第5話 反撃の手続
「失礼いたします。特別野戦法務官室より、緊急の『予審停止命令』および『現場調査請求』の通知に参りました」
王都軍総司令部・本庁舎の三階。
豪華な絨毯が敷き詰められた兵科将校の牙城である『作戦幕僚部第一課』の重厚な扉をノックして押し開き、エレナ・ブランカ中尉は受付にいた少尉へ持参した封筒を提示した。
室内には、煌びやかな飾緒と数々の勲章で胸元を飾った高級将校たちが顔を揃えていた。
書類を見て怪訝な顔になったオーク族の少尉は、背後にいた上官らと顔を見合わせた後、一番奥にいる人間族の大佐のもとへ慌てて書類を運んだ。
その奥にいる、大きなマホガニーのデスクに深々と腰掛け、太い葉巻をくゆらせていた中年男――この課を取り仕切るワルデンブルク大佐が、忌々しそうに眉をひそめた。
「特別野戦法務官室……? ああ、向かいのボロ監獄に巣食う、あの『書類の虫』どもの溜まり場か。そこの新人中尉が何の用だ。ここは王国の戦略・戦術・軍律を論じる場だ。文書屋風情が足を踏み入れてよい場所ではない」
ワルデンブルク大佐は蔑むような笑みを浮かべ、エレナが差し出した封筒を一瞥した。周りの幕僚たちからも、クスクスと鼻で笑うような声が漏れる。
エレナは背筋をピンと伸ばしたまま、手にしていた鮮やかな赤塗りの封筒――最高級の蝋で封かんされた『予審停止命令書』と『現場調査請求書』をデスクの上へ静かに滑らせた。
「第九師団第三中隊長、マティアス大尉に対する抗命罪の予審手続きに対し、我が室長であるルイン・ヴァルハイト大尉の権限において『即時停止』を命じます。併せて、管轄を特別野戦法務官室へ移送し、すべての作戦記録の即時提出を要求いたします」
一瞬、室内の空気が凍りついた。
だが次の瞬間、ワルデンブルク大佐はポンとデスクを叩き、下品な大笑いを破裂させた。
「ハハハハ! くだらん! 大尉ごときの紙切れ一枚で、我々『兵科幕僚』の決定が覆ると思っているのかね? 現場の予審判事は兵科将校の身内で固めた。すでに現地では手続きが進んでいる。戦時特例に基づき、あと二日もしないうちに予審を即結させ、形ばかりの本審で『銃殺』の判決を下して処刑は完了する!」
大佐はせせら笑いながら、二通の申立書を指先で弾き飛ばそうとした。
「いいか、新人。特別野戦法務官制度などという古臭い置物は我々とて熟知している。だからこそ、法務官室が手を打つ前に現地で『既成事実』を作ってしまうのだよ。死人となってしまえば、貴様らが後からいくら書類を捏ねくり回したところで覆りようがないのだ!」
兵科幕僚たちの計算し尽くされた悪意。エレナの頭に一瞬血が上りかけた。
(――やっぱり、この人たちは分かっていてやってる……! 軍律のためじゃない、自分たちの失敗を隠すために、既成事実を盾にして英雄を殺そうとしているんだ……!)
だが、エレナは怒りをグッと飲み込んだ。さっき特別野戦法務官室で、ルインから叩き込まれた「冷徹な軍法解釈」が脳裏に蘇る。
「……大佐殿。貴官がたは『時間』の計算は完璧だったかもしれませんが、肝心の『軍法規の事務取扱』を見落としておられます」
エレナは制服のポケットから、ルインが署名したもう一枚の「補足追及書」を取り出し、ワルデンブルク大佐の目の前でパンと叩きつけた。
「な、なんだと……!?」
「特別野戦法務官制度は、二十年前の軍改革において新設されました。その際、兵科将校による不当な軍律運用や軍法会議の暴走を抑止するため、最高法規として一つの『絶対規定』が定められています。……軍事裁判手続法第二条第四項。我が室の独立管轄権を担保する絶対規定です――」
エレナは堂々と胸を張り、淀みない声で暗唱した。
「――『特別野戦法務官は、陸・海・空軍省および各参謀本部、指揮系統のいかなる管轄にも属さず、その全権限と責任は【国王陛下】にのみ直接帰属する』」
ワルデンブルク大佐の顔から、急速に血の気が引いていく。
エレナは間を置かず、畳みかけるように言葉を続けた。
「特別野戦法務官室は、幕僚部でも軍政部でもありません。国王陛下より下賜された『軍法保護権』を良識と理性において執行する、最高監察機関です。……そして、国王大権に基づく『予審停止命令』を受領拒否して隠蔽し、不当な予審を強行させようとなさった場合――」
エレナは冷たく、ワルデンブルク大佐の目を射抜いた。
「……これはルイン大尉からの伝言です。『その行為は単なる手続違反ではない。国王大権に対する反逆ならびに職権濫用罪に該当する。申立書を受理せず予審を続行するなら、今この瞬間から大佐以下、作戦幕僚部第一課の全員を反逆罪の容疑者とみなさしていただく。特別野戦法務官には最高司令部直属の非常差押・拘留権が認められておりますから。向かいの旧軍事監獄の地下房は、いつでも空けてあります』……と」
「ひっ……!?」
あれほど高圧的だったワルデンブルク大佐の喉から、情けない声が漏れた。
本庁舎の真向かいにある第四分庁舎。あそこがなぜボロい旧軍事監獄のまま残されているのか。その「本当の意味」を悟った瞬間、室内を恐怖が支配した。
ルイン・ヴァルハイト法務大尉。
数年前、当時の最年少記録で特別野戦法務官に着任して以来、数々の兵科将校の不正を暴き、本庁舎の権力者たちを文字通りあの「牢屋」へ叩き込んできた『不敗の文書屋』――兵科将校の兵科の連中が恐れをなして、勝手にそう呼んでいる異名だった。
彼らが「怠惰な怠け者」と侮っていた男は、最初から自分たちが抗えない『国王の威光』という絶対の盾を構えて待っていたのだ。
「さあ、ワルデンブルク大佐。この受領書にサインをなさいますか? それとも、今すぐ向かいの旧監獄へご案内いたしましょうか?」
エレナは完璧な笑みを浮かべ、万年筆を差し出した。
ワルデンブルク大佐の手が、ガタガタと震える。彼は激昂してデスクを叩いた。
「ぐ……ハッタリを言うな! 誰が貴様らの申立書など受理するものか! 追い返せ!」
側にいる幕僚たちが動揺しながら立ち上がろうとする。
「正当な理由なく受領を拒絶されても結構です、大佐殿。軍事裁判手続法第十二条――『留置送達』の規定に基づき、正当な理由なく受領を拒絶された場合、その場に書面を留め置くだけで、相手が受け取ったものとみなして強制的に送達を成立させる手続です。大佐がこの書面を破り捨てようと、私がここに置いた瞬間に『予審停止』は成立するのですよ。……なお、受領拒否の事実はそのまま『公務執行妨害ならびに公然たる命令不服従』として記録し、直ちに軍法会議へ告発、ならびに懲戒手続に入らせていただきますが?」
「な……っ! ぐ、ぬぬ……!」
顔を真っ青にした大佐は、差し出された万年筆をひったくるように奪い取ると、震える手で受領書に殴り書きのサインを走らせた。
「う……受け取ればいいのだろう! 正式に受領する! 今すぐ現地へ予審停止の打電もしてやる! だから失せろ、書類の虫め……!」
「確実にご対応くださいませ。もし遅れでもしたら、大佐の責任問題ですから。では、失礼いたします」
エレナは教科書通りの完璧な敬礼を捧げると、呆然と立ち尽くす幕僚たちを背に、優雅に作戦幕僚部第一課を後にした。
重い扉が閉まった瞬間、エレナは小さくガッツポーズを作り、大きく息を吐き出した。
(勝った……! 銃殺の手続きを、完全に差し止めた……!)
胸を躍らせながら第四分庁舎へ戻ると、西日の差し込む我が室では、相変わらず上衣を脱いでいるルインがソファーで横になり、ハンス曹長が淹れた何杯目かの珈琲を旨そうに啜っていた。
「お帰り、中尉。顔を見れば分かるよ……。あのワルデンブルクのタコ入道は、面白い顔をして受領書にサインしたんだろう?」
「大尉! 完璧です! 『予審停止命令』と『現場調査請求書』を正式に受領させ、現地への打電も約束させました! これでマティアス大尉の命は繋がれましたね!」
目を輝かせるエレナに、ルインはふっと鼻で笑い、カップをテーブルに置いた。
「ポーカーで言えば、相手の『ハッタリ』を暴いて最初のチップを巻き上げただけに過ぎないよ、中尉。手続きを止めて時間を買った。……ふむ、君なら『これで現地からの資料到着を待つ』とでも考えるかい?」
「はい!現地からの作戦資料が届き次第、すぐに精査に入ります!」
「甘いな、中尉。正攻法で『現地からの送付』を待っていたら、向こうに現場の記録を改ざんする時間を与えるだけだ。君が本庁舎へ向かって大佐たちの意識を完璧に引きつけてくれている間にね、ハンス曹長に『最高司令部特命調査書』を持たせて、本庁舎の記録保管庫から、現地から打電されてきた作戦記録の『副本』や電信記録を根こそぎ押さえさせておいたのさ。完璧な連携だったよ、中尉」
ルインは自堕落な体勢のまま、デスクの上に置かれた大量の資料――ハンス曹長が本庁舎から押収してきたばかりの分厚い『第九師団・作戦行動記録』の束を、長い指先でトントンと叩いた。
「兵科将校の連中は、現場の報告書を都合よく改ざんし、中隊長一人に抗命罪を擦り付けた。……ハンス曹長、僕のお気に入りの赤ペンを出してくれ。デスクの上だけで、この作戦記録に潜む『嘘』をすべて暴いてやろうじゃないか」
「大尉殿。徹夜作業になりますから、夜食のサンドイッチもお作りしますね」
「あ、私はハムとチーズでお願いします!」
「僕はローストビーフとカラシで頼む」
「はいはいー」
パタパタと耳を揺らしながら、ハンスが夜食の準備をしつつ書類の山を整え始める。
エレナは背筋を正し、ルインの横に腰掛けた。
机の上だけで展開される、血の流れない、だが最も苛烈な戦い。
『軍法』という最強の武器を手にした特別野戦法務官室の、本当の反撃が始まろうとしていた。
(続)




