第39話 決戦・レイリス島③白猿 対 最速
入り江を見下ろすレイリス島の中心、カメロスの丘。そこには、迷宮の名を持つ宮殿がそびえ立っていた。
「なんじゃあれは?段取りがメチャクチャではないか」
王の間から、黒髪の女性が身を乗り出した。
視線の先には、艦隊を沖へ叩きだした巨像。下半身を海に沈めながら、完全に湾の入り口を封鎖していた。
「与霊の魔術を用いる者が敵にいるらしい」
応じたのは、獅子の獣人――アルシア最大の英雄、レオニダスであった。
牙の間から、唸るような低い声が漏れる。
「ティグリスの奴が逃がしたとかいう娘っこか?半端な仕事しおって、あのたわけ」
「そういうな。殺すか、こちらに迎えるかすればいい。……それに、この展開も悪くはない」
「そうなのか?……見えんのう。どうなっとるんじゃ?」
細い柳眉をぎゅっと寄せて沖を眺めるが、遥か沖合の海戦は霞の中。
しかしレオニダスの緑の瞳には、アルシアの優勢が鮮明に写っていた。
「丸船に戦場を迂回させ、島に兵を送りたいようだな。パルテナイの三段櫂船は無理に広がって我が方を抑え込んでいる。ケファロニアのイルカ船も見えるが、数が少ない。……長くは続かん。囲みを破り、丸船を沈めれば終わりだ」
* * *
レオニダスの予言通り、奮戦むなしくパルテナイの包囲網は崩れつつあった。
五段櫂船は大損害を出しながらも、確実に丸船の隊へ近づいていた。
そんな中、船陣の右翼。動きもなく取り残された船が一隻。
「どうすんだこれ、動かないまま敵さん来ちまうって。……ニキッペのアホはいつになったら団体行動を覚えるんだよ!おいテロン、お前の躾がなってないからだぞ」
「そんなこと言われても。だいたいなんであの巨像で追撃しないんだ?魔術で動かしたんじゃないの?」
漕ぎ手の霊を込められた人形兵たちは、主が不在でもそのまま船を維持する。しかし、それ以上のことはしなかった。
結果として、五十人櫂船は丸船から取り残され、ただ海を揺蕩っていた。
「なあ大将、追い風だろ?もう帆張って前行っちまったらどうよ?」
「バカ言わないで。漕ぎ手に指示できないで、どうやって五段櫂船と戦うんだ。……こうなったら僕らで少しでも漕いで戦場を離れ……」
デモフォンが指示を出しかけたとき、その目前で三段櫂船が破壊された。
「あッ、来やがった」
* * *
三百隻を数えるアルシアの五段櫂船、その一つを指揮するシロスは人間ではなかった。
体を覆う白い体毛に、長い尾。赤い肌には無数の傷が刻まれ、緑の瞳は抉られて一つだけ。老境に至る大猿の獣人であった。
出身は東方大陸北西岸、イスキアの街。愚かにも人間に近づいた母親は、シロスの右眼と一緒に死んだ。
シロスはその後、三十でアルシアの獣人軍に加わり、今や一部隊を任されるまでになっていた。
船上には、東西から集まった大猿の同族たち。そして漕ぎ手の奴隷は人間、中にはイスキアの者もいる。
三段櫂船の残骸を乗り越えたシロスの隻眼に、動きの鈍い小船が映る。
なぜ、こんなところに一隻だけ五十人櫂船があるのか分からない。しかし甲板の男はスミレ色のマントに兜飾り、敵ではあるようだ。
敵と名のつくものに対するシロスの執着が、丸船を追うという本来の目的を上回った。
「踏み潰せ」
しわがれた声が響いたその時。一つの影が船を飛び移った。
「へえ。これが獣人軍ってやつか」
五段櫂船の舳先に降り立ったヘーロマケーは、手近な猿獣人の喉を槍の穂先で裂きながら甲板を眺め回した。
「エテ公がよくもまあこんなに……どれが大将かな?」
軽口には応ぜず、獣人たちは基本通り三方から間合いを詰めた。
猿の獣人は長物も盾も持たない。俊敏な動きで攪乱し、軽い短剣で喉を掻き切る。人間などそれで十分なのだ。
しかし、今日の敵は常と違っていた。
必殺の剣がすべて空を切る。次の瞬間には、胸を貫かれた三人が海へ落ちていった。
「何をしている!さっさとあの船に当たらんか!」
怯む部下たちの前へ出て仁王立ちになり、シロスは再び漕ぎ手を叱咤した。
「おっ、アンタがエラいのか。よしよし……ん?」
ほくそ笑むヘーロマケーの前で、シロスが前屈みになった。
「相手は獣人だ、獣になるぞ!」
小船からテロンの警告が飛ぶ。まさしく大猿の獣人は、完全な猿の形になろうとしていた。
牙を剥きだし、白銀の体毛を全身に逆立てる。
「はっはあ」
巨大な白猿を前に、ヘーロマケーは矢筒から一本を取りだし――弓を構えるでなくそのまま投げた。
奇妙な動きに一瞬戸惑いながらも、獣の反射神経は正確に反応していた。
瞬時に甲板を蹴ってマストへ飛び上がり、尾で体を固定する。矢はわずかに足先をかすめるにとどまった。
しかし、それが命取りだった、急激にシロスの意識は遠のき、甲板へ落下する。
「ワルいね。ちょっと鏃が特別でね」
その謝罪も、槍が頭蓋を貫通する音も、シロスは聞かずに済んだ。
一瞬の決着も、しかし階下の漕ぎ手たちには無関係だった。
最後の命令を忠実に実行し、船を前進させる。
「あっ、やば。おい、そっちでなんとか――」
『右へ!』
上空から響いた声に、人形兵は即座に反応した。一斉に櫂が動き、巨船の突撃を紙一重で躱す。




