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人魚 壱

 今から数百年も前のことだ。ある海沿いの村で、たびたび村人が行方知れずになっていた。浜に釣りに出た者や貝を採りに潜った者。いなくなるのは決まって、海に近づいた男達だった。

 村人達はそれらを不幸な事故だと思っていた。彼らは海が恵みを与えてくれるばかりではないことを知っている。幼少の頃から慣れ親しんでいたとしても、一歩踏み外せば容易く呑まれるのが海という怪物だ。消えてしまった彼らも怪物に足を絡め取られてしまったのだと、村人達はそう納得していた。


 真実が明らかになったのは月の綺麗な晩のことだった。うまく寝付けなかったある夫婦が、眠くなるまで月でも眺めようかと揃って出かけ、浜辺を歩いていたときだ。

 女は寄せては返す波の調べと共に、奇妙な歌が聞こえていることに気が付いた。金属板を擦りあわせたような耳障りな高音が、抑揚のない旋律を伴って響いている。その音は一度気が付いたが最後、意識にまとわりつき離れてはくれなかった。脚を、胸を、頬を、ざらりと撫で回されるような不快感が耳を塞いでもなお襲ってくる。

 それでも女は、震える喉から何とか声を絞り出した。


 ねえ……この音、なんだと思う?


 答えは返ってこなかった。それで女はようやく、隣で起こっていた異変に気が付いた。

 男の姿がない。

 慌てて振り返ると、男はすぐに見つかった。寄せる波に逆らいながら、海の中を歩いている。既に膝まで浸かっていた。立ち止まる気配はない。

 女はすぐに後を追った。ここで止めなければ、男は二度と帰ってはこない。彼女を突き動かしたのはそんな直感であり、恐怖だった。歌はまだ続いている。男の手を掴んだ。だが、止まらない。


 ねえどうしたの、ねえ。


 男の肩を掴み、強く引く。よろけた拍子に覗いた男の顔に生気はなく、瞳は暗い海の底のように虚だった。そこにはおよそ意志と呼べるものが感じられず、何者かに操られているかのようだ。

 そんな男の様相を目の当たりにしながら、しかし女の注意を引いたのは別のものだった。


 男の肩越しに見た海に、何かが浮かんでいる。上半身だけを海上に晒したそれは、影だけならば人のようにも見えた。

 だが違う。月明かりを背に、そいつは鋭い牙の並んだ口をくしゃりと歪めた。それが笑みだとわかったのは、奴の落ち窪んだ眼窩に浮かぶ、濁った真珠のような目が喜色を浮かべていたからだ。

 奴が笑ったからだろうか。気付けば歌は止んでいた。






 客引きの声が飛び交う朝の通りを、腰に剣を提げた長身の男が歩いていた。眠そうな目をしている割に足取りは軽く、喧騒に紛れるのを良いことに鼻唄まで唄っている。

 男――リンタロウは、この時間帯の街を歩くのが好きだった。朝の日差しと澄んだ空気、そして活気に満ちた人々の声。歩いているだけで活力を貰えるような、そんな気分になる。

 加えて屋台から漂う香ばしい匂いが、まだ何も入れていない腹をダイレクトに刺激する。今日は何を食べようかと、物色しながら歩くのも毎朝の楽しみだ。


 そうして選んだ串焼きを頬張りながら目指すのは、市場を抜けて街の北側、丁字路の突き当たりにある周囲より一際大きな三階建ての建物。看板こそ提げられていないが、両開きの扉に描かれた黒と白の二頭の竜を見れば、そこがどんな場所かはよそ者だろうとすぐにわかる。

 冒険者ギルド、モンスターの討伐を生業とする者達の活動拠点だ。




 ギルドに入ると、中の空気は普段と少しだけ違っていた。いつもは冒険者達が情報交換をしたり、武勇伝を語って聞かせたりと騒がしいのだが、今日はその声量が一段抑えられている。皆、会話以外のどこかに意識を向けているようだった。

 ではどこに意識が向いているのか。答えは一目で分かった。


 依頼を受ける手続きをしているのだろう。受付のカウンターのひとつに、周囲の視線を集める四人組がいた。

 特に注目を集めているのが全身鎧(プレートアーマー)の戦士だ。真紅の鎧で頭から爪先までを完全に覆い、背中には炎のように煌めく朱色の大剣を背負っている。

 遠くにいても人目を惹く絢爛な装備だが、この戦士が注目を集めるのはそれだけが理由ではない。


「炎帝ヴィナーリア、いつ見てもすげぇ迫力だな。俺じゃ何年経ってもあのオーラは出せねぇよ」

「あたりめぇだバカ。相手は加護持ちの特級冒険者、俺達からしたら雲の上の存在だぞ」


 リンタロウの近くにいた二人組が声を潜めてそう話す。

 炎帝――それは真紅の戦士が生まれながらに持つ特異な能力、加護に由来する二つ名だ。炎を生み出し、操る力。それだけなら魔法を得意とする魔法士でも同じことができるが、火力と精度、そして何より魔力というリソースを必要としないことの三点において、この戦士の能力は非常に優れていた。

 そしてこの能力と高い戦闘技術を持つが故に、真紅の戦士は特級冒険者――チームではなく個人の冒険者に与えられる中で最高の称号を手にしている。多くの冒険者にとって憧れることすらできないほどの高みにいる存在なのだ。


(雲の上、ですよねぇ)


 胸の内でそう同意していると、ちょうど手続きが終わったらしい四人組が、真紅の戦士を先頭にリンタロウのいる出口のほうへと向かってきた。

 進路の近くにいる冒険者達が誰からともなく道を開ける。その様子に海を割って歩く聖人を思い浮かべなら、リンタロウも一緒に端に寄った。そして――先頭を行く真紅の戦士がリンタロウの前を通るとき、ほんのわずかだが、兜に隠された顔が彼の方を向いた。


 リンタロウもそれに気付いたのだろう。周りには悟られぬ程度に表情を緩め、軽く頭を下げた。

 二人の間にあったやり取りはそれだけで、四人組が出て行った後のギルドはいつもの喧騒へと戻って行った。


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