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ある冒険の話 弐

 少女の後に続いて一歩踏み込むと、湿り気を帯びた生ぬるい空気が肌を撫でた。続いて濃くなった緑の匂いが鼻腔を満たし、男の来訪を歓迎する。木々の壁が視線を遮り、枝葉の屋根が影を落とす。何が潜んでいるのかわからない、人ならざる者たちの領域。男はいつでも剣を抜けるよう柄に手を添えながら、周囲の音に集中した。

 だがそんな男とは対照的に、少女の足取りは軽い。同じような木々が並ぶ中を、庭を歩くように迷いなく進んでいく。この道を使うのは一度や二度ではないのだろう。


「さっき近道だって言ってたけど、村の人たちはいつもこんな道使ってるの?」

「そうだよ」

「そりゃあ、たいした度胸だ」


 地表では長い草や木の根が手を伸ばし、こちらの足を絡めとろうとしている。それで男は足元にも気を配りながら歩かねばならなかったが、少女にはそんな気配が少しもなかった。

 気を抜けば置いて行かれてしまいそうだ。


 やがてひんやりした空気が頬に触れ、男は肩を震わせた。そうして冷え始めたなと思った頃には、緑と黒で塗り潰されていた景色に白いベールがかかり始めていた。


「霧か……」


 まずいな、と男は思った。

 ただでさえ視界が悪いなかに霧まで加われば、モンスターの襲撃以前の問題を危惧しなければならない。


「嬢ちゃん。霧が出始めたけど、道は大丈夫かい?」

「大丈夫だよ」

「そうか、それならよかった」


 信じられないとまでは言わないが、それでもその言葉を鵜呑みにできるほどこの男も呑気ではない。ただ、道を間違えていないかなど、男には確かめようがないことも事実だった。

 霧は前へ進むにつれ濃くなってきている。引き返すことすら困難なほどに。


(こりゃ嬢ちゃんのこと信じて付いてくしかないな)


 霧を押しのけて進む小さな背中を追いながら、男は観念する。

 少女の方から話しかけてきたのはその時だった。


「おじさん、ちゃんと付いてきてる?」


 栗色の髪の向こう側から、平坦な声だけが届く。


「ああ、付いてきてるよ」


「そっか」


 少女が振り返る。


「はぐれたりしちゃ、だめだよ」


 その声が霧に紛れて消えたとき、男は少女の姿を見失った。




「――っ、嘘だろ」


 目を離した隙に、などというものではなかった。霧が少女を包み込み、輪郭が溶けるように消えていく。わずか数瞬のことだ。少女は男の前から完全に姿を消していた。

 男は呆気に取られたが、立ち直るのは早かった。それは冒険者としての経験と、使命感ゆえだった。


「嬢ちゃん、聞こえたら返事してくれー!」


 男は声を上げた。少女はまだ近くにいるはずだ、とは思っていない。その可能性もあるが、そうではない確率の方が高いと思っている。


(モンスターに攫われたか? だがそれらしい影は見えなかった。ならこの霧に何か仕掛けが……?)


 男は数歩、前へと踏み込んだ。ちょうど少女が消えた位置だ。だが同じ場所に立ってみても何かが起こる気配はない。霧がゆらり、嘲笑うように渦を巻くだけだ。

 男は白いベールの向こう側に腕を突き出し、辺りを探った。冷たい空気が掌をなぞり、垂れ下がった枝葉が指を叩く。感じたものはそれだけだ。そこにいたはずの少女の気配は跡形もなく消えている。


「おーい、聞こえたら返事してくれー!!」


 今度は辺りを見回しながら、先程よりも声を張り上げた。どこを向いても世界は白く染め上げられ、その奥の闇は覆い隠されている。

 少女の声は聞こえない。焦りばかりが募っていく。

 

(迂闊な真似はしたくないがビビってばかりもいられねぇ。まずはこの霧を払ってみるか)


 そうして男が懐にしまっていた、いくつかの石が入った袋に手を伸ばした時だった。


 ――おじさん


 「――っ!?」


 声がした。男を呼ぶ声だ。霧の向こうから、確かに彼を呼んでいる。

 男は袋から石を取り出そうとして、しかし思い止まった。何に巻き込まれているかわからない以上、この霧を払うことは必ずしも正解ではない。冒険者としての経験が警告していた。


「嬢ちゃん、近くにいるのか!?」


 男は声を張り上げた。少女は近くにいる。この声も届いているはずだ。周囲の音に神経を尖らせる。霧の向こうから聞こえるはずの、少女の呼び声を逃さないために。


 おじさん、こっちだよ。


 声は、真後ろから聞こえた。


「よかった、入れ違いになってたんだな」


 男は胸を撫で下ろし、声の方へと振り返った。もう二度とはぐれないよう、嫌がられたとしても手を握って歩いた方がいいんじゃないか。そんなことを考えながら。


 だが振り返ったその先に、少女の姿はなかった。代わりにいたのは、男の身の丈を超える体躯を持った化け物だ。

 二本のねじれた角を生やし、黒い毛に覆われた牛のような顔。しかしその口は耳元まで裂け、太く鋭い乳白色の歯が覗いている。丸い胴体から伸びる六本の脚は蜘蛛のような生え方をしており、蹄の代わりに鋭い爪を地面に突き立てていた。


 男は立ち尽くしていた。そこにいるはずだった少女の姿はなく、代わりに待ち構えていたのは巨躯を持つ化け物だ。

 なるほど、これがこの山に出るようになったという新種か。直感的にそう理解したが、それ以上のことまでは頭が回らなかった。少女はどこにいるのか。いつ背後を取られたのか。浮かぶべき疑問はいろいろとあったのだろうが――男が立ち直るのを、牛の化け物は待ってはくれなかった。

 化け物は一口に男を飲み込み咀嚼した。肉を骨ごと噛み砕く、鈍く、耳障りな音が響き、口元から滴り落ちた真っ赤な血が地面を濡らす。

 やがて化け物は細切れの肉片となった男を嚥下すると、満足げに息を吐いた。


「ふぅ……。ボウケンシャとやらも警戒するほどではなかった、か。雌に化けるだけであっさり騙せるようでは他の人間どもと変わらんわ」


 化け物は人の言葉でそうひとりごちると、木々を押しのけながら六本の足で歩き始めた。




 山に現れるようになったという牛の化け物がこいつであることは間違いない。にも関わらず、化け物を退治するはずだった男は剣を抜く間も与えられぬまま、その胃袋に収まってしまった。

 男の敗因は牛のような見た目という唯一の情報に囚われ、山の中にひとり現れた少女を少しも疑わなかったことだ。よもや目の前の少女がモンスターの化けた姿とは夢にも思わず、最期の瞬間を迎えるまで騙されていたことに気付けなかったのである。


 こうして狡猾な化け物の奇襲は見事に嵌り、冒険者の男は敗北することとなった。だが、これはあくまで男が()()()()に過ぎない。

 男が化け物の能力を見誤ったように、化け物にもまた誤算があった。


 この獲物との勝負はまだ、決していない。




 ――女の子に化けて騙し討ちたぁ、なかなか手の込んだことをやるじゃないの。




「むぅ!?」


 突如聞こえた声に、化け物は立ち止まり唸った。この辺りには自分以外誰もいない。いなくなったはずだ。だが、何者かの声は確かに聞こえたのだ。

 そして何より不可解なのは、声のした方向が検討も付かないということだった。近くから響くようにはっきりと、それでいて遠くから届くようにくぐもっている。

 そうして化け物が首を傾げていると、その身体を異変が襲った。

 腹が痛み出す。それも尋常な痛みではない。赤熱した金属棒を突き入れられたような苛烈な痛みが身体の内側から襲っている。それが何度も起こるものだから、化け物は足に力が入らず、一歩も動けなくなってしまった。

 やがて吐き気を覚えた化け物は、痛みに顔を歪めながら何度もえずき、最後には()()()肉の塊を吐き出した。よく見ればそれは服と革鎧を着ており、人の形を成している。そして二本の足で立ち上がると、手を振って身体に付いた粘液を振り払った。


「やれやれ。牛だって聞いてたからそのつもりでいたのに、人間に化けて出るとか反則でしょうよ……。あーあ、全身よだれでベトベト、臭いも酷いし最悪」


 化け物に噛み砕かれたはずの四肢は健在で、その身体には傷ひとつ残っていない。先ほどの惨劇などなかったかのように平然と、あの眠そうな目を化け物に向けている。

 そんな男の様子とは反対に、化け物は男を吐き出した後も一歩も動くことができず、姿勢を低くして唸っていた。腹の中からずたずたに切り裂かれたのだ。動けなくなるのも無理はない。


「はあ、はあ……どういうことだ。貴様ァ……なぜ生きている……」


 荒い息と共に吐き出されたのは、化け物にとって当然の問いだった。いや、この化け物とて、そう結論付けるほかない答えには既に辿り着いている。ただ、自らそう結論付けておきながら、その答えに納得できていないのだ。

 肉片になるまで引き裂いた人間が腹の中で蘇ったなど、動かぬ――あるいは動いている証拠を目の前にしてなお、易々と受け入れられるものではない。


「なぜ生きている? そりゃそう簡単にくたばっちゃやりませんよ」


 男は吐き出されたはずみで落とした剣を拾うと、右手で持って構えた。そして化け物を正面から見据え、にやりと笑う。


「なんせこちとら、死なないだけが取り柄なもんで」


 辺りを包んでいた霧はとうに晴れていた。夕陽が木々の合間を縫って差し込み、背後からは夜の闇が迫っている。戦いの舞台は、朱と黒の二色で彩られていた。


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