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第3話 抗命罪疑惑

丁寧に挽いた粉をフレンチプレスへ手際よく移し、小さなコンロに汲んだ小鍋をかけると、ハンスは湯が沸く僅かな時間を利用してソファーへ歩み寄った。


そして、脱ぎ捨てられていたルインの軍上衣をひょいと拾い上げる。


「さ、大尉。いつまでも寝転がってないで起きてください。ほら、脱ぎ捨てた上衣も着て。しゃんとして」


「わかった、わかったから引っ張るな……」


まるで駄々をこねる子供をあやすように、ハンスがルインに上衣を着せている。


(っていうか、全然上官、いえ、士官への敬意がない……!? 軍隊よねここ、まるで法務研修で行った個人経営の法律事務所じゃないのよ……!)


理想の軍隊像とのあまりのギャップにエレナは頭を抱えそうになり、小声でハンスに耳打ちした。


「あ、あの、ハンス曹長……! 大尉殿に対して、少々言動が不躾では……」


「ははは、中尉殿もすぐ慣れますよ。うちの大尉は、階級章より書類の誤字の方を気にする人ですから」


ハンスは気にした風もなく笑うと、お湯を沸かしに行ってしまう。


ルインは着せられた上衣の襟を不満そうに整えながら、細巻きの葉巻(シガリロ) にマッチで火を点けている。


「はぁ……そうなんですか……」


なんとなく、エレナは煤けた壁の一角に視線を留めた。


書類や判例集の山に隠されるようにして、そこには何枚もの額縁が掛けられていた。


国王陛下や軍最高司令官、法務部顧問からの仰々しい賞状だけではない。紙面に書かれた、どこか不格好で、しかし力強い文字。


『第三〇三歩兵連隊 一同より――我らが命と名誉を救ってくださった特別野戦法務官室長殿へ』


『星と風の詩を戴く第二四魔導大隊 一同より――理不尽なる軍律の鎖を断ち、誇り高き同胞(エルフ)の名誉を救い出してくださった特別野戦法務官室長殿の英知に、永遠の感謝と祝福を捧ぐ』


紙面には、現場のたたき上げの兵士たちによる無数の署名と、感謝の言葉がぎっしりと書き込まれていた。


本庁舎の庶務窓口で見た女性曹長や、廊下を胸を張って歩いていた兵科将校現場屋たち。


彼らが胸に飾るピカピカの勲章よりも、はるかに重く、硝煙と死線の匂いがする「現場からの信頼」がそこにあった。


「法務官なんて、書類の裏に隠れて責任を回避する文書屋後方科だ」――軍学校時代、兵科出身の教官から投げかけられた蔑称が脳裏をよぎる。


だが、目の前にあるのは、現場の兵士たちが自らの命と名誉を救われた証だった。


(この人たちは……本当に『軍法』で現場の兵士を守ってきたんだ……)


エレナが感動に打ち震えていると、一つだけやたらと豪華な額縁が目に入った。


(あれ……? でも、一枚だけすごく紙の質が違って、やたらと綺麗な金縁が……? え、これって――『離(・)婚(・)届(・)』……? なんで片方の署名欄が空欄のままなのにこんな恭しく飾られてるの……?)


何かの功績状かと思いきや、不穏すぎる書面の存在にエレナの思考が停止する。


片方に精霊文字のような繊細な筆致で書かれた名前を、エレナが読み解こうと眉をひそめた。


その瞬間、ハンスが湯気の立つデカンタを手に声を潜めた。


「ときに大尉殿。珈琲豆を買いに行ったついでに、本庁舎にいる同期のところに立ち寄ったんですが、その廊下で『とんでもない噂』を仕入れてまいりましてね」


「噂……? ろくな話じゃないんだろうね」


ルインは手元の法規本を開いたまま、気のない返事をする。


「ええ、ろくでもありませんとも。昨日の西部戦線での防衛戦……『第九師団の第十九歩兵連隊所属の一個中隊が、上官の退却命令を無視して独断で死守に走った』とか」


「……ほう」


ルインのページをめくる手が、ピタリと止まった。


「現場の兵士たちは『街の住民を見捨てなかった英雄』と称えているそうですが……本庁舎の兵科幕僚どもはカンカンですよ。連隊長はその中隊長を『抗命罪』で軍法会議に送り、即刻銃殺刑に処すつもりらしいです。軍律のために……」


「……連隊長自身の敵前逃亡や指揮統率の失敗の責任を、全部その中隊長に擦り付ける気だな?」


ルインが冷ややかに煙草の煙を吐き出すと、ハンスも苦笑しながら頷いた。


「ええ。現場の報告書を兵科幕僚が都合よく改ざんし、審問も形だけに済ませて早々に結審させる手筈のようです。予審判事も兵科出身の身内で固めていますから、弁護側が何を言おうと耳を貸さない気でしょう」


「抗命罪……!? 王国軍刑法第百二十一条! 敵前において上官の作戦命令に違反した者は、死刑または無期禁錮……!」


思わず立ち上がり、暗唱した答えを叫んだのはエレナだった。


「命がけで街と住民を守った英雄を、軍法会議で銃殺にするなんて……そんなの、あまりにも理不尽です!」


「戦場の理屈より、自分たちの名誉メンツというわけさ。上官の命令は絶対、それを破った者は英雄だろうと見せしめに殺す。兵科の幕僚どもが好みそうな、実に分かりやすい見せしめだね」


やれやれ、と溜息をつき、ルインはパタンと読んでいた重厚な法規本を閉じた。


ソファーからゆっくりと身を起こした。先ほどの自堕落な空気は霧散し、その瞳には冷徹で鋭い光が宿っている。


「ハンス曹長。珈琲を早く淹れてくれ。それと、この間手に入れた砂糖菓子も出せ……中尉、初日から忙しくなるぞ。珈琲を飲んだら仕事だ」


「え……? 大尉……?」


ルインは不敵な笑みを浮かべると、埋もれていた書類の山から鮮やかな赤塗りの封筒を引っ張り出した。


軍法務局が緊急を要する軍法審問の際にのみ使用する、特殊な通知書だ。


「奇遇だな。今朝僕の机に届いた案件が、まさに、その第九師団の件だよ」


ルインは赤塗りの封筒から、赤い斜線の入った一枚の不服申立書を取り出し、本の山をどかしたテーブルへ滑らせた。エレナは思わずそれを覗き込む。


「第九師団・第十九歩兵連隊所属、第三中隊長マティアス大尉。……罪状は敵前抗命、および敵前逃亡の誘発……!?」


「この中隊長は、連隊長の発した『全軍後方撤退』の命令を無視し、孤立した市街地に留まって陣地を死守した。結果として住民の退避時間を稼ぎ出し、追撃してきた帝国軍の足を止めることにも成功した。……だが、連隊長にしてみれば、自分の『撤退判断』が誤りだったと証明されたようなものだ」


「だから、独断で市街地を死守した英雄を『抗命罪』にすり替えて、中隊長一人に責任を被せようとしているのですね……!」


「その通りだ、中尉。向こうはすでに手回しを終え、予審判事も兵科出身のイエスマンで固めているらしい。……だが彼らは『野戦合議制裁判の緊急特例』を持ち出してきた。戦時下において、現場指揮官は法務官の立ち会いなしで予審を開始できるという、旧時代の悪法だよ」


「そんな……! それでは被告であるマティアス大尉に弁明の機会すら与えられないではありませんか!」


「ああ。奴らは予審で早期に『抗命罪』を確定させ、本審を開かずに不当判決を下す気だ。兵科の連中が『軍律』という名の暴論で英雄を殺すつもりなら――僕たちが『軍法』の正論で、その筋書きを木端微塵(こっぱみじん)にしてやろうじゃないか」


ルインは短くなった細巻きの葉巻(シガリロ)を灰皿に置くと、使い込まれた万年筆のキャップをカチリと鳴らし、胸ポケットに挿して不敵に笑った。


「だから、僕たちの最初の仕事は軍法会議での『弁論』ではない。『管轄違いによる予審停止の申立書』を作成し、奴らの裁判手続きそのものを法的に差し止める。特別野戦法務官の権限で『現地調査の請求書』を叩きつける……さあ中尉、君に特別野戦法務官の仕事を教えてやろう」


エレナには彼の左胸にある「野戦法務官章《開いた軍法書の前に剣と万年筆が交差する徽章》」が、誰よりも眩しく輝いて見えたのだった。




(続)

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