ある冒険の話 伍
先手を取ったのは化け物だった。
巨大な爪の生えた蜘蛛のような脚が振り下ろされる。頭上からの攻撃を、男は横に跳んで躱した。立っていた場所には穴が開いている。鎧を身につけていない今、まともに喰らえば一撃でも大きなダメージを受けるだろう――と、化け物は考えているはずだ。
確かに男は戦いを生業にしているとはいえ、その耐久力は並の人間と大きくは変わらない。その点では化け物の読み通りだ。
だが男には不死の能力がある。この能力の前にあらゆるダメージは意味をなさない。先のように再び立ち上がり、何食わぬ顔で剣を構えるだろう。
ではなぜ男は攻撃を躱すのか、それは目の前の敵を逃さないためだ。相手は高い知性を持っている。不死の能力に勘付かれれば戦闘を放棄し逃げ出す可能性があった。
(次俺が死ぬときは勝負を決めるとき、それまでは耐え凌ぐ――)
化け物が左右の前脚を持ち上げた。右、そして左。振り下ろしではなく、横薙ぎの攻撃を連続で放つ。男はそれを後ろに跳んで躱した。紙一重の回避――眼前を化け物の脚が通り抜け、風圧が男の態勢をわずかに崩す。その隙を化け物は逃さない。飛ぶようにして距離を詰め、巨体をぶつけにくる。
「ちっ――」
間に合わないと思ったときには身体は後ろに吹き飛んでいた。巨体の一撃をまともに喰らった男は背中から地面に落ちると、そのまま数度転がった。
意識はある。身体の痛みも動けないほどではない。男はすぐに立ち上がろうとして、バランスを崩し膝をついた。眩暈だ。受けた衝撃が視界と脳を揺らしている。
ぐらつく視界の奥で、化け物が再び迫ろうとしていた。一気に決着を付けるつもりだ。
男は剣を杖代わりに地面に突き立て、空いたもう片方の手の平を化け物に向かって突き出した。すると追撃しようと動き出した化け物の動きが目に見えて鈍る。半ば賭けだったが、男のはったりが功を奏した。
化け物が警戒したのは魔法による攻撃だ。うかつに近づけば反撃を受けかねない。そう判断した化け物は距離を取ったままの攻撃に転じた。
化け物が大きく口を開ける。それを見た男は突き出していた手を腰に提げた小さな袋に入れ、中から緑がかった石を取り出した。
敵の攻撃は石を取り出すのとほぼ同時だった。化け物の口から紫色のガスが吐き出され、男へと迫る。煙幕のように広がるそれは、視界を奪うだけの霧とは異なる、殺傷力を持った毒の息だ。
毒の息が退路を塞ぐように周囲へ広がりながら獲物を飲み込もうとする――男が石の能力を使ったのはその時だ。握った手に力を込め、魔力――魔法を行使するためのエネルギーを注入する。すると石は淡く輝き、風が起こった。男を中心に半球を描くように吹き荒れる。その風は長くは続かなかったが、毒を霧散させるには充分だった。
魔法の効果を持つ石――魔石を袋に戻しながら男が立ちあがる。先の攻防で稼いだ時間は、平衡感覚を取り戻すには充分だ。
「その攻撃なら、もう知ってる」
男の言葉に化け物は歯噛みした。初めて見せたはずの毒の息をどこで知ったというのか、その答えはひとつしかない。
「その口、二度と開けなくしてくれる」
化け物が激昂する。男はあえて挑発したのだが、狙い通りに乗ってくれたようだ。
男は自分が強くないことを知っている。知能の高い怪物に冷静でいられては勝ち目は薄い。感情を揺さぶり、平静を奪い、隙を作らなければならない。
化け物が動いた。距離を詰めると、巨大な鋭い爪の生えた右脚を天高く上げ、振り下ろす。怒りに任せた大振りの一撃。速度と質量を持ったその一撃は人間の身体など容易く叩き潰すだろう。
だがしかし、単調だ。その動きもまた、何度も見ている。
男は左に躱した。そして化け物の左脚による追撃が、やや遅れて男を襲う。それも躱して距離を取りながら、男は思案する。
ここまでの化け物の攻撃はほとんど右脚から始まっている。おそらくは初撃、不意打ちで左脚の付け根に入れた傷が理由だ。あまり動かしたくないのだろう。左脚の攻撃に右脚ほどのキレがないことからも、最初の一撃が効いていることは明らかだった。
(付け入るならそこか…………)
焦れた化け物が飛び込むようにしてぶつかりに来る。それを後ろに跳んで躱すと、再び前脚の攻撃が始まった。右。そして左を持ち上げ――反撃に転ずるのは今だと、男は判断した。
左脚の一撃を前方、化け物の方へと跳び込み躱す。距離を詰めにくるのは想定外だったのだろう。化け物は虚を突かれ動きが止まった。加えてキレのない左脚は戻す動作も一拍遅れる。その隙が好機だ。
男が狙ったのは左脚の付け根、初撃で刻みつけたまだ生々しい傷口だ。男はその傷口に、剣の代わりに拳を突き入れた。
「ぐっ……」
鋭い痛みに化け物が唸る。だが男の攻撃は物理的な一撃に終わらない。
男はなぜ剣ではなく拳を突き入れたのか、その答えは手の平の中にある。跳び込むと同時に先ほどの小さな袋から取り出した赤みがかった石、炎の魔石だ。
男が石に魔力を込める。燃料を得て起動した石は炎を放ち、化け物を灼いた。
「がはっ――あああああああああああああああああ」
その炎は業火と呼ぶには些か火勢が足りていない。皮膚の上からであればさして有効な攻撃にはならなかっただろう。だが抉られたばかりの肉と神経を直接灼かれれば、それは化け物といえど耐えがたい痛みになる。化け物の絶叫がその証だ。
それからそう経たない内に炎は収まった。引き抜かれた男の拳は、既に回復を始めてはいるが、黒く焼け爛れている。
(この隙に追撃を――)
そうして剣を構えようとした男を、化け物の脚が捕らえた。いや、それは脚というより腕なのかもしれない。元から生えていた六本の脚ではなく、背中に近い位置からもう二本が伸び、男を化け物の体に押さえ付けたのだ。
「はああ……捕らえたぞ。この状態であれば幻術でも誤魔化せまい」
「こいつ、まだ奥の手を隠してやがったか――」
化け物はまだ息を荒くしていたが、それでも一瞬で形勢は逆転した。男の力では拘束を解けず、剣を振ることもできない。握ったままの魔石ももはや使えなかった。男にはもう、石に込めるだけの魔力がない。
化け物が口を開けた。何をするかは明白だ。動きを封じたままの毒殺、既に知っていた技で殺そうというのは化け物なりの意趣返しか。
毒の息が化け物ごと男を包み込む。視界が奪われ、息が乱れる。男は無駄とわかっていながらも、拘束を解くため足掻こうとした。だが手足は痺れ、まともに力が入らない。そうして全身から力が抜けきった頃には、男は意識を完全に手放していた。
拘束している腕で拍動が止まったことを確認すると、化け物は男の身体を解放した。そうして地に落ちた男の背中を睨んでいる。化け物は右脚を振り上げ、その背に向かって振り下ろした。弟を殺された怒りは一度殺した程度では収まらなかったらしい。巨大な鋭い爪は男の身体を貫通し、空いた穴からは穿たれた地面が覗いていた。
化け物はもう一度右脚を振り上げ――しかし今度は静かに地面に下ろした。怒りが消えたわけではない。ただ、これ以上は虚しさが勝ったのだ。
「逃げた人間どもを探すか。奴らを喰い殺したらここに用はない」
そう言って化け物は歩き出し、男に背を向ける。化け物の中で、この男との殺し合いは終わっていた。それは化け物にしてみれば当然の判断だ。だが、それが勝敗を決する致命的な隙だった。
この時点で、化け物は亡き弟と同じ結末を辿ることを決定づけられたのだ。
勝手に終わってんじゃねぇぞ。
背後で声がする。
その瞬間の衝撃に化け物は振り返り、あり得ないはずの物を目にした。立ち上がり、剣を構え、こちらに向かってくる男。その光景は化け物の思考を凍結させるには充分だった。
「馬鹿な……」
動揺が漏れ出た直後、男の突きが化け物の左目を潰した。その痛みに化け物は目にした物が幻ではないことを知る。だが、もう遅い。
続く一閃が右目を襲う。闇に閉ざされた世界の中で、化け物は死期を悟った。もはや逃げることも叶わない。抵抗する気力も残ってはいなかった。化け物にはもう、男を殺す展望も視えなくなっている。
「クソッたれが…………」
一太刀ごとに命が削られていくのを感じながら、化け物は静かに死を受け入れた。
「ふぅ…………終わったか……」
化け物がようやく沈んだのを確認し、男は脳天に突き立てた剣を引き抜いた。そこに勝利の余韻などなかった。やりきれない想いが淀んだ霧のように渦を巻いている。
男は天を見上げた。胸中とは対照的に、澄み切った星空が広がっている。その光景に男は再び嘆息した。
「俺のことは適当に誤魔化すとして…………あの母娘のことは、ちゃんと伝えなきゃダメだよなぁ……」




