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タ・パンタ・レイ ーニキッペと最後の英雄ー  作者: 本間甲斐奈
第一章 魔女は頭上に月を下ろす

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第12話 仮面、ふたたび

 少しずつ日が西に傾きはじめ、競技場(スタディオン)から人が去って行く。夜には、カルネイオス神に捧げる祭儀があるんだとか。

「もう機嫌直しなよ。勝ったんだからいいじゃないか」

「なぁにがいいもんかね。死ぬまでアタシを振り回しときゃ向こうの勝ちだったんだ。最後だって、こんな腕なんか折ってないで首を狙えばよかったじゃないか」

試合の後から、へーロはずっと荒れていた。人もまばらになった斜面に座り込み、テロンに向かって治療間もない右腕をぶんぶん振り回す。

「わっわっ、止めてください。副え木がずれちゃいますよう」

「あーっ?こんなモンはツバでもつけときゃ治るんだよ」

「そんな無茶な……」

へーロは頭上に月桂冠を被り、キトンの肩を金のブローチで留めている。王様から授かった、勝者(ニケーテース)の証だ。でも、気に入ってないんだろうな。

「その、エウクラトス様は真面目な方です……たぶん。手を抜いたりしてませんよ」

「……その通り。……立派な…………勝利だった」

「キャアッ!?」

いつの間にか背後にご本人が立っていた。慌てて右拳を掲げる。

(ちゃんと服を着てるのは初めて見るかも……)

儀礼用だろうか、キトンの上から赤のマントを羽織っている。例の牛頭(ブーケファロス)もしっかり装着済みだ。

「王子サマ~。アタシなんぞに手加減してくださるとは、随分お優しいこって」

へーロも右拳の礼をとるが、殴りかかろうとしてるようにしか見えない。……折れてるんだよね?

「殺さない……ようには……していた。だが、それは…………お互い様……だろう」

へーロに裂かれた口に包帯でも巻いているのか、ますます聞き取りにくい。

でも、くぐもった声音はなぜだかちょっと柔らかい気がする。もちろん表情は分からないのだけれど。

「今は…………祭儀に……向かわねば。…………君が……主役だぞ」

言うだけ言って、エウクラトス様は歩き出す。へーロはまだ不満げだったが、仕方なく神殿(ナオス)に向かう。



 神殿はリュキオンの中心、広場(アゴラ)の西の丘にある。北の端の競技場からだと、来るだけでも一苦労だ。もう空は暗くなっているが、びっしり並んだ松明が辺りを照らしている。

「悪いけど僕は下がってるよ。ちょっと人が多すぎる」

テロンは手を振って行ってしまう。化けっぱなしも大変だ。

広場から丘にかけては大勢がごった返していたが、エウクラトス様の前を塞ごうなんて人がいるわけない。

巨体の後についてすいすい丘を登ると、人混みが途絶えた頂上には、会議場(スキアス)で見たよりもさらに巨大な石柱が並んでいた。

神殿の手前、大理石の祭壇には白い牡牛が横たわっている。

「おう、待っておったぞ。ここにいるといい」

ドーロン様だ。祭壇の横の長椅子で手招きしている。いろと言われても、長老会(ゲルーシア)の皆さんが座ってて私の席なんかないのだが、幸いドーロン様の席は後ろの隅だった。脇に立たせてもらう。

「オーキュステーは…………こちらへ」

エウクラトス様に連れられて、へーロは奥の一際大きな椅子ーー玉座の前へ向かう。

(……ダレオース様だ)

玉座に礼をとるへーロ。二つあるけれど、当然一つは空席だ。

王様の後ろにはエウモルフォス様が控えている。顔に巻いた包帯が痛々しい。



「王家の方々も、今日はみんな?」

「もちろんだとも。ミノス王家からダレオース様と二人の王子。そしてニーソス王家から二人の姫君……ほら、ちょうどドロメーダ様がいらっしゃった」

神殿の柱の間から、黒髪をなびかせて女性が現れる。亜麻のドレスは何重にもひだを作って、いかにもお姫様って感じ。

つかつかと空の玉座へ向かうが、座りはしない。その後ろへ静かに陣取った。

(スゴい美人……。でも、ちょっと怖いかも……)

くっきり浮かんだ鼻筋、形よくつり上がった柳眉、引き締まった唇、全てが意志の強さを感じさせる。今も近くのへーロに笑いかけているが、怜悧な視線はまったく緩まない。

ふと、ドロメーダ様が神殿を振り返る。軽くあごを振って、誰かを呼んでいるようだ。視線の先には……。

(げえっ。……また?)

こちらも一目でわかる高貴な装い。絶対にもう一人のお姫様だ。

………でも、仮面を被っている。 牛頭(ブーケファロス)のような凝ったかぶり物じゃない、ただの丸い木の一枚板で顔を覆っている。

(目は見えてるのかな?)

目の前の光景が現実離れしているせいか、そんな細かいことが気になる。あの仮面、のぞき穴は空けてあるんだろうか。

「あれが妹君、パンドーラ様だ」

ドーロン様の声が遠い。



パンドーラ様が進み出て、姉の隣に並ぶ間、祭儀の場は完全な静寂に包まれていた。山のような群衆が物音ひとつ立てず、松明の燃える音だけがパチパチと響く。

それほどに、仮面の姫君は異様だった。

牛頭(ブーケファロス)と違って、こちらは頭の前面だけを覆う仮面なので、ある程度の容姿は見えている。

双子のはずだが、ドロメーダ様と違って、後ろでまとめた髪はさやかな黄金色だ。みんながやるような、軟膏で脱色した不自然な金色じゃない。へーロと同じ本物の、神与の光輝(テオフィレース)。

肌だって完璧だ。歩くたびに、かすかに揺れる二の腕は、白くなめらかに光っている。

(お気の毒……)

顔を隠してるんだから、エウクラトス様と同じお悩みのはずだ。これほどの肉(からだ)を備えながら、顔だけが思い通りにならないなんて、そりゃ仮面も被るだろう。



「勇者よ!」「剛勇比類なき、闘技(パンクラチオン)の王者よ!」「供犠を!」

巫女(ヒエレイア)たちの呼び声が、満座の意識を呼び戻す。

パンドーラ様が空の玉座の後ろへ、姉と共に立つまでに、祭儀の準備は整っていた。

巫女たちによって牡牛の体にはすでに、大麦が撒かれ、月桂樹の枝で聖水が注がれている。

シュラッ。

へーロが王様から短剣を受け取り、鞘から抜き放つ。少し反り返った刀身が、松明の炎に揺らめいて見える。

場は、再び静寂に包まれた。

「きれいです。剣も、へーロも……」

「ふむ。モノ自体は普通の片刃剣(コピス)だがのう。ちょっと彫り物がしてあるくらいで……。しかし、持つ者が持てばこれほどの……」

生贄の前に立ったへーロの左腕がぶれる。何をするかは分かりきっていたのに、腕の動きがまったく見えなかった。

ピッと、白い肌に紅線が浮かぶ。牡牛の喉から血が流れ出し、白い祭壇を染めていく。

「ウム。では……」

王様が何か言いかけたが、へーロの動作は終わっていなかった。短剣を、ゆっくりと太い首に押し当てる。

ごりっ。

むき出しの左肩が隆起し、刃が沈み込んでいく。

パンでも切るように、へーロは牛の首を押し切った。ねじれた角を掴み、高々と掲げてみせる。

「見事!」

王様は目を丸くしていたが、すぐに一声叫んで立ち上がる。

「我らが守り神、竪琴鳴らす家畜の主(カルネイオス)よ。ラボタスの子ダレオースが申し上げる。リュキオンを護り給え、実らせ給え。馬を防ぎ槍を挫く、楯の毅きに誉れあれかし」

言い終えると同時に、そこら中から歓声があがり、拍手が鳴り響く。

「天晴れ(エウゲ)、オーキュステー!」「ダレオース様!」「リュキオン、万歳!」




「ふう。オーキスが優勝してくれて、ワシの面目も立ったわい」

観衆と一緒に拍手を送りながら、ドーロン様は満足げだ。

「すごいです、この拍手……。皆さん、けっこう祝福してくださってる、んでしょうか。戦ってたときはへーロは人気なさそうだったのに……」

「まあ人気はあるまいが、リュキオンは戦士の国だからのう。精健(クラテロス)こそ我らの誇り、勝者を讃えぬなど恥だ。オーキスの素性に不満があるのなら、そのような者を優勝させた己の未熟こそを省みねばならぬ」

「へえ……!」

リュキオンの国を語るとき、ドーロン様の口調にはいつも熱がこもる。今はだいぶお腹も出てるけど、昔はこの方もきっと立派な戦士だったんだろう。

「とはいえ、その懸念は正しいぞ。よそ者の上に女人ときては、面白くないという者がおるのも無理からぬのう。」

すっと声の調子が落ちる。辺りを見回すと、近くに座っている長老(ゲローン)たちの顔は渋い。観衆の中にも、ちらほら同じような人がいる。

(エウモルフォス様……)

王座を見て、気づいてしまった。父と兄は盛大に拍手を送っているが、美貌の王子は動かない。唇を噛んで、うつむいている。

二人の姫君も、パチパチと拍手しているけど、顔は笑ってない。……いや、一人はそれ以前の問題か。



思わず、王家の席を観察していたら、横から肩を叩かれる。

「功(いさおし)を続けねばならぬ。おなごの身で認められようと思うのならばな。…………君もだぞ?このカルネイア祭が終わったら、ぜひ頼みたい任があるのだ」

(……命令って言えばいいのに)

ドーロン様の「頼み」は、有無を言わせない。お世話になっているのは間違いないから、私だって断ったりしないけれど。

「何をすればいいんですか?」

「うむ。この四山の都(テトルーレア)の東にだな……」

「その話…………私がしても……構わぬか」

ドーロン様が口を開いた瞬間、突如視界が暗くなる。

ちょっと慣れてきたけど、この特大の体がよくまあ、音も立てずに動くものだ。

「エウクラトス様……。もしかして、一緒に行かれるとか……」

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