仕組まれた未来から
十二月二十五日。
その小ぎれいな一室には、空いた窓から夕日が差し込んでいた。
消毒液の臭いと、窓の外から流れ込んでくる樹木の匂いと、それら二つが混ざったにおいは、不快ではないが、慣れるのは難しいような独特なものだった。
だから、部屋の造りがどうこうのよりも、ここがどこなのかを知らせるには、そんなにおいがこの上ない助けになった。
奥から手前に、室内には寝台が二床だけ並んでいる。
手前の寝台で目を覚ましたホロロは、奥の寝台で眠るミュートを見つけた。
「……良かった」
満ち満ちた想いが、その言葉にこもって溢れる。
ひどい倦怠感を覚えながらも身体を起こして、寝台の横に足を投げ出した。そうすれば患者衣姿のミュートが眠っている寝台と、最奥部にあたる窓が正面になった。
彼女の腹部が上下している様子を眺めて安堵する。
風穴が空いたはずの胸を撫で下ろすと、また自分の生存にも確信をもった。
ギルヴィムの件もあって、この今がある理由も腑に落ちる。
その時、室内に細長い人影が落ちた。窓側に目をやって誰のものか窺った。過去、再会を切望してやまなかった一人がそこにいる――だから思わず目が丸くなった。
「あ……」
記憶に新しい隠密装束を着て、それでいて仮面は顔を離れて手中にあった。風になびくカーテンの合間で、背中に茜色の日差しを浴びている佇まいには、まるで敵意などは感じられない。
ただ黙々と視線を向けてきていて、そして何とも言えない表情をしている。
ウツロとしてではない、ウェダルとしての姿だ。
それから何をするでもなく踵を返そうとした彼を、ホロロは慌てて呼び止めた。
「ま、待って……あ、いや、えっと……その……あの……」
かといって用意などできていなかった。伝えたいこと、聞きたいこと、話したいことが多すぎて、その優劣はすぐにつけられなかった。
言葉が喉を越えてこなかった――じっと待っていたウェダルの辛抱強さに甘えて数分、ホロロは一言だけ選んだ。
今ここにある自分の心のすべてが、記憶をさかのぼれば、その言葉に集束していく。
それをくつがえした彼の意図が、今になってようやくわかる。
「……この心を、ありがとう」
聞いて、ウェダルが窓の縁に足をかける。
その仮面をつけなおす間際には、確かな笑みがあった。
寝台のわきに椅子を持ち寄って腰かける。
ちょうどミュートが目を覚まして、ホロロは自然と顔が緩んだ。
「君も、私も……生きているのか?」
重々しく身体を起こしたミュートの気色は、すぐに後ろめたそうに沈んだ。
普段の様子を見せて、ホロロは「うん」と相槌を打った。
「……少し夢を見ていた。七歳くらいの頃の夢だった」
また「うん」とだけ、ホロロは相槌を打った。
「本当の名前はテレーゼと言って、私はえらく両親に可愛がられていた……」
ミュートが見ていた夢を話す。
ホロロは内容の半分を聞く前から知っていた。それがもう半分なのだと察すれば、余計な口を挟もうとは思わなかった。彼は相槌だけを打って聞き続けた。
「……いっそ夢であって欲しかった。何もかも、ぜんぶ……ぜんぶだ」
話しの終わりには、そう弱々しい嘆きがある。
ホロロはミュートに右手を取られた。彼女の両手に包まれたその右手を、彼女の意思に任せた――抱え込むように、胸元に引き寄せて、そこにいくつもの涙を落される。
伝わってくる震えから、一滴一滴の感触から、彼は彼女の罪の意識を感じとっていた。
「この手を血に染めて、あまりに大きなものを奪ってしまった。私は、君に何と言っていいのか……本当に、本当に、申し訳ない。……申し訳ない」
続けられた謝罪から、その心の在りようを確信する。
「大丈夫。……僕は大丈夫だよ」
ミュートが落ち着くまで待って、ホロロは彼女の手を外から握り返した。
「ミュートさんが傷ついて、本当に憎いと思った。ためらった覚えもない。そんな自分を護っている余裕なんか、まるでなかったよ。ちょっと前に言われたことがあってさ。もし護り切れなかった時はどうなるのかって……たぶん、今この心にあるものが答え、なんだ」
袖で涙を拭いながら、ミュートが頷く。
「怒ったり、憎んだり、やっぱり僕は良くないなって思う。でも、それだって人には必要な、大切な感情だって、あの人が教えてくれたような気がしているんだ」
声には、わずかに自嘲を含ませる。
「大切だから、傷つけられたら怒る、それだけ憎みもする。誰かのために力を振るおうとも思える。考えたら僕のそれともあまり変わらなくて……やっぱり何だか僕って都合がいいや。どうやったってこれは僕の願いでしかない」
そして、ミュートに断言する。
「まだ諦めていない。これからも自分のために、僕は優しい騎士を続けていくよ」
「……そうか」
気が楽になったように、ミュートが小さな笑みを浮かべる。
そんな彼女を真っ直ぐに見つめて、ホロロは口走るように続けた。
「だから帰って来て。それで……僕のそばにいてください」
2018年1月26日 全文改稿。




