第42話 決戦・レイリス島⑥毒蛇 対 鋸壁
「ほほう、手打ちとな」
その提案を聞いても、カッサンドラは驚かなかった。
「左様。お互いに兵を退き、このレイリスを元の形へ戻すべきだ」
「……」
楽しげな視線を受けながらデイオンは続けた。
「見ての通り、マンドラ湾が封鎖された。もはやこの島は寄港地の用をなさぬ。奪い合う意味もあるまい」
「そのようだのう……今のところは、だが」
艶めく黒の瞳が左手に並ぶ柱の隙間、その向こうに見える湾口の巨影を見やった。
「しかし、どのみち我々は西へ行くぞ。ここで決着をつけておいた方がよいのではないかな?」
デイオンの眉が寄った。数多の戦場で年季を重ねた灰色の眼光が、鋭くカッサンドラを睨む。
「……影浜にリュキオン勢が踏み入った頃だろう。……それはつまり海でも、パルテナイとケファロニアの足枷はなくなったということだ」
クツクツと、白い喉の奥から押し殺した笑いが響く。
「だからそちらが有利だと?勘違いしてはいかんぞ。……レオニダスが影浜へ向かった、陸の勝利は期待しないことじゃ。海とて同じ、その足枷をつけている間にだいぶ船が減ったではないか。それでティグリスに勝てるかの?」
戦況は明らかに不利だったが、動揺を見せるデイオンではない。
「西方大陸で最大の国が控えている。……セイリオスが到着すれば海戦の形勢は逆転。浜に上がる人数も増えるだろう」
「なぜそのセイリオスが来なんだか、考えた方がいいのう」
しかし、あでやかな笑みは深くなるばかりだった。
「教えておこう。我がアルシアの八牙刃のうち、四人が海を渡っておる。だが今レイリスにおるのはレオニダスとティグリスだけじゃ」
「……巨像を動かしたのは、我が方の魔術師だ。あれが戦えば兵力の多寡など容易く覆る」
表情を消したその言葉に、カッサンドラはついに声を上げて笑った。
「ハッハハハ!……ハッタリはよした方がいいのう。そんな霊で動くシロモノかや?与霊の魔術のことはあまり知らんと見ゆる」
ひとしきり笑ったあと、ふと思案にふける。
「――とは言え羨ましい。これほどの使い手は他におるまい。……そうじゃ、その魔術師をくれるなら、手打ちを聞かぬでもないぞ」
慎重に、デイオンは口を開いた。
「魔術師は我がヘリケーの人間ではない、儂が今返答することはできん。会談の席を設けねば」
「ハハハ、結局そこへ持っていきたいのじゃな」
絹のドレスを翻し、カッサンドラは立ち上がった。
「お主より口の上手い者が待っていそうだが……まあよかろ。クレーメース、翼信じゃ!」
入り口の垂れ幕の向こうで、何人かが動いた。
* * *
影浜では、リュキオンの方陣が防護柵に迫っていた。
手前の濠には次々と土嚢や丸太が、兵の足場を築きつつある。
「柵に触らせるな!間断なく放て!」
そう言う間にもジリジリと近づいてくる鉄の芋虫たちに、指揮官――コルデーはすでに敗北を予感していた。何度矢を射っても無為に終わる感触は初めてではなかった。
黒頭巾の奥で、唇を噛みしめる。
撤退。その二文字が頭に浮かんだとき、コルデーのすぐ横に黄金の巨体が現れた。
「押されているな。黒鷲」
「レオニダス…………様」
「続けろ、あの陣形は崩しておく」
レオニダスが両手を、いや前足を地に着けた。鼻面が伸び、背が盛り上がる。
瞬きの間に黄金の獅子が出現していた。
爪の一振りで、方陣の前列が吹き飛んだ。
突き出された槍が、ことごとくへし折れた。
「今だ、放て!」
盾の列から零れた者を、レオニダスもろとも矢の雨が襲う。黄金の毛皮には傷一つつかなかったが、リュキオン兵は紅い血に沈んだ。
いくつかの方陣を屠ったレオニダスは、やがて最も重要な敵を見つけた。
浜の中央に立つエウモルフォスへ突進する。
「あれが……レオニダス……」
アルシア最強の英雄を前にして、しかしこの王子は退かなかった。
その瞳は、黄金の獅子の背後に青銅の牛を映していた。
「下がっていろ、続けて柵を目指せ!」
兵たちを下がらせ、大楯を投げ捨て、トネリコの長槍を両手で固く握りしめる。
咆哮を上げる口中めがけて突き出した。
レオニダスが鉄の穂先を噛み砕き、エウモルフォスの首筋に狙いを定めたとき。
「ご注進!ご注進!太后のお言葉!」
遥か高くから声が響いた。上空を飛ぶのは、傍目には巨大なカラス。
それは世にも珍しい、鳥の獣人であった。
* * *
レイリス島、南方の洋上。
傾く丸船の甲板で、デニケスはまだ槍を振るっていた。
「わずかでも時を稼げ!一矢でも多く使わせろ!」
残りわずかのリュキオン兵が、再び大楯を構える。
しかしすでに矢を凌ぐ段階は終わり、複数の五段櫂船が丸船に激突していた。
槍を躱し楯を跳び越える猿の獣人軍が、船上の至る所を駆け回る。
「ぬう」
首筋に迫る短剣を辛うじて掴み止めたデニケスは、そのまま敵と一緒にもんどり打って海へ転げ落ちた。
空いた手で喉笛を握り潰して猿獣人を仕留め、船を見上げると、陽光にきらめく青銅の穂先。
獣人たちが、兵の手から奪った槍を構えていた。
『そのまま動くな!』
その時、少女の声が響いた。雷に打たれたように、槍を投げ込む手が止まる。
滑るように五十人櫂船がデニケスへ寄ってきた。
「……魔術師か!」
「おう、デニケス殿。お早く」
アイソポスが緊張感のない笑みを浮かべながら、防具を着けたままのデニケスを一息で引きあげた。
「ゴホッ……」
「おやまあ。これまた派手にやられなさった」
『漕げ!』
デニケスの出血を調べる間もなく、船は一目散に逃走を始めた。
「死に損なったか……」
「いやあ、残念ながらとても逃げ切れるとは…………ん?」
アイソポスの目に、島から飛んでくる巨大な翼影が映った。
「ご注進!」




