第2話 珈琲と同僚
「……ここは、国王官邸でも、軍学校でも、兵站部でも、ましてや硝煙と死線が交差する最前線でもない。ようこそ、文書屋の法務官室へ。歓迎するよ、エレナ・ブランカ中尉」
決まった。完璧なタイミング、圧倒的な格好よさだった。
ルインの射抜くような鋭い眼光と、静かな威圧感。それらに呑まれ、エレナはゴクリと息をのむ。
まさに、直属の上司が大威張りで劇的に決め台詞を言い放った、その瞬間だった――。
「ただいま戻りましたー。大尉、頼まれていた深煎りの珈琲豆、買ってきましたよー。まったく、新人士官が着任するっていうのに、私をお使いに走らせて……」
ガチャリと無造作に扉が開き、入ってきたのは下士官の軍服に身を包んだ亜人――コボルト族の軍人だった。
バーニーズ・マウンテン・ドッグを思わせる、黒と濃い茶のふさふさとした毛並みが印象的な大型の犬種だ。
エレナの頭一つ分以上見上げるほどの長身で、入口の枠に頭をぶつけそうになりながら部屋に入ってくる。
ピッチリと隙なく着こなした軍服の肩には使い込まれた曹長の階級章が渋く光り、大尉よりも数が多い|略綬リボンバーと徽章きしょうが並んでいる。
だが、手には茶紙の袋を下げ、パタパタと長い尻尾を振っていたのが印象的だった。
「……遅いぞ、ハンス。おかげで新人に渋い顔をされた」
「そんなこと言われましても、大尉が指定した街はずれの珈琲屋に行かないと売ってないんですから。遠いんですよ、あそこ……」
文句を言いながらも手際よく紙袋から深煎りの香ばしい豆を取り出したのは、特別野戦法務官室の唯一の書記官、ハンス曹長だった。
「ご苦労様。まあ、ちょうどいいタイミングだ」
先ほどまで抜身のサーベルのような気配を纏っていたはずのルインは、せっかく羽織った軍上衣をまた雑に脱ぎ捨てると、あっさりとソファーの上で元の自堕落な体勢に戻っていた。
「ちょうどいい、ではありませんよ! 街はずれの珈琲屋まで往復するのにどれだけ……おや? あなたが今日着任する中尉殿ですか?」
パタパタと耳を揺らしながら部屋の奥へ進んだハンスは、ソファーの端で背筋をピンと伸ばして座っているエレナに気づき、くりっとしたつぶらな瞳を丸くした。
呆然とするエレナに、ルインがめんどくさそうにひらひらと手を振る。
「エレナ・ブランカ中尉、紹介しよう。当室の優秀な書記官、ハンス曹長だ」
「失礼いたしました! 本日付で配属のブランカ法務中尉殿ですね! 特別野戦法務官室の書記官を長年務めております、ハンス・マイヤー曹長であります!」
ハンスは抱えていた珈琲豆の袋を小脇にある棚の上に置くと、短く引き締まった動作でビシッと見事な敬礼を捧げた。
「あ、はい! エレナ・ブランカ法務中尉です、よろしくお願いいたします、ハンス曹長」
エレナも思わず立ち上がって敬礼を返す。本庁舎の冷淡な受付曹長とは違い、ハンスの対応には温かみと親しみやすさがあった。
(……すごく背が高い。でも、なんて優しそうな瞳……)
この世界では、種族の違いによる差別や異種族間の結婚の壁はとうに乗り越えられている。
だが、その種族の違い以上に――軍内部における『兵科』と『後方科』との間には、時に根深い隔絶と蔑視が存在していた。
だからこそ、目の前のハンスが放つ、実家で可愛がっていた大型犬のような愛らしさと、頼もしい大人の下士官としての色気が同居した雰囲気に、エレナは不覚にも少し胸が温かくなるのを感じていた。
「中尉殿……まさかとは思いますが、大尉の淹れたあの『出がらし』の珈琲をお飲みになったのでは?」
ハンスは急に怪訝な顔つきになり、テーブルの上のカップを見つめた。
「えっ? ええ、今、戴こうかと思ってましたが……」
「ああ、よかった! まだ口にされていませんね。大尉、新人士官に自分の『出がらし』を出すなんて意地が悪いですよ。……まあ、わざとぬるい珈琲を出して、本庁舎で熱くなった頭を冷まさせようとしたんでしょうけど。大尉のいつもの不器用な悪癖です」
「余計な勘繰りはするな、ハンス曹長。僕はただ面倒だっただけだ」
ルインはふてぶてしく横たわったままソッポを向いた。
(やっぱり……わざと頭を冷やさせるための気遣いだったんだ……!)
エレナはじっとカップを見つめ、ルインの不器用な優しさに胸を熱くした。
「すぐに淹れ直しますからね。……大尉、中尉殿をこんな足の踏み場もない部屋でお待たせするなんて、少しは片付けたらどうなんです? 出る前にも進言したではありませんか」
「片付けると、どこに何があるか分からなくなるだろう。いいんだよ、これで。ハンス曹長、僕の分も濃いめで頼むよ」
「はいはい、分かっておりますよ……」
ハンスは苦笑しながら、手慣れた手つきで真鍮製のミルを取り出した。
大きな手に似合わぬ器用な爪先で豆を投入し、ハンドルを回すと、カリカリと心地よい豆の砕ける音が狭い室内に響き渡る。
「中尉殿、大尉の見た目に騙されてはいけませんよ。こう見えてうちの大尉は……」
「ハンス曹長、余計なことを言うな。豆が粗引きになっているぞ」
ソファーからソッポを向いたままルインが口を挟むが、ハンスは「おや、厳しいですね」とパタパタと耳を揺らして笑うだけだ。
深煎り豆の豊かな香りが一気に広がり、部屋を包み込んでいった。
(なんだろう……この実家に帰ってきたような安心感は……)
毒気を抜かれたエレナは、そっと胸を撫で下ろした。
だが、この温かな珈琲の香りに包まれた穏やかな時間が、ほんの束の間の『嵐の前の静けさ』に過ぎないことを……。
――この時のエレナは、まだ知る由もなかった。
(続)




