第10話 熱闘・パンクラチオン①
「ひい、はあ……」
リュキオンの北側、ケラエノ山の麓に闘技場はあった。
古びた石のアーチをくぐると、小さな丘に囲まれた、四角い地面の区画が目に入る。百年以上は使われているはずだが、白っぽい土の上はまっさらに整備されている。
「無駄に遠いんだから、もお」
リュキオンはだだっ広いから、ここまで来るのも一苦労だ。今日は人通りが多いからって、オドゥスを遠慮しなきゃよかった。
「まあまあ。僕らは見てるだけなんだからさ」
テロンに促されて、入り口のほど近く、緑の斜面に腰を下ろす。
辺りには、同じような見物人がすでに大勢集まっていた。
「おう、集まってきたな。」
へーロの声に入り口のアーチを見ると、他の出場者たちが闘技場へ入ってきていた。
エウクラトス様も今日は素顔で……。
(…………うっ)
牛頭を外したエウクラトス様は、父や弟とは似ても似つかなかった。長い黒髪だけは同じだが、頭のてっぺんははげ上がっている。鼻は潰れたように低く、目は落ちくぼみ、厚ぼったい唇は鉤でつったように左上が歪んでいる。
(だから、あんな物被ってたのか……)
人前に出たがらないはずだ。声が聞き取りづらかったのも、口が変形しているせいだろう。
「酷いツラだよな」「まったく」
「なんてこと言うんですか!」
とんでもない暴言を吐きだす横の二人に抗議する。顔は選べないのだ。
「しょうがないだろ実際アレなんだから……だがまあ、アタシらにとっちゃ大事なのはコッチだ」
へーロが二の腕をぱんぱん叩いてみせる。
「だから、ありゃ相当イイ男だよ。……ほんじゃ、行ってくる」
「あ……はいっ。頑張ってください」
へーロが闘技場へ降りていって程なく、入り口から別の一団が入ってくる。
丈の長いキトンに、肩掛けを羽織った老人たち。長老会の面々だ。
でっぷりしたドーロン様の姿も見える。
「陛下!」「ダレオース様!」
長老たちから少し遅れて、見物人の歓声とともに王様も入場してきた。
即座に、八人の戦士たちが二列に向き合い、王に道をつくる。
「ねえテロン、王様は二人いるんですよね?」
あの王様(ダレオース様?)は、山狩りの会議でも見た。でもやっぱりもう一人の王様がいない。
「いや、確かに王家は二つあるんだけどね。もう一人の王は三年前に亡くなったらしいよ。」
「えっ?じゃあ、跡継ぎは?」
「それが娘たちだけでね。いま婿選びをしてるんだとか……。」
「たち?」
「そっちも双子なんだよ。……おっ、そろそろかな。」
もっと聞きたかったが、テロンは話を切り上げてしまった。
競技場では長老たちが脇の長椅子へ下がり、土の場内には王様と出場者だけが残される。
「これより、カルネイオス様に仕える勇者の選定を行う。本日の審判を務めるは、ラボタスの子ダレオースである。」
闘技場中央に進み出た王様は、言葉少なに宣言する。
「神前の約定はただひとつ。一切の武器防具、用いることまかりならぬ」
言葉と同時に、出場者たちが衣を脱ぎ捨てる。オリーブの油を塗った肌が、陽光の下でぬらぬらと光っている。
(!?)
「闘技は肉体一つでやるものさ」
目を剥く私にテロンが教えてくれるが、心臓に悪い。
「でも、地面は結構固そうですよ。裸で戦ったら危ないじゃないですか」
さっき歩いた感触で分かった。あの白土は長年踏み固められ、緩みがない堅土。
「危なくなかったら物足りないんじゃないかな?ここの連中は。反則もないしさ」
「えー……。まあへーロもそういうのが好きそうですけど……」
私には理解できない。ここにいるのは国で屈指の戦士ばかりのはず。大怪我でもしたら大変な損失じゃないか。
「開始」
言っている間に、王様が最初の試合の号令をかける。
はじめの試合は、へーロとエウモルファス様だった。
黒髪をなびかせる美男子の姿に、あちこちから歓声が上がる。
「大した人気だ。美形は特だねえ」
「はい……」
へーロの方には、声援はない。やっぱり、特例の出場がよく思われてないんじゃ。
しかし、肝心のへーロはまったく気にしてなさそうだ。
構えもせずスタスタ歩いて、至近距離で向かい合う。体格はだいたい互角、ちょっとへーロが大きいかも。
「どうですかい王子サマ。ここはひとつコレで」
ニヤッと笑って両拳を顔の前に持ってくる。
「拳闘か。……乗った!」
答えと同時に、へーロの脇腹に右拳が突き刺さる。が、獣じみた笑みは崩れないどころか、ますます深くなる。
追撃を許さず、返しの右が端正な顔を横から吹き飛ばす。
二たび、三たび……お互いの拳が交差する。ヘーロは実に楽しそうだ。笑いながら振り乱した金髪が、獅子のたてがみのように広がっている。
「凄いですエウモルフォス様……。ヘーロと殴り合うなんて」
「そりゃあ流れ者で、しかも女じゃあね。リュキオンの王子なら、メンツにかけても正面からねじ伏せないと」
しかし、形勢は明らかだった。
エウモルフォス様の顔が、自分の血で真っ赤に染まっていく。歯を食いしばって繰り出す拳にも、もう力がない。
「だ、ダメです。降参しないと……」
「ここで退いたら、二度と英雄とは呼ばれない。ヘーロも意地悪だよ。こうなるの分かってて殴り合いに誘ったんだから」
そんなこと言ったって、どう見ても限界だ。もう拳を握れていない。膝が震えて、頭の位置が下がっている。
「それまで!」
王様の一声で、下から顎を撃ち抜こうとしていたヘーロが手を止める。
一瞬こちらに笑みを見せてから、汗ばんだ顔に金髪を張り付かせたまま、残りの選手たちのいる一角へ帰っていく。
「~~~~………………」
場内に落胆のため息が満ちる。
エウモルフォス様は、しばらく膝をついて唇を震わせていた。しかし、場内を管理する兵士たちが駆け寄ると、乱暴にその手を払いのけ、足早に闘技場を出て行ってしまう。
「大丈夫でしょうか……」
「さあね。それより次が始まるよ」
また、二人の戦士が進み出る。片方は昨日エウモルフォス様と一緒にいた中の一人だ。でも、もう片方は見覚えがない。
「そうそう。あれが、前回の優勝者だよ。アリキオン・トリビオス」
「アリキオンさん……。あの、おいくつなんですかあの人?」
初めて見る優勝者は、他の戦士たちと比べると小さめだ。見事なツルッパゲに、ふさふさの髭。結構しわが深い。
「正確には知らないけど、長老会の一員だから60は確実に超えてるね」
「60!?」
道理で他の人より筋肉が衰えている。いや、年齢を考えたらとんでもなく筋骨隆々ではあるんだが。
(ドーロン様と同年代……。戦いなんて)
やきもきしていると、アリキオンが突然、相手の顔の前で手を打ち鳴らす。
(!?)
一瞬、ひるんだ隙に腕をーー左腕を捕って、後ろへねじり上げる。
体重が前へかかって相手が転倒すると、その背へのしかかってさらに腕をひねる。
「クアアッ!」
悲鳴とともに、人差し指が一本、高々と立てられる。降参だ。
「それまで」
「つ、強おい……」
流れるように、あっさり勝ってしまった。
「よくやった!」「老いが逃げていきよる!」「 不死身のトリビオス、リュキオンの誉れ!」
悠然と退場するアリキオンへ、場内から次々に賞賛の言葉がかけられる。
次の試合は、知らない人同士の対戦だった。結構いい勝負をしていて、さっきから組んずほぐれつしてなかなか決着がつかず、場内は熱狂の渦だ。
でも、悪いけど私はあまり興味がない。横を見ると、テロンも欠伸などしている。
「ねえ、テロン……。ひとつ聞いてもいいですか?」
「なに?」
「どうして、私にはすぐに正体を教えてくれたんですか?ドーロン様にも言ってないんですよね?あと、何でいつもその姿に化けるんですか?何にでも化けられるんでしょ?」
「三つも四つも聞いてるじゃないか……」
ゆるゆると首を振って、テロンが性悪な笑みを浮かべる。
「聞きたいことがあるなら、君の力で聞けばいいじゃないか。できるんだろ?」
むかっ。
「見くびらないでください!」
ちょっと大きな声を出してしまう。幸い周りは試合に夢中で、誰も気にした様子はなかった。
「わ、私にとってはテロンもへーロも恩人で……、大事な仲間なんです。無理矢理操るくらいなら、聞かなくていいです!」
テロンはまじまじと私の顔を見つめ、やがてうっすらと顔をほころばせた。
これまでに見たことのない、やわらかな微笑だった。黒の瞳が、緑色になっている。
「そうだな。悪かったよ……じゃあ話したいところだけ話すけど……。僕にはね、どうしても殺したい男がいるのさ」




