第1話 最初の配属
「よし……! 気合いを入れていこう」
見上げるような赤レンガの壁。朝日に照らされた王都軍総司令部・本庁舎は、歴史と権力を体現するかのように重厚な威厳を放っていた。
行き交う兵科の将校たちの軍服には燦然と輝く飾緒や勲章が躍り、誰もが誇らしげに胸を張っている。
堂々たる体躯のオーク族の歩兵少佐も、耳の尖ったエルフ族の航空士官も、一様に『軍人の誇り』を全身から漂わせていた。
この世界では種族間の壁はすでに乗り越えられている。
だが、その種族の違い以上に、兵科と後方科との間には深い隔絶と蔑視が存在していた。
エルフのような高い魔力も、オークのような強靭な体躯も持たない人間族の自分が、この軍隊で身を立てるために選んだ武器――それが『法規』だった。
軍法務学校の野戦法務官課程を優秀な成績で卒業し、晴れて配属された最初の任地。
エレナ・ブランカ中尉は新品の軍服の襟を正すと、緊張で胸を高鳴らせながら、豪華な彫刻が施された正面扉をくぐった。
着任予定の士官はまず本庁舎の庶務窓口にて着任申告を行う――軍規通りの完璧な手順を踏み、これから輝かしい軍法務官として軍歴が始まる――はずだった。
「失礼します! 本日付で配属されましたブランカ中尉です。着任の申告に参りました」
きりりと背筋を伸ばし、大理石の大広間を颯爽と進んだエレナは、受付窓口ではっきりとした声を響かせた。
デスクで書類を検分していた中年の女性曹長が、面倒そうに顔を上げた。エレナの肩にある一本の金線と二個のひし形の星章、そして白い縁取り――法務中尉の階級章を一瞥する。
相手が現場を知らない「文書屋」の新人士官だと察した叩き上げの下士官は、寸分の狂いもない完璧な敬礼を一つ寄越すと、一切の感情を排した声で応じた。
「早朝よりお疲れ様でございます、中尉殿。……で、配属先はどちらでありますか?」
「法務部です! 第四分庁舎・特別野戦法務官室への着任となります!」
「……恐縮ですが、中尉殿。当窓口は、指揮および命令に携わる『兵科』のための申告窓口となっております。省令に基づき、法務部等の後方科への着任申告は、現地にて直接執り行われる規定となっております。本庁舎の業務の妨げとなりますので、速やかにご移動いただけますようお願い申し上げます」
「えっ……? ですが、全士官の初日申告は本庁舎の庶務窓口で行うと軍律規定に――」
「規定の第八条の例外規定であります、中尉殿。……速やかなご移動を」
そう言い捨てると、女性曹長は手元の書類に冷淡な動作で『回覧』の判を押した。
バン、と容赦のない木印の音が、吹き抜けの大理石に冷たく響き渡る。
「く……っ」
完璧な軍隊式敬語とマニュアルを楯にした、あからさまな門前払い。
悔しさで唇を噛み締めながら本庁舎の玄関を出たエレナは、手にした配属辞令をもう一度見つめた。
『王都軍総司令部 法務部 第四分庁舎・特別野戦法務官室』とされている。だが、本庁舎とはどこにも書いていない。
てっきりこの絢爛豪華な本庁舎の中にあると思い込んでいた自分を呪いつつ、配属辞令から目を上げ道路を挟んだ反対側へ視線を向ける。
そこに鎮座していたのは、華やかな本庁舎とは対極をなす、黒ずんだ石造りの重厚な建築物だった。
かつて軍事監獄として使われていたその別館は、陽の当たらない陰湿な空気を纏っている。
分厚い石壁にはかつての鉄格子が切り取られた痕が残り、錆びついた金属プレートの上に、雑な木札で「法務部」と重ねて掲げられていた。
(ここが……私の配属される法務部……?)
エレナは眩暈を覚えながら、湿気を含んだ薄暗い石造りの階段を上る。
すれ違う職員たちも、本庁舎で見かけたパリッとした兵科将校とは程遠く、コボルト族やゴブリン族などがみな大量の書類を抱え、疲れ切った目で廊下を歩き回っていた。
掠れた案内板によれば、目的の『特別野戦法務官室』は四階だ。エレナが四階に着くころには、せっかく整えてきた息もすっかり乱れていた。
奥まった廊下の突き当り。煤けた扉の前に立ち、彼女は必死に心を落ち着かせる。
(落ち着くのよ、エレナ。外観は古くても、中はきっと素晴らしいはず……!)
意を決して、ドアをコンコンと叩く。
「はいー?」
中から聞こえてきたのは、軍人とは思えない、語尾の伸びきった返答だった。緊張感の欠片もない声に、エレナは綺麗に整えられた眉をひそめる。
「失礼します!」
ギシっと嫌な音を立ててドアを開けた瞬間、エレナは絶句した。
そこに広がっていたのは、異次元の光景だった。
天井まで届く書類と本の山。
足の踏み場もないほど床に散乱した判例集と資料集。空気中には万年筆のインクと古い羊皮紙の埃っぽさ、そして微かな葉巻の香りが充満している。
どこか甘い珈琲の残り香も混じり、独特の重苦しさを醸し出していた。
壁の本棚は収容能力が完全に破綻しており、そこら中に『国際陸戦条約註釈』や『軍法会議判例集』といった分厚い法規本が平積みされている。
本の重みで床がたわまないか心配になるほどだった。
「なぜこんな貴重な判例集が平積みに……?」
そして、その紙の山脈の先。
部屋の中央にあるガラスのテーブルと、対面に置かれた二人掛けのソファー。
ソファーの肘掛けに磨かれた軍靴を履いた足を無造作に放り出し、だらしなく横たわっている一人の男性がいた。
黒いズボンに、ボタンを雑に外した白いシャツ姿で、分厚い古書を読んでいる。二十代後半ほどの若い青年だ。
「あの……! こちらに、特別野戦法務官室長のヴァルハイト法務大尉殿はいらっしゃいますでしょうか?」
「僕だが……」
青年は開いた古書の端から、ちらりと視線を覗かせた。
エレナの乱れた息と、固く握りしめられた配属辞令を一瞬で射抜く。
「まあ、座りなさい。本庁舎から走らされて、不当な扱いを受けてきたんだろう? 息を整えていくといい」
「え……? あ、ありがとうございます」
エレナは戸惑いながらも、空いたソファーに腰を下ろした。青年は再びソファーに横たわり、手元の本に目を落とす。
「……あの、失礼ですが、着任の報告を――」
「そう焦るなよ。いくら発汗調整機能がついた魔法繊維の最新軍服だからって、せっかくの新品が汗で台無しになっちゃうぞ?」
青年は本から目を離さず、ひょうひょうとした、だが妙に心地よく耳に届くトーンで言った。
「怒りと悔しさで肩を怒らせたままじゃ、まともな申告もできない。僕がこの数ページを読み終えるまでに、そこの珈琲でも飲んで呼吸を整えなさい。あいにく書記官のハンス曹長が席を外していてね、ぬるい珈琲で申し訳ないが」
青年はソファーからゆったりと起き上がると、脇のサイドテーブルから冷めた珈琲の入ったデカンタを取り上げ、雑にグラスへ注いでエレナの前へ置いた。
(この人……わざと本に没頭するフリをして、私に心を落ち着かせる時間を与えてくれていたの……?)
乱れた呼吸が、いつの間にか静まっていた。自分の状況も悔しさの理由もすべて見透かされているような言葉に、エレナは息をのんだ。
(……だらしなく見えて、なんて恐ろしい観察眼……)
エレナの頭が整理しきれないでいた、その時。
「――で? 本庁舎の庶務窓口で、受付のベテラン曹長に『第八条の例外規定』でも引き合いに出されて追い返されたかい?」
「えっ……!? な、なぜそれを……!?」
目を丸くするエレナをよそに、青年は本を読んだままソファーにもたれ掛かると、寝癖のついた頭をバリバリと掻いた。
「あそこの受付曹長は、兵科以外の後方科を『文書屋』と見下すのが悪癖でね。……だが、自分を責めることはないよ。彼女が口にした『第八条の例外規定』は二十年前に廃止された旧法規だ。君が知らなかったのではなく、相手が『存在しないルール』をさも当然のように叩きつけてきただけだ」
青年はようやく本を閉じると、どこか温かみのある穏やかな眼差しをエレナに向けた。
「初日の緊張と、現場の叩き上げが放つ独特の圧迫感……そこで瞬時に相手の欺瞞を見抜いて反論しろという方が酷だ。よく折れずにここまで辿り着いた。上出来だよ、ブランカ中尉」
ただの怠け者ではない――そんな冷や汗が背筋を走る。
「君がエレナ・ブランカ中尉だろ。先週末に配属書面が届いた時から楽しみにしていたよ。……国家の正義を背負って、あの絢爛豪華な本庁舎でカッコいい仕事ができると期待していたかい?」
「そ、それは……」
図星を突かれ、エレナは言葉に詰まる。
「期待外れで悪かったね。……だが、あの『虚飾の城』に乗り込まずに済んだことを人事局に感謝するといい。君のその真っ直ぐで綺麗な志を、あいつらの政治ごっこで使い潰させる気は僕にはないからね」
青年はソファーの背もたれに掛けられていた黒の上衣を取り上げると、無造作に羽織った。
その肩には一本の金線と三個のひし形の星章、そして白い縁取り――『法務大尉』の階級章が鈍く輝いている。
そして左胸には、二級王国戦士章と西部戦線従軍記章の略綬が整然と並び、開いた軍法書の前に剣と万年筆が交差する『野戦法務官章』――彼が並々ならぬ修羅場を潜り抜けてきた特異な実績を示す特別資格章が佩用されている。
(たい……い……!? このだらしのない怠け者が、私の直属の上司……!?)
エレナは何もない自分の軍服の左胸をそっと見た。
青年は机の上から使い込まれた黒漆の万年筆を取り上げた。左手の薬指にはめられた古びた銀の指輪が、静かに鈍い輝きを弾く。
カチリ、と万年筆のキャップを嵌めた。
その所作はまるで、兵科将校が抜身のサーベルを鞘へと納めるかのように洗練され、静かな殺気を孕んでいた。
「――特別野戦法務官室長、ルイン・ヴァルハイト法務大尉だ」
洗練された動作と静かな風格。
ルインは呆然とするエレナの軍服の歪みをそっと整えるように、視線で優しく促すと、どこか茶目っ気を含んだ柔らかな笑みを浮かべた。
「……ここは、国王官邸でも、軍学校でも、兵站部でも、ましてや硝煙と死線が交差する最前線でもない。ようこそ、文書屋の法務官室へ。歓迎するよ、エレナ・ブランカ中尉」
これが、エレナの新人法務士官としての勤務初日にして、理不尽な軍部と戦う『すべての始まり』だったのだ。
(続)
はじめまして、文坂武と申します。
これまで小説とは無縁の生活を送っていましたが、このたびご縁があり、執筆活動に挑戦してみることにしました。
何を書こうかと考えた末、「自分が面白いと思えないものは、読者も面白いはずがない」と思い至り、まずは自分が心から面白いと思える物語を書いていくことに決めました。
第1作のタイトルは、『特別野戦法務官ルイン・ヴァルハイトは軍法会議の理不尽を許さない~ここは、硝煙漂う最前線ではない。文書屋の法務官室へようこそ~』です。
軍法務官の法務大尉ルインと新人の法務中尉エレナたちが織りなす物語。
どうぞよろしくお願いいたします。




