第52話 北風のトリバロス
スミレ色のマントを翻し、ピンダロスは北へ駆けた。慌てて私も後を追う。
「ヒーメロペー、『着いてきて』!」
わずかに迷ったが、そう命令を出した。
ここにセイレーンの味方はいない。ピンダロスの側にいたほうがいくらか安全だ。
地面を歩くのは不得手なのだろう、懸命に、跳ねるようにして着いてくる。
白壁の家々が途切れ、商人街らしき一角へ入った。日よけ布を張った露店が立ち並んでいる。
だが今は商売もしていないのだろう。軒先に品物はなく、麻袋や壺がポツポツと置いてあるばかりだ。
「ピンダロス殿!」
同時に、露店の通りへ手に手に槍を持って男達が集まってきた。パルテナイ兵らしき兜姿も見える。
ヒーメロペーを見て即座に身構えるが、ピンダロスが手で制した。
「これはいい。敵は北だ!」
通りの端は蛇舌岬の絶壁に面していた。
いちおう柵が設けられていたが、せいぜい私の背丈程度のものだ。
その手前で、何人かの守備兵が倒れていた。黒い影が柵を軽々と飛び越して街に入ってくる。
「猿か!?」
「獣人軍だ!」
男達が槍を突き出すが、かすりもしない。
影が走った瞬間、先頭の味方が首から血を噴いた。
猿の獣人達は露店の木組みを足場にして、瞬く間に頭上を駆け抜けてゆく。
「蛇口門へ行く気か!?止めろ、止めるんだ!」
ピンダロスが叫んだ。
ラッパが鳴ったのは先ほどのことだから、もう敵は門へ向かっていて、ここにいるのは最後尾だろう。
『山野を駆ける我が主、黄金の弓の狩人、最も純潔なる乙女、どうか私に御力を……』
足では、神令から逃れられない。
すでに背中を見せていた敵が十人ほど、凍りついたように動きを止める。
『殺せ!街の敵を排除しろ!』
命を受けて、再び動き出した。ただし全く別の目的で。
「もしや、今のが魔術か?あれらを操ったのか」
「はい、殺しに行かせました……同族を」
ヒーメロペーの顔を見ないようにして答えると、ピンダロスはすぐに西を向いた。
「よくやった。…………よし、おのれらは警報に走れ!門と……食料庫に兵を回す。岬の見張りと、港の護り以外の者は全てだ!」
再び石造りの家屋が並ぶ街路を駆け抜け、蛇口門へ向かう。
縛霊の魔術は、効果的だった。
屋根伝いに移動する獣人達は、地上からの攻撃をことごとく躱していたが、味方の攻撃には対応できなかった。
混乱しているうちに喉を切られるか、あるいは取っ組み合った隙をもろとも的にされるか。
今また一人の敵が、驚いて落ちてきたところを串刺しになった。
「いいぞ!さほど敵は多くないようだ。この分なら……」
賞賛には答えず、より多くの敵を操ることだけに専念する。
「魔術師を守れ!敵は飛び道具を持っておらん。囲んで走るのだ」
ピンダロスは、短時間で私の使い方を理解していた。
突然視界が開ける。城門の手前には広場があった。
暗い石の城壁、紅い樫の門に向かう大路に、死体が散乱している。
城壁の上にも下にも兵がいたが、上の兵はこちらを見ていない。
(門の外にも敵が)
そして下は、次第に押し込まれている。
大楯を構えて門を守る守備兵達の間を、猿の黒影が、そして巨大な白い塊が跳ね回っていた。
(アレも……獣人?)
疑問に思う間もなく、操っていた獣人達がその巨体に躍りかかった。
「バカな、何をしている!?」
驚きの声を上げながら、それは味方を迎撃した。
ゴシャッ。
殴られて地面にたたきつけられた獣人は、ピクリともしない。
「クソッ、魔術師か!」
広場の真ん中まで跳び退り、その男はこちらを見た。
獣人らしい緑の瞳と視線が絡む。
ヘーロ並に巨大な獣人だった。長い爪が血に染まり、白い体毛にも紅いまだらが飛んでいる。
「あれが頭か?やれ!」
「はい、『止まれ!』」
ピンダロスに言われるまでもなく、術を仕掛けていた。
しかし、止まらない。周囲を警戒したまま小刻みに足踏みを続けていた。
(……えっ?)
心なしか向こうも怪訝な顔をしている。神令は届いたはずだ。
『我が主、ポエベー、アルテミス様……』
呪言を唱え直し、女神の御名を口にした。神力が限りなく満ちてゆくのを感じる。
だが結果は同じだった。
(獣人なのに……)
ヒュドラを相手にしたときと同じ。まるで霊を縛れそうな気配がない。
考えている場合ではない。とにかく、私の術は効かない。
そのことを男も、ピンダロスも見てとった。
獣人らしい緑の眼光がこちらを向き、四つん這いになった。
比較的人間に近かった外見が変貌してゆく。太股が膨れ上がり、体毛が逆立ち、長い牙が覗いた。
(獣に……)
「いかん、守れ!」
槍を突き出して、私の前に人の壁ができる。
「お前らで門を開けろ!魔術師は俺が!」
完全に白猿の姿になった男は、門に背を向けこちらへ突進してきた。
「お前は術を続けろ、周りの猿でいい、奴に当てて数を減らせ!」
確かに、それが最善と思われた。
しかし、白猿の突撃は尋常ではなかった。
上に横に飛び跳ね、あれだけ大きい的を全く掴ませない。ますます長くなった爪が、男達の喉笛をえぐり取っていった。
じりじりと、急造の防衛線が後退し、私たちは広場から離れつつあった。
(遠い。操れない)
しかも、残りの獣人達が先の指示で全て門へ行った。広場をはさんで味方は分断され、私の声はもう届かない。
すでに縛霊をしていた獣人、最後の一人が白い尾の締め付けで首をへし折られた。
(行くしかない。向こうへ)
「ピンダロス様!私を射たせないでください!」
そう言って、背後を振り向いた。
「ヒーメロペー、『飛んで』!」
明らかに怯えていたが、本人の意思は関係ない。
今まさに囲みを破りつつあった白猿の牙を逃れて、私たちは舞い上がった。
「大丈夫。獣人は弓を持ってない。テルクシオペーみたいにはならない。投げてくる物にだけ注意して」
激しく震えるヒーメロペーをなだめつつ、門の方へ向かう。
上空から見ると、門の外にも敵が押し寄せていた。
城壁の上から、アンテモエッサの兵が弓を射かけているが、隊列は城壁にとりつき始めていた。
(千人?もっと?)
梯子のようなものを城壁にかけようとしている。
さらに列の奥から、巨大な丸太が車輪に乗ってやってくる。
(あれを門にぶつけるのか?……使われる前に、内側で備えを!)
『殺せ!』
獣人達が同士討ちを始めた。
次第に多くの獣人が、私の支配下に入っていく。
白猿も再び門を攻撃しに来たが、門へ触る前に味方と戦わなければならない。
「門を押さえてください、敵が破りに来ます!」
守備隊のいくらかを割く余裕もできた。
「ヒイッ!」
が、その時矢が飛んできた。門の外から城壁の兵を狙った一矢が、逸れてここまで来たのだ。
悲鳴を上げてヒーメロペーが横へ躱す。
それを躱せたのは偶然だった。
矢を避けた瞬間、下から噴き上がった白い霧がその矢を粉々に砕いた。
その霧は日光を浴びてキラキラと輝く。針、いや、長く太い体毛だった。
(毛を吹いた……のか?)
下を見ると、白い巨体は味方との戦いに戻っていた。間違いなく、あれの体毛だ。
投げつけたわけではあるまい。おそらくは桁外れの息で飛ばしてきた。
(まずい。あれは弓より強い)
もうかなりの数を操った。十分だ。
『もっと高く!逃げるよ!』
しかし、毛針の追撃は来なかった。
獣人の数が半分くらいになったところで、敵は一斉に退却した。
『追わなくていい!そこに留まれ』
私がすでに操った敵はその場に残り、門を押さえるのを手伝った。
やがてどこかで角笛が鳴り、門の外にいた敵も下がっていく。
その日、アンテモエッサは持ちこたえた。




