第13話 リュキオンとヒュドラ
エウクラトス様に連れられて、神殿の裏手、祭儀の場から離れた斜面に腰を下ろす。
祭りの喧噪を遠くに聞きながら、なぜかポツンとあるオリーブの木にもたれかかる。
「きれいです。もうすぐ月が満ちますね」
見上げると、夜空には丸い大鏡。あと少しだけ、ふくらむ余地を残している。
「カルネイアの……祭りは……最後の日が、満月だ……。好きか?月夜が……」
「はい。あの御方が、私の仕える主ですから」
心なしか、いつもより声が明るい。
どうもこの方は、とっとと人のいるところを離れたかったんじゃなかろうか。
(まあ、私だって人混みはキライだけど……)
「それでエウクラトス様、私の任務というのは……」
「ああ……水蛇の……制伏だ」
「ヒュドラ!?」
予想もしない名前だった。不死身の毒蛇。神話の時代の怪物だ。
「お話でしか聞いたことないですけど……あの、今も生きてるんですか?」
生きてなきゃこんな話が来るはずないのだが、思わず間抜けな質問をする。
「ふふ……。我々には…………魔術師も、大差ないが……。そう……実在する。……ここより、東に三日、大森林の……中心……レルネの、沼が……住処だ」
牛頭の奥で低く笑う声は、やっぱりちょっと楽しそうだ。
「あのお、私の知ってる話だと、ヒュドラはもう退治されてるんですが……」
「……ほう。どういう、話を……聞いたんだ……?」
「えっと……」
大ババ様の、のんびりしたしわがれ声を思い出す。魔獣ヒュドラは……。
「魔獣ヒュドラは、母なる大地の眷属。厄災と腐毒の息子。その吐息は地にあるすべての肉を蝕み、霊を侵す。その首を落とせば、たちまち倍の首が生え出ずる不死の魔物。しかしある時、怪力の勇者が、炎をもってこれを滅した……」
一通り話し終えて、ふうと息をつく。
「こんなところだったと思いますが……」
「それは……途中で……話が、切れている。……んんっ」
声がくぐもるのを気にしたのだろう。咳払いを一つして、エウクラトス様は牛頭を脱ぐ。それどころか、口の包帯を外しはじめる。慌てて止めたけれど、手で制されてしまう。
「すまない。なるべく、流暢に……話す」
包帯を外すと、へーロに裂かれた口元が露わになる。元々は左に歪んでいた口元だが、パックリ裂けてしまってもはや原型がよく分からない。
血は止まっているようだが、早く包帯を戻してほしい。
「……さて、ヒュドラ、自体は……おおむね、君の、言うとおりの……怪物だ。そして、確かに……かつて、ある英雄が……これに……打ち勝った。我が祖……東西無双の、アルカイオスだ……」
祖先。ということは、リュキオンの人間だ。二つある王家の、エウクラトス様のほうだから……。
「ミノス王家の方だったんですね」
「ああ……いや。王家は……まだなかった。アルカイオスより、四代…………建国の祖は、リュコスという。今の二王家は、リュコスの、息子たちから…………始まっている」
もっと昔の話だったらしい。ドーロン様が建国は三百年前と言ってたから、それ以前だ。
「話を、戻すが……アルカイオスは、ヒュドラを……殺せていない。首を、焼いても……再生は、止まらず……。やむなく、大岩で……首を、潰し……動きを……封じた」
「それで終わらないんですね?」
「ああ……。リュコスの、代になって……何者かが……岩を、動かした。以来……ヒュドラは、再び……自由と……なっている……」
そこまで言って、夜空を向いて少し遠い目をする。先祖に思いを馳せているんだろうか。
思いっきり体重を預けられて、きしむオリーブが痛ましい。
今日のエウクラトス様は能弁だ。
お気に入りの英雄譚なのかもしれない。本当に宣言通り、かなり流暢に喋っている。
(……まさかこのヒト、口の歪みで声を出しにくかっただけで、それなりに話し好きなんじゃ……)
「ふう。……いっそ、裂いてしまえば……これも、なかなか、快適な……」
あ、やっぱり。
わざわざ口をパクパクさせながら、ニンマリと笑っている。怖い。
「ダメですよ、ちゃんと治さないと……」
「フフフ……」
「いや、フフフじゃなくて」
たしなめていると、急に太い首がグルンとこちらへ回る。落ちくぼんだ黒い瞳と視線が絡む。
「どのみち、この顔だ…………。君も、醜いと……思うだろう?」
(その質問はナニ?)
肯定したらいくらなんでも失礼だろうが、否定したら嘘になる。私にどうしろというんだ。
と、エウクラトス様の瞳に答えが書いてあった。雨に濡れた子犬のように、我が身の哀れを訴えている。
覆面生活のせいだろうか、顔から感情を消せていない。
(慰めてほしいのか……)
意外に弱気な方だ。
しかし、ここは真面目に答えるべきだろう。どう考えてもエウクラトス様は、顔の悩みなど忘れてご自分の長所に目を向けるべきだ。
「王子のお考えは分かりませんが、魔術師にとっては、肉はしょせん霊の器ですから。肉に恋々として霊を病ませるのは、未熟者のすることです」
しまった。言い終えてから後悔する。後半はどう聞いてもイヤミだ。
エウクラトス様はうつむいて動かない。お怒りだったらどうしよう。殴られたら死ぬ。いやそれより、ヘーロやドーロン様に迷惑が……。
「あの、申し訳……」
「ハハ……ハッ、ハッ!」
突然の大声にビックリして言葉を止めてしまう。大声といってもヘーロほどじゃないのだが、エウクラトス様にしては信じがたい音量だ。
肩をふるわせて呵々大笑……してるんだろうか。大口を開けることに慣れてないのか、奇妙な息の吐き方になっている。
「そうか、私は……未熟か…………ハッ、ハハ!」
「ちょっと!傷が、傷が開きますってば!」
治りかけの皮膚が思い切り引っ張られている。
「それで、どうして今になって?」
やっと笑い終えたエウクラトス様に、話の続きを促す。
大岩が動かされたのはリュコスの代、すなわち建国期、三百年前のはずだ。つまり、三百年間ヒュドラを放置してきたということだ。
「アー…………ウム。復活した、ヒュドラは、森から……あまり……出てこなく、なった。それに……ヒュドラを、倒せる者も……いなかった。挑戦者は、いたようだが…………」
あえて対処する必要も、手段もなかったということらしい。
しかし、さっきの高笑い、いやバカ笑いと対照的に、エウクラトス様の表情は固い。ヒュドラを放置してきたことに対して、思うところがあるようだ。
「だが、最大の、理由は……レルネの……地が……必要に、なったからだ…………戦の、ために」
(……!)
最後の言葉……戦の相手は、つまりアルシア帝国だ。
「彼の地は……大なる……ロータス川、河口の……ほど近く……海の外と……戦うならば……抑えねば……」
「はあ……」
「木も欲しい…………東との、戦は……初めてだ。我々には……船が、足りぬ。…………軍船に、堪える……古い……堅木の、森など……そうは……ない」
ラトス島で見た、ティグリスの軍船を思い出す。長大な木を削り出し、百人を支える巨船。
翻って、リュキオン周辺の景色は基本的にだだっ広い平原だ。森はあるが低木ばかり、大きな船は作れそうにない。
「それに、私は……ぜひ。同盟を……」
プシッ。
まだ何か言いかけていたエウクラトス様の口元が血に染まる。傷が開いたのだ。
「ああー……、言ったのに……。あんまりお口を開けるから……」
「まあ……構わぬ。肉には……頓着、せずに……」
「ダメです。早く治療してきてください」
すかさず文句を言うと、エウクラトス様は渋々立ち上がった。大重量から解放された背もたれの木がバサリと揺れて、元に戻る。
「では……少し……席を、外す……。ついでに……何か、食べ物でも……持って、こよう……」
相変わらず音もなく巨体が歩き去ってしまうと、辺りに静寂が満ちる。
ガサッ。
(!?)
一人ぼーっとしていると、風もないのに背後のオリーブが音を立てる。
慌てて辺りを見回すと、右手の茂みに人の気配。
(エウクラトス様なら、気配は読ませない……)
身構えていると、闇の中から一人の男が現れる。
長い栗色の髪をなびかせて、男はへらへらと軽薄そうな笑みを浮かべる。
「やあ。ご同業」




