえる。
足下で、分厚い木の門が軋みながら開いていく。
『方陣!』




