第6話 偽りの証明
夜の帳が落ちた第四分庁舎の四階。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返った『特別野戦法務官室』の室内には、カチ、カチと規則正しい柱時計の音だけが響いていた。
「中尉殿、珈琲のおかわりとサンドイッチです。冷めないうちにどうぞ」
そう言ってハンス曹長が大きな木製トレーを運んできた。
大皿の上にうずたかく盛られているのは、ハンス特製の厚切りのサンドイッチだった。
香ばしく焼かれた食パンの間には、ルインが注文したカラシの効いたローストビーフと、エレナが頼んだたっぷりのハムととろけるチーズが挟まれている。
フレンチプレスから注がれた深煎り珈琲の香ばしい湯気が、紙とインクの埃っぽい空気を柔らかく包み込んだ。
「ありがとうございます、ハンス曹長!いただきます!」
エレナ・ブランカ中尉は、目を輝かせてハムとチーズのサンドイッチにかぶりついた。
サクッという心地よい音とともに、口いっぱいに広がる濃厚なチーズとハムの味。
「美味しい……!ハンス曹長、お料理までこんなにお上手だなんて、尊敬します!」
「ははは、恐縮です、中尉殿。昔、野戦病院の給食処にいたこともありましてね。腹が減っては軍法も読めないでしょう?」
パタパタと耳を揺らしながらハンスは照れくさそうに笑う。
エレナは熱い珈琲を一口啜ると、ソファーの前に広げられた膨大な資料の山を改めて見渡した。
ガラスのテーブルの上はもちろん、足の踏み場もないほど床に敷き詰められたのは、ハンスが本庁舎の記録保管庫から特命調査権で力ずくで押収してきた『第九師団・作戦行動記録』の副本、各部隊の電信記録、そして野戦電信受信用紙の原本の束だった。
「それにしても、凄いです!昼間はあの本庁舎の作戦幕僚部を相手に『予審停止』を叩きつけ、夜にはこうして相手の隠していた『本物の作戦記録』を丸ごと机の上に並べているなんて……!」
エレナは拳を握り締め、興奮を隠しきれない様子で声を弾ませた。
「これこそまさに、私が軍法務学校で夢見ていた『法による正義』です!大尉、一刻も早くこの作戦記録から連隊長の隠蔽工作を暴き出し、マティアス大尉の無罪を証明しましょう!」
勤務初日にして、本庁舎の兵科幕僚たちを完全にはめ倒したという快感だった。
鼻息を荒くするエレナの横で、当のルイン・ヴァルハイト大尉はといえば――。
「……んー、まあ焦りなさんな、新人くん」
ルインはソファーの上に雑に胡坐をかき、片手にローストビーフのサンドイッチを挟んだまま、もう片方の手で束になった電信記録を一枚ずつ凝視していた。
ぼさぼさの髪、ボタンの外れたシャツ、そして両目には異様なほどの爛々とした光が宿っている。
「僕たちがやっているのは『正義の味方ごっこ』じゃない。単なる巨大な【間違い探し】さ……ほらハンス、この『通信隊の電信記録』の照合が終わったから片付けておいてくれ」
ルインが次々とチェックしては後ろへ放り投げる書類を、ハンスはまるで熟練のキーパーのようにキャッチし、日付と部隊番号順に分類して積み上げていく。
「さあ、中尉。興奮している暇があったら君も手を動かし給え。君の担当は『第十九歩兵連隊本部の行動日誌』と、その末尾に付随する『第十九通信隊の送受信表』の照合だ」
「はいっ!お任せください!」
エレナは背筋をピンと伸ばし、配られた分厚い冊子を開いた。
最初の三十分。エレナの集中力は極限まで高まっていた。
軍法務学校を首席で出た頭脳をフル回転させ、連隊本部の移動記録と通信記録の時間を一行一行、丹念に突き合わせていく。
「ええと……十四日十三時三十一分、連隊長より第九師団司令部へ『敵前線突破に伴い、全軍第二防衛線へ後退開始』の打電……同十四時十五分、第三中隊マティアス大尉へ『即時撤退』の命令発出」
(うん、ここまでは整合性が取れている。でも、マティアス大尉が『撤退命令を無視して街に踏みとどまった』のが十四時三十分なら、完全に抗命罪が成立してしまう……どこに嘘があるの……?)
カリカリとペンを走らせながら、必死に数字を追う。
しかし――。
一時間。
二時間。
時計の針が深夜二時を回ったころ――。
朝一番で本庁舎へ行き、受付で理不尽に追い返され、作戦幕僚部で舌戦を繰り広げた疲労が、重く肩にのしかかっていた。
こっくり、こっくりと舟を漕ぎそうになりながらも、エレナは自分の両頬を叩き、気力だけで連隊本部の行動日誌と『野外電信機・回線接続記録』の原本を並べて目を皿にした。
「ほらほら、中尉殿。無理はいけませんよ」
優しく耳元でハンスの声が聞こえ、エレナはハッと跳ね起きた。
「ひゃいっ!い、いえ!眠ってなどおりません!まだまだ調べられます!」
ハンスが心配そうな、そしてどこか愛おしそうな目で見つめていた。ハンスの手には、いつの間にか心を和らげるカモミールハーブティーのカップが握られている。
「初日からこんな怒涛の展開だったのです、疲れて当たり前ですよ。大尉と違って、中尉殿は今日一日中、神経を張りっぱなしだったのですから」
そういうとハンスは、エレナの手にハーブティーを渡してくれる。指先が少し触れた。
「ですが……! 大尉があんなに集中なさっているのに、私だけ弱音を吐くわけには……!」
温かいハーブティーを一口含み、再び手元の報告書へ目を落とした――その時だった。
「……え……?」
エレナの指先が、ある一行の上でピタリと止まった。
重かった瞼が弾けるように開き、目を見開く。
「大尉……! ハンス曹長……! こ、これを見てください……っ!!」
「ん? どうしたね中尉、大声を上げて」
隣で書類をめくっていたルインが顔を上げる。エレナは立ち上がり、資料の一箇所を震える指先で指し示した。
「連隊長が提出した報告書では、マティアス大尉に『撤退命令』を発信したのは【十四時十五分】となっています! ですが、通信部が現場で記録したこの野外電信機の接続記録を見てください! 連隊本部が使用していた三型野外電信装置は――【十四時一分】の時点で、敵の砲撃による『通信線切断につき不通』と明記されています!」
エレナは興奮で息を荒げた。
「十四時一分の時点で回線が切れていたのなら……十四時十五分に、連隊長からマティアス大尉へ『撤退命令』が届くことなど、物理的に不可能なはずです!」
一瞬の静寂。
自力で矛盾の端緒を突き止めたエレナを、ルインは両目を細めてじっと見つめた。
そして――ニヤリと、恐ろしいほどに不敵な笑みを浮かべた。
「……ハハッ! 見事だ、新人くん。よくぞ、その『違和感』に辿り着いた」
ルインは万年筆のキャップをカチリと鳴らすと、手元に広げていた別の巨大な地図と事件経過の書類を、エレナの目の前へサッと滑らせた。
そこにはすでに、ルインの手によって赤鉛筆で幾重もの線と複雑な計算式が書き込まれていた。
「えっ……? 大尉、これは……?」
「君が見つけてくれた『十四時一分の通信不通』……。それをね、僕がさっきから照合していた『連隊長本人の車輛移動記録』と重ね合わせると、恐ろしい事実が完成するのさ」
ルインは万年筆の先で、赤丸の付けられた時刻をトントンと突いた。
「連隊長はね、十四時一分に通信線が切れるより前――【十三時四十五分】の時点で、部下に何も告げず、自分だけ指揮車で真っ先に後方へ逃亡していたんだよ」
「――っ! 十三時四十五分……!?」
エレナは息をのんだ。ルインは冷徹な眼光を宿し、言葉を重ねる。
「そうさ。連隊長は部下に撤退命令を送るどころか、自分が真っ先に敵前逃亡した。そして孤立したマティアス大尉たちは命令が届かないからこそ、現場の判断で住民を守るために市街地を死守した。……逃げ延びた連隊長は、自分の『指揮放棄』と『敵前逃亡』の発覚を恐れ、後から本庁舎の作戦幕僚部とグルになって『十四時十五分に撤退命令を出した』という虚偽の書類を捏造したんだ」
「なんてこと……! 自分の敵前逃亡を隠すために、英雄になったマティアス大尉に抗命罪を擦り付けたというのですか……!?」
「その通り。君が糸口を見つけてくれたおかげで、彼らの『嘘のパズル』は完全に崩壊した」
ルインは背もたれに深く体重を預け、満足げに鼻で笑った。
「彼らも本庁舎の書類を辻褄が合うように完璧に改ざんしていた。だが、現場の通信切断記録と、自分たちの移動記録の『わずかな時間のズレ』まで消し去ることはできなかったのさ。君の鋭い視点と、僕の組み立てたタイムライン。完璧な証拠の完成だ」
ルインはソファーから立ち上がると、脱ぎ捨てていた軍服の上衣を自分で羽織り、万年筆を胸ポケットに挿した。
「さあ、予審停止の期限が切れる前に、この『電信記録の矛盾』と『連隊長の敵前逃亡の証明』を網羅した再審理の請求書を作成する……ハンス曹長、朝までに判例の補足と書式の準備を頼む」
「かしこまりました、大尉。すでに用紙の準備はできております」
ハンスは手際よく机の上に真新しい用紙とインク瓶を並べた。
「中尉。君の初日の勤務は、これで終了だ。ソファーで朝まで寝ていくといい」
「えっ……? ですが、大尉もハンス曹長もまだ作業を……! 私だけ休むわけにはいきません!」
「指示に従い給え、中尉。書類の不義を見抜くにはクリアな頭脳が必要だ。興奮と睡眠不足でフラフラの新人士官に、これ以上重要な書面の作成を任せられると思うかい?」
ルインは意地悪そうに微笑むと、ソファーの端にあった真新しいブランケットをひょいとエレナの膝の上に放り投げた。
「君は今日、完璧な仕事をした。本庁舎から受領書を奪い取り、膨大な資料から決定的な糸口を見つけ出した……見事だったよ。だから、今夜は大人しく休むんだ。明日からは、いよいよ本庁舎の兵科幕僚どもを叩きのめす『軍法会議の戦い』が始まるんだからね」
「大尉……」
エレナはブランケットをぎゅっと抱きしめた。手織りのウールの温もりと、ほんのりと香る珈琲の匂いが、彼女の心を優しく解きほぐしていく。
「……はい。ありがとうございます、大尉……」
「中尉殿。大尉のことは私が面倒をみますので、どうぞ、ゆっくり休んでください」
「ハンス曹長のお言葉に、甘えさせていただきます……」
温かいハーブティーを飲み干したエレナは、ハンスにカップを預けると、そのままソファーに身を横たえ、ブランケットを深く掛け直した。
ハンスが優しく微笑んでランプの芯を下げ、部屋の光を落とすと、途端に猛烈な眠気がエレナを襲ってきた。
暗がりの中で、執務机のランプの光に照らされながら、カタカタと静かに万年筆を走らせるルインと、横で作業をしているハンスの背中が見える。
(ああ……私、本当にこの場所に配属されてよかった……)
理想としていた華やかな本庁舎ではなかった。
足の踏み場もない、薄暗くて埃っぽいボロ監獄の法務官室。
だけどここには、どこよりも熱く、どこよりも真っ直ぐに「軍法」を武器にして現場の命と名誉を守る、本物の最高の上司と同僚がいる。
トントン、と書類を整える心地の良い音を子守唄代わりに聞きながら、エレナ・ブランカ中尉は、満たされた幸福感の中で深い眠りへと落ちていった。
『軍法務官』としての、彼女の輝かしい第一歩が、静かに更けていく王都の夜空の下で刻まれていた。
(続)




