第7話 反撃の黎明
ブランケットから伝わる温もりと安らぎに包まれ、エレナの規則正しい小さな寝息が室内に静かに響き始めた。
ルインは愛用の万年筆を置き、ゆっくりと椅子の背もたれに体を預けた。
「……ハンス。中尉は寝たか?」
執務机で書類を見つめていたルインが、声を一段低くして尋ねた。
「ええ、すやすやと可愛い寝顔ですよ。初日で本庁舎相手に立ち回り、自力で通信切断まで突き止めたのです。気力も体力も限界だったのでしょう」
ハンスは愛おしそうに目を細め、エレナの頭側にあるランプの光が直接顔に当たらないよう、小さな遮光板をそっと立てかけた。
そして、優しく微笑みながら、エレナの肩にブランケットを静かに掛け直す。
「せっかく『理想の上司』の顔をして見せてやったんだ」
ルインは自嘲気味に鼻を鳴らした。
「あの素直な新人が『大尉、格好いいです!』って目を輝かせてついてきてくれた方が、こっちだって仕事がやりやすいだろ?」
ハンスは苦笑しながら、手際よく新しいフレンチプレスに珈琲豆を投入し、熱湯を注ぎ入れた。
「大尉が自分から上衣を着たときは『新人を休ませろ』っていう意味を、中尉殿はまだ知りませんからね」
「おい、まだ言うなよ、ハンス。新人を卒業したらだ」
「はいはい」
ルインは万年筆をくるりと指先で一回転させると、ソファーで眠っているエレナを見て薄く笑った。
「しかし……まさか初日で、現場の電信記録とタイムラインの『ズレ』に自力で辿り着くとはね。軍法務学校の首席ってのは、伊達じゃないらしい」
「おや、大尉。もっと褒めてあげてよかったのでは?」
「バカを言え。ただでさえ生真面目で鼻息の荒い新人だ。調子に乗らせて足元をすくわれたら困る」
「ふふ、相変わらず素直ではありませんね」
ハンスは苦笑しながら、大皿に残っていたサンドイッチの皿を片付ける。
ルインが代わりに黒い革表紙の分厚い冊子を二冊、執務机の上にドンと置いた。
それぞれの表紙には『作戦幕僚部・予算関係記録』ならびに『人事考課記録』と書かれている。
「……じゃあ、曹長。本番といくか」
「やれやれ……」
ハンスはパタパタと耳を揺らしながら、深い溜め息交じりに肩をすくめた。
ルインは、ハンスが差し出した濃い目の珈琲を受け取り、フッと息を吐いて白い湯気を吹き消しながら、一口啜った。
先ほどまでの『新人を気遣う頼もしい上司』の雰囲気は完全に消え去り、その瞳には夜の闇よりも深い、冷徹なまでの計算の光が宿っていた。
「マティアス大尉の件……単なる敵前逃亡の責任転嫁じゃ終わらないな、ハンス」
「でしょうね。わざわざ本庁舎の作戦幕僚部第一課――ワルデンブルク大佐まで乗り出してきて、予審をたった二日で終結させ、即刻銃殺しようなどと焦る理由はひとつしかありません」
ハンスは手際よくトレイを片付けると、ルインの向かいにある丸椅子を引き寄せて腰掛けた。
ルインが指先で開いた黒革の『裏冊子』には、細かな数字と記号、そして高級将校たちのプライベートな口座番号らしき数列がびっしりと並んでいた。
「第九師団が防衛戦を展開していたあの西部戦線……あそこには陸軍の巨大な給兵処と、王立鉱山からの資源輸送ルートがあった。ワルデンブルク大佐らは、前線へ送るはずだった予備兵器と貴重な鉱物資源を『戦災による喪失』と偽って闇ルートへ流し、巨額の裏金を作っていたのさ」
ルインは万年筆の尻で帳簿の数字をトントンと叩く。
その瞳の奥には、前線で血を流す兵士たちを嘲笑うかのような『安全圏の悪意』への、静かで冷酷な怒りが渦巻いていた。
「だが、マティアス大尉が命令を無視して街を死守してしまった。本来なら敵に踏みにじられ、すべて『戦災』として闇に葬られるはずだった給兵処の倉庫と輸送記録が、マティアス大尉の孤軍奮闘によって完璧な形で残ってしまったんだ……皮肉な話さ。現場の英雄が命懸けで守り抜いたものが、結果的に後方の将校どもの『汚職の証拠』になってしまったんだからな」
「なるほど……。街が落ちていれば、資源の横領も、予備兵器の流用も、すべて『敵軍に破壊・略奪された』ことにして処理できたわけですね」
「そういうことだ。英雄マティアス大尉は、奴らにとって命の恩人どころか、自分たちの巨大な不正を白日の下に晒しかねない『歩く爆弾』だったのさ。だからこそ、抗命罪の濡れ衣を着せて、本審の前に手早く銃殺して永遠に口を封じる必要があった。大尉本人がそれを知っていたのかは、予審でわかるさ」
ルインは苦笑混じりに吐き捨てた。
戦場で命を懸けて住民と陣地を守り抜いた男が、ただ上層部の懐を温めるための不正隠蔽のために殺されようとしている。
「腹が立つか、ハンス?」
「いいえ。大尉のその顔を見れば、奴らがどういう惨劇を迎えるか分かりますから」
ハンスは丸椅子に座りながらふさふさの尾を静かに揺らし、黒いインク瓶の蓋を開けた。
「相手は軍の金脈を握る作戦幕僚部です。単にマティアス大尉の『抗命罪』を無実だと証明するだけでは、奴らはまた別の濡れ衣や政治的圧力で彼を潰しにかかるでしょうね」
「ああ。だからこそ、ただ庇うだけじゃ甘い。僕たちがやるべきなのは防御じゃない。『殲滅』だ」
ルインは万年筆を握り直すと、白紙の大型用箋を目の前に引き寄せた。
「軍事裁判手続法第百四条『特別監察による告発権』、ならびに軍事財産管理法第四十二条『不正流用に対する非常差押命令』……マティアス大尉の無罪を主張すると同時に、ワルデンブルク大佐以下、作戦幕僚部第一課の全幕僚に対する『国家軍需財産横領ならびに背任行為』の特別野戦軍法会議への即時送致を申請する」
「手厳しいですね。予審を差し止められた大佐は、今頃必死に書類の廃棄や証拠隠滅を図っているでしょうね」
「無駄だよ。今夜、君が押収してくれた副本の裏付けとなる『予算関係記録簿』と、この『人事考課記録』にある『不自然な昇進と口座振込』を照合すれば、逃げ道なんて最初から一歩も残っちゃいない」
ルインはハンスが淹れた濃い珈琲を一気に飲み干すと、不敵に笑った。
「……さあ、夜明けまでに予審判事どもがひっくり返るような『完全な告発書』を書き上げるぞ」
カチ、カチ、カチ。
柱時計の刻む音だけが響く静寂の中、カリカリと万年筆が紙を滑る鋭い音だけが室内に交錯し始めた。
ルインの頭脳は極限まで加速していた。
数千枚に及ぶ数字の整合性を脳内で突き合わせ、軍規の隙間を完璧に埋め尽くす条文を紡ぎ出していく。
西部戦線の給兵処から消えたのは膨大な軍用品と軍需物資の数々だった。
四号榴弾砲の予備砲身三百二十本、特殊魔導装甲板六トン、軍用指定鉱物資源も三十トン……行方不明にされた数々の軍需品が浮かび上がってくる。
そしてそれらが『戦災破棄』として処理された直後に、作戦幕僚部第一課の秘密口座へ振り込まれた無記名手形の番号。
単なる疑念ではなく、公文書の数字と口座記録が寸分の狂いもなく一致していく快感が、ルインの唇を吊り上げさせた。
法律とは彼にとって、理不尽な権力者の喉元を確実に貫くための「不可視の刃」だった。
ハンスもまた、無言で判例集をめくり、過去の軍法会議における類似の汚職摘発例や、予審判事の不当手続に対する抗告判例を抜き出してルインの手元へ滑り込ませる。
「大尉。三十年前の『第四師団給兵処事件』の判例が使えます。予審判事が証拠隠滅の恐れのある上級将校と私的接触を持った場合、予審職務からの即時排除命令が認容されています」
「上出来だ、ハンス。その判例番号を注釈欄に叩き込め」
長年連れ添ったバディとしての阿吽の呼吸。二人の間には、言葉すら不要な完璧な連動が存在していた。
一時間、二時間。
深夜の静寂が少しずつ薄れ、東の天空が濃い群青色から薄紫へと移り変わり始める。
「……ハンス。予審判事の買収ルート、これで裏が取れた」
「お見事です、大尉。こちら側の『証拠品差押申請書』も添付完了しました」
「よし……。これで王手だ」
ルインは最後に力強く万年筆を走らせ、文末に自らの署名と『特別野戦法務官』の職印を鮮明に捺した。
机の上にうずたかく積まれたのは、厚さにして数センチにも及ぶ『再審理請求書』ならびに『作戦幕僚部第一課に対する監察告発書』の束。
それは、身内の権力者を骨の髄まで粉砕するための、完璧な「法規の弾丸」だった。
ルインは長く息を吐き出し、軍服の上衣のボタンを外すと、それを無造作に椅子の背もたれへと脱ぎ捨てた。
ぼさぼさの髪をさらに乱し、いつものだらしない、自堕落な怠け者の姿へと戻っていく。
「ふぅ……疲れた。ハンス、肩がバキバキだ」
「お疲れ様でした、大尉。ちょうど、朝の光が入ってきましたね」
ハンスが窓の重いカーテンを少しだけ開けると、柔らかい朝の光が薄暗い室内へ差し込んできた。
フレンチプレスに残っていた冷めた珈琲を片付け、ハンスは朝の新鮮な空気を入れ替えるために窓をわずかに開ける。爽やかな朝風が、紙とインクの匂いに満ちていた室内を吹き抜けていった。
その時――ソファーの方で、カサリとブランケットが擦れる小さな音がした。
◇
カチ、カチ、カチ……。
柱時計の規則正しい音が、不意に耳に届いた。
「……ん……う……っ」
愛らしい小さな呻き声とともに、灰色のブランケットの中からエレナがゆっくりと身を起こした。
癖のついた短い髪、少し赤くなった両目。
こすこすと眠そうに目を擦りながら、エレナ・ブランカ中尉はぼんやりとした視線で室内を見回した。
「……あれ……? 私……」
「おや、中尉殿。おはようございます。よく眠れましたか?」
ハンスが優しく声をかけると、エレナはハッと目を見開いた。
「ひゃいっ!? は、ハンス曹長!? た、大変! 私、私としたことが……っ!」
自分がソファーで朝まで爆睡してしまっていたことを理解した瞬間、エレナの顔が途端に真っ赤に染まった。
慌てて立ち上がろうとしてブランケットに足を引っ掛けそうになり、ドタバタとソファーの上で立ち尽くす。
「も、もも、申し訳ありません! 勤務初日なのに、途中で寝落ちしてしまうなんて……! 首席失格です! 大尉、私――!」
パニックになりかけるエレナに向かって、ソファーの向かいでだらしなく深々と腰掛け、欠伸を噛み殺していたルインがひらひらと手を振った。
「おはよう、中尉。朝から元気だねぇ」
「た、大尉……! あの、お二人は……まさか、一晩中……!?」
エレナは絶句した。
執務机の上には、昨夜自分が寝る前にはなかったはずの、息をのむほど美しく整えられた分厚い書類の山が、朝日を浴びて神々しく鎮座していた。
そして、昨夜までビシッと軍服の上衣を着込んでいたルインは、今はまた脱ぎ捨ててシャツのボタンを外し、ソファーでぐったりと自堕落に体を預けている。
「……ふぁあ。まあね。君がスヤスヤと気持ちよさそうに高いびきで爆睡している間に、ハンスと二人で『仕上げ』を終わらせておいたよ」
「い、いびきなんてかいてません!!絶対にかいてません!! ……で、ですが、これは全部、大尉とハンス曹長が……?」
「ええ、中尉殿」
ハンスは誇らしげに胸を張り、机の上の書類をポンと叩いた。
「中尉殿が自力で見つけてくださった『十四時一分の通信切断』という決定的な証拠。それを軸にして、大尉が連隊長の敵前逃亡、さらには作戦幕僚部第一課が裏で隠蔽工作をしていた巨額の軍需物資横領のルートまで、完璧に暴き出しました」
「えっ……横領……!? そこまで……!?」
エレナは言葉を失い、机の上の告発書とルインの顔を交互に見つめた。
ただの抗命罪の冤罪事件だと思っていたものが、王都軍総司令部の闇を根底から揺るがす巨大な汚職摘発へと昇華している。
「君が昨夜、命懸けで『時間のズレ』を見つけてくれたからね」
ルインは薄く笑い、万年筆をくるりと指先で遊ばせた。
「あれが引き金になった。感謝するよ、エレナ君」
「え、大尉……」
初めて名前を呼ばれ、そしてまっすぐに感謝を告げられたエレナの胸の奥が、熱く脈打った。
寝不足でぼんやりしていた頭が一瞬で覚醒し、全身に温かい血が巡っていくのが分かった。
(この人は……やっぱり本物だ。自堕落で、口が上手くて、食えない人だけど……誰よりも深く法を理解し、完璧な仕事をする……!)
「さあ、朝食を食べたら出撃だ」
ルインはソファーから立ち上がると、背伸びをして口角を上げた。
「ワルデンブルク大佐も、今頃は必死に証拠隠滅の手配を終え、こちらの狙いがただの時間稼ぎ――『予審停止』止まりだと高を括って胸を撫でおろしている頃だろう。その油断しきったタコ入道の首元に、今度はこの『全権監察告発書』と『非常差押命令の請求書』を叩き込んでやる。本庁舎の兵科幕僚どもに、特別野戦法務官室の本当の恐ろしさを教えてやろうじゃないか」
「はいっ、大尉!!」
エレナは背筋をピンと伸ばし、朝日に包まれた室内で、これまでで最も完璧で美しい敬礼を捧げた。
血の流れない、だが最も苛烈な「軍法会議」という名の戦場へ。
ボロ監獄の四階、朝靄に包まれた『特別野戦法務官室』。
軍法という最強の武器を携えた彼らの、本当の戦いが今、始まろうとしていた。
(続)




