第34話 パルテナイへの旅路④セイレーン哀歌
『おいで、おいで……』
『シンゴスの御座に降りたもう、黒熊を御する我が主』
呪言を唱えるたびに、セイレーンの誘い声が遠くなっていった。
頭の中の霞が晴れ、神力が体を満たす。
『おいで、おいで……。おいで……』
『稚児を愛で、産みの痛みを拭い去る。乙女にして母なる御方』
白砂を踏む足指を、サンダルの上から波が洗う。
誘い通り近づきながら呪言を止めない私に、セイレーンたちの顔にははっきりと動揺が顕れていた。
『聞け!千矢をそそぐアルテミスの神令!』
女神の御名を口にしたとき、満月の光が一層輝いた。
背後に複数の気配を感じる。騒ぎに気づいて皆が集まってきたようだった。
他はともかくヘーロとエレウスは耳栓をすれば、セイレーンの神令もどきを浴びても戦えるだろう。特にヘーロは、新しく作った青銅羽の矢を使いたがっているはずだ。
(でも駄目)
右の手のひらを後ろへ向けて、後続を制止する。私がやるのだ。
『殺せ!喉食い破って果てろ!』
唄が止まり、鮮血が上がる。
セイレーン同士が噛み合い、一頭が夜の海へ転げ落ちた。
波間の岩に残るのが二頭になったとき、肩に大きな手が置かれた。流れる金髪が視界の端に映る。
「ヘーロ……」
「止めときな。アレは使ったほうがいい」
もっともな提案だった。間違いなくセイレーンは便利だ。
「でも!人を喰ったんですよ!」
「アタシもやったぞ」
(……えっ?)
何を言われたのか分からなかった。
「さんざ殺したし、喰ったこともある。後ろの連中にしたって人殺しの名人ばっかりだ。喰うためにやってるだけアイツらのほうがマシってもんだ」
急速に、頭から熱がひいていく。
「お前だって、その予定があるんだろ?いいから呼びなって」
反論する気になれなかった。
『ここへ来い』
鷹のような翼をたたんで、二頭が浜に降り立った。鳥としては桁外れに大きく、身をかがめても目線の高さは私と変わらない。
近くで見ると、胸より上はどう見ても人間の女性だ。
豊かな黒髪も、白い肌もまだらに紅く染まっていた。カタカタと震える口元から血が滴り落ちる。
『もう二度と、人を喰うことはない。私の許しなく歌うことも』
俯いていた二頭がはっと私を見た。
顔は女性だが、眼は違う。黄色の中に円い黒の瞳を浮かべた、猛禽のような視線が激しく揺れていた。
その目を見ていると、私を支える何かが揺らぎそうになってくる。
『いいと言うまでそこにいろ』
それだけ言って、海に背を向けた。
皆が寝静まった後、テントを抜け出した。
スミレの花々の脇に座り、浜を眺める。セイレーンたちはまだ浜に座って動かない。遠くの岩礁には、一頭の骸が引っかかっていた。
「ヘーロはね、君の代わりに殺してやるって言いたかったんだよ。あのティグリスを」
「!……テロン……」
背後からの声に振り向くと、涼やかな黒い瞳と目が合った。
「戦うの大好きだから、どの道やっちゃうかもしれないけど。……手を汚すのは辛いだろ?」
隣に腰を下ろし、テロンは私の肩を抱いた。
「まあでも。あれは人の形をした獣、気にすることはないさ」
(……)
何を思ってそれを言っているのか。ヘーロに比べてテロンの慰めは剥き身すぎる。
肩に置かれた長い指をまとめて握った。
「いいえ、後悔してます。人を殺したのと同じ……でもやめません」
自分で頼んでついてきたのだ。苦しくなったらヘーロやテロンに肩代わりしてもらおうなんて。
「……私、お母さんに会いたいです」
そう言うと、テロンは静かに微笑んだ。
「こんな感じかな」
瞬く間に姿が変わる。私と同じ、明るい栗色の髪がふわりと広がり、青い瞳がニコリと細められた。
「髪は私より長いです。それに、もうちょっと細面で、鼻も高くって……」
そう言ったがもう顔は見ていなかった。胸に顔を埋めると、柔らかな手のひらが背中を撫でてくれた。
翌朝早く、アンテモエッサ島を出発した。
「また岩礁があるぞ。右へ避けるんだ」
エレウスの声に従い、船が蛇行する。
「なかなかよくなってきたな。土の人形も学習するのか」
「人形兵は魔術師の込めた霊で動きますから。私が船の動きを覚えれば、それだけよい漕ぎ手の霊を込められます」
ほう、と感心したようなため息がかえってきた。
「便利なものだな……ともあれ、この分なら直にこの海域は抜けられよう。相変わらず風は悪いが、急がねばならん。遅れているのだからな」
「あー、ちょっとニキッペ」
マストに寄りかかっていたヘーロが、舳先へ歩いてきた。
「これやるよ。約束してたもんな」
そう言って手渡されたのは、白木の鞘に収まった短剣。鞘には長い牛革が巻かれ、腰帯になっていた。
「怪鳥群のときの。ありがとうございます」
初めての、ヘーロからの贈り物。腰帯を締め、左腰に短剣を下げる。
「これで切れば、大抵の者は死にますね……」
堅い木の柄を握る。鞘に収まっているのは、ヒュドラの毒を浴びた青銅の刃。
「そうだな。まあ有名どころはアタシがもらうけどな」
ヘーロが獰猛な笑みを見せると、エレウスが乗ってきた。
「それは困る。私にも大将首を上げねばならん事情があるのだ……ん?」
セイレーンが一頭、船へ近づいてきていた。
「見てきました。ほかのフネはありませんでした」
舳先にとまり、俯いたまま偵察結果を報告する。
「鳥の偵察も便利だったが、人語を話すとなるともはや反則だな」
ため息をつくエレウス。
「……もう片方は?」
「イモウトは、もっと遠くまで」
(イモウト?……妹か)
私が問いかけても顔を上げず、翼で北を指し示す。わずかに肩を震わせて、決して目を合わせようとしない。
「お前ら姉妹なのかよ。名前もあんの?」
ヘーロの問いには答えようとしない。軽く睨むと、ためらいがちに口を開いた。
「ワタシはヒーメロペー。イモウトは、テルクシオペーといいます」
昼過ぎには岩礁の連続も終わり、穏やかな海に入った。
疲れを知らない人形兵は全力でこぎ続け、船はしぶきを上げて進む。
やがてもう一頭――テルクシオペーが帰ってきた。
「フネです。たくさんいました」




