ある冒険の話 肆
男は自分の身に何が起こったか即座に理解していた。背中に刃を突き立てられている。男は革鎧を外していたから、その身体はすんなり刃を受け入れていた。
男の背に深く刺さった刃――包丁の柄を握っているのは、酒を運んできたアリサという女だ。いつからだろうか、柔和な笑みは影もなく消え失せている。冷え切った眼で男を見下ろすその表情は、別の人格が乗り移ったかのようだった。
女は刃を一息に引き抜くと、男を押し倒した。男はされるがまま、うつ伏せに組み伏せられる。女は空いた手で男の肩を抑え込むと、逆手に持ち替えた刃を再びその背に振り下ろした。一度や二度ではない。何度も執拗に刃を突き立てられ、その度に男は嗚咽を漏らした。身体から血が噴き上がるたび、女の栗色の髪が紅く染まっていく。
その血は隣に座っていた村長をも汚したが、彼を含めた村人達は声を上げることすらできないでいた。目を覆いたくなるような惨劇から、しかし誰もが視線を外せないまま、幻を見せられたように唖然としている。
やがて噴き出る血の勢いが収まると、女はようやく男の身体を解放した。男の身体は地面に折れたまま、ぐったりと動かない。脈も呼吸も、確認は不要だった。できあがった血溜まりの大きさが、彼の状態を物語っている。
「あ……」
惨劇の終幕を間近で見届けた村長が、ようやく絞り出すように声をあげた。
「アリサ…………おまえ、なにを……」
その声は女には届いていなかった。耳には入っているのだろうが、そちらには欠片も意識を向けず、ただ一仕事を終えたように天を見上げている。血の滴る刃を握り、その身を紅く染めたまま。
「弟の仇は取ったが、やはりこの程度では収まらんか」
それは女のものだったのだろうか。静かに、だが堪え切れない怒気を孕んだ声に、人々は再び沈黙させられた。
そして、女の周囲に霧が立ち込める。
「ああそうだ。収まらぬ怒りは、貴様らを腹に収めて仕舞いにしよう」
白い霧はたちまち辺りを包み視界を奪う。だがそれでも、焚き火が照らす影だけは女の真実の姿を映し出していた。
人型の体が膨張し、破裂する。現れた丸い巨躯からは蜘蛛のように脚が生え、巨大な角のある頭が霧のスクリーンに浮かび上がった。
「ば、化け物だ――っ! まだ化け物が……アリサが化け物になりやがった――!!」
誰かが叫ぶ。その声が引き金を引いた。それまで恐怖で石化していた村人達は、悲鳴をあげながら蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。霧に視界を奪われていたことがかえって功を奏したかもしれない。化け物の形相を直接目の当たりにしていれば、腰を抜かした者も多くいただろう。
「逃がさんぞ、一人でも多く食ろうてやる――っ!」
動き出そうとした化け物は、しかしその足を止めた。
「ぐっ、ぬうぅ……!?」
呻めきをあげ飛び退くと、赤い血が線状の軌跡を描いた。出処は左前脚の付け根、人間なら肩に当たる部分だ。刃を刺し入れた後、そこから抉るようにして傷口を広げられている。
「よくもまあ、めった刺しにしてくれたもんだ。酔いもすっかり醒めちまった」
霧が晴れていく。
その中心にいたのは、先ほどまで血溜まりの中に伏せていたあの男、死なないことだけが取り柄の冒険者だ。
「貴様は確かに動かなくなったはず……よもや幻術の類か」
「まあ、そういうことにしておこうか。互いに一度ずつ化かしあった仲だ、そこは恨みっこなしってことで」
男は平然と立ち上がっていた。背中に負ったはずの痛ましい刺し傷は跡もなく消え失せ、何事もなかったように軽口を叩いている。あの血溜まりさえも霧と共に消えていた。
ただひとつ、惨劇の前後で変わったところがあるとすれば、それは目だ。あの生来の眠そうな目は今、刃の如き鋭さで化け物を見据えている。
「ところでだ……。あんた、アリサなんて呼ばれて村の人たちと馴染んでたようだったが、まさかこの村で生まれ育ったなんてことはないんだよな?」
何を言い出すのかと化け物が鼻を鳴らす。
「当たり前だ。人の腹から生まれたように見えるか?」
「見えないね。外見も中身も人でなしだ。だが、そうかい。ならやっぱ、そういうことになるか」
山で出会った少女の顔が思い浮かんだ。父親を殺されたと語ったあの少女は、結局は化け物の片割れが化けた姿だった。それで男はひどい目に遭ったと思う反面、親を失った不幸な少女などいなかったのだと安心した。あれは化け物が男を誘い出すために語った嘘なのだと。
だが、本当にそうだったのだろうか。
男は今になってようやく理解した。
あの化け物が言っていた、ボウケンシャとやらも警戒するほどではなかった、という言葉の意味に。あれはつまり、化け物は男がやってくることを知っていたということだ。ならば奴はどこでその情報を手に入れたのか。もし奴が、人に化ける能力を使って村人達の中に紛れ込んでいたのだとしたら。
夫を亡くした村の女――アリサと、その娘であろう少女、ニナ。酒を運んできた栗色の髪の女と、山で出会った父親を亡くした栗色の髪の少女。それらが導くのは、そう結論付ける他ない最悪の真実。
「成り変わったんだな、この村の母娘に」
引き抜いた剣を化け物に突き付ける。柄を握る手にはいつもより力が篭っていた。
許せなかったのだ。焚き火を囲む村人達の顔を見た後だからこそ。そして偽者だったとはいえ、あの少女の姿を知っているからこそ。決して許すわけにはいかなかった。
「来い、弟のところに送ってやる」
「貴様――今度こそ八つ裂きだ……。でき得る限り、惨たらしく殺してやる」




