ある冒険の話 壱
その男は死んだはずだった。
身体は昏い水底に沈められたように重く、意識は果てのない空を漂う雲のように浮遊している。そうしたひどく安らかな刻の中で、男は何者かの声を聞いた気がした。
その声が何と言っていたのか、その声に何と答えたのか、今となっては何ひとつ思い出せない。ただひとつ確信を持って言えることは、その問答がこの男の魂の行末を決定付けたということだ。
かくして男が二度と開くはずのない瞼を開けたとき、そこは見知らぬ禿山の中だった。
――今から半年ほど前のことである。
青々と広がる草原を二つに割って伸びる道を、一台の荷馬車が西へ向けて走っていた。道の先には緑の山々が連なっている。そこから降りてきた風が若草色の波を起こし、輓馬の黒い鬣をなびかせた。
「向こうに見えるのが件の山ですぜ」
手綱を握る初老の御者は前を向いたまま、吹きさらしの荷台に声を掛けた。もちろん荷物に話しかけたわけではない。荷台には男が一人、縁に背を預けて座っていた。歳は三十といくつかといったところか。焦茶の皮鎧に包んだ身体は上背がある割に線は細く、全体的に緩い雰囲気を纏っている。
「あれですか。見たところ、平和そうに見えますけどねぇ」
男は縁から身を乗り出し、風に煽られる黒髪を抑えながら眠そうな垂れ目を少しだけ見開いた。別に寝不足なわけではない。男は生来、こういう目つきだった。
「あっしがお連れできるのはあそこの麓までだ。そこからは旦那の足で行ってもらいやすよ」
「はいはい。もちろんわかってますとも」
男は縁に預けていた体を起こすと、荷台に置いていた荷物をまとめ始めた。といっても、旅の装備としては随分と少なく身軽なものだ。大きめの革袋には水と携行食が二日分と、野外活動用のナイフ、光沢のある小さな石がいくつか入った袋に、羊皮紙と黒鉛のかけらが入った小さな木箱が入っている。あとは飾り気のない二振りの剣をそれぞれ鞘に納めているばかりで、他に荷物らしい荷物は見当たらない。
石を入れた袋は懐に入れ、剣を収めた鞘を腰の両側に提げる。革袋は口を縛って肩から提げた。するとそのとき、カラコロと小気味よく音を奏でていた車輪たちがぴたりと演奏をやめてしまった。
「おや、もう終点ですか。まだ麓まではちょっとばかし距離がありそうだけども」
男の言葉通り、そこは麓と呼ぶには少しばかり離れている。ここで降ろされても構わないのだが、せっかくならできるだけ楽をしたいというのが正直なところだ。
「ええ、それはそうなんすが……馬が止まったまま、頑として前に行きたがらないもんで」
そう言われた男は御者の向こうにいる馬に視線を向けた。落ち着かない様子で首を上げたり下げたり、辺りを窺うような素振りを見せている。御者が発進の合図を送っても動こうという気配はなく、なるほどこれではどうしようもない。
「あらあら、どうしちまったんですかね」
「きっとこの先にモンスターの痕跡を感じ取ったんでしょうな。臭いか、はたまた動物にしか感じ取れねぇ何かがあるのか、とにかくここから先は危険だって気配を察知したんでしょう。こういうときのこいつらは、人間なんかよりよっぽど敏感ですからなぁ」
「痕跡、ねぇ……」
辺りを見回しても陽の光を浴びた草花が心地良さそうに背伸びしているばかりで、恐ろしい気配など少しも感じられない。
男は道の先に連なる山々を見た。高さはそれほどでもなく、裾野から頂上に至るまで木々に彩られている。鮮やかな緑と青空のコントラストが実に気持ちの良い景色だ。
だがそこは、最近になって未知の怪物が現れるようになった魔の山なのだという。その怪物がこの辺りを通って山に入ったのか、はたまたこれだけ距離があっても存在感を放つほどの化け物なのか。
いずれにせよ、男には進む以外の選択肢はない。
「それじゃ仕方ない。少し遠いですが、ここからは自分の足で行きますかね」
荷台から降り、かたかたと揺られている間に凝り固まった肩と腰とをほぐすと、男は歩き出した。
「悪いな旦那、無事に帰ってきてくだせぇ!」
男は振り返らないまま、片手を上げて激励に答えた。
少し格好つけすぎたか。男は上げた手で頭を掻きながら、山へと続く道を進んで行った。
山道とはいっても決して険しい道のりではない。というのも、この先には山間の森を切り開いて作られた村があり、ここは村と街道とを繋ぐ唯一の道なのだ。木を倒し草を刈り、荷馬車一台であれば余裕を持って通れるほどの幅が均されている。
男があちこちを歩き回るようになって半年ほど。始めの頃に比べれば旅慣れてきたが、それでも山を歩き続けるのは酷だ。こうして整えられた道があるのは有り難い。
ただ贅沢な話ではあるが、前方を遮る木々がない分、上からの日差しも直に降り注ぐのだけは難点だった。それで男は道の端、枝葉の影を選んで歩いていった。
「……おや」
山に入って数刻が過ぎ、目的地までの道のりも折り返した頃だった。男の視線の先、道の脇にそのままにされた切り株に、少女が腰かけていた。陽が傾き朱に染まり始めた景色に、色褪せたオレンジ色のエプロンワンピースが溶け込むようにして馴染んでいる。
やがて少女はこちらに気が付いたのか、伸ばした足の先を見つめていた顔をぱっと上げると、後ろで結った栗色の髪を揺らしながら飛び跳ねるように立ち上がった。そうして男の方へぱたぱたと駆け寄ってくる。
歳は十三かそこらだろう。まだあどけなさの残る顔立ちだ。
「おじさん、冒険者の人?」
「そうだよ。おじさんは冒険者のおじさんだよ」
平坦な声で投げかけられた問いに、男は腰に提げた剣を軽く叩いてそう答えた。
一般に冒険者とは、文字通り冒険をする者、ではない。人間との戦に雇われるのが傭兵なら、モンスターとの戦に雇われるのが冒険者だ。所属する組合を通して仕事を請け負い、現地に赴いては怪物たちを討ち滅ぼす、そういったことを生業にしている。腰の両側に一本ずつ提げられた剣は、この男の商売道具というわけだ。
ちなみに二刀流ではなく、片方は予備である。
「やっぱりそうだ。そろそろだと思って待ってたんだよ。村まで案内するね」
「お、そいつは助かるなぁ」
山に現れるようになったモンスターの討伐、それが今回の男の仕事だ。仕事の遂行にあたって、男はいきなり山を捜索するのではなく、まずは山の向こうの村まで行き、そこを拠点に活動を始めるつもりだった。
余所者はなかなか歓迎されないのが村という社会の常だが、今回は村人たちが依頼人なのだから宿ぐらいは用意して貰えるはず、という算段だ。
そして村の方から出迎えが来たということは、向こうも同じ流れを想定していたと考えていいだろう。
それにしても、と男は思う。まだ子どもと呼ぶべき年頃の少女を使いに出すのはいかがなものか。
あるいは村では大人扱いされる年齢なのかもしれないが、男にはどうにも理解し難い感覚だった。
(この子の独断……いや、流石にそれはないか)
少女が背を向けて歩き出したので、男はその後ろを付いていった。夕陽に照らされた少女の影が、男の方に向かって長く伸びている。
「ところで、さっきあたしのことおじさんって呼んでたけどさ、あたしとしてはお兄さん、て呼んでくれても構わないんだけど、その辺どう思う?」
「うーん? よくわかんない」
「わかんないか、わかんないかなぁ。結構デリケートな話よこれ」
「………………」
「はいはいわかりました。おじさんです、おじさんですよあたしは」
男は降参といった風に両手を上げるが、少女は一瞥もくれずに歩き続けている。
マイペースな子だと男は思った。抑揚の欠けた口調がそう感じさせているのかもしれない。
「ま、十代の子から見りゃそうなっちまうかね。ところで嬢ちゃんさ、普段からひとりで山に入ってるのかい?」
「そうだよ」
「そっか。まあ村の人たちがなんて言ってるかは知らないけどさ、おじさんとしてはひとりで山に入るのは、少なくとも今はやめておいたがいいと思うぜ」
小言を言いたくなってしまうのも歳を取った証だろうか。そんな雑念を頭の隅に押しのけながら、男は少女の背中に語り続けた。
「嬢ちゃんだって知ってるだろう。この辺は最近おっかない化け物が出るって話だ。結構でかいらしいぜ。嬢ちゃんぐらいなら一口で食っちまうかもしれない。だから案内してくれるのは嬉しいけど、おじさんとしては心配の方が勝っちゃうな」
そこで少女は立ち止まり、初めて男の方へと振り返った。
「おじさんはその化け物を退治しに来たんだよね?」
「そうだよ」
「あんまり強そうには見えないけど、大丈夫なの?」
バレちゃいましたか。これがただの雑談であれば、男はそう答えていただろう。冒険者としての階級は下層も下層、三十を越えた身では将来性があるとも言い難く、要するに、弱い。
とはいえ、ここが正直に返答すべき場ではないことぐらいはこの男も弁えている。
「心配しなくても大丈夫。これでも冒険者ギルドの一番偉い人に任されて来てるんでね」
「ふーん……」
少女の不安を払えるよう言い切ったつもりだが、少しも響いたようにはみえなかった。見栄を張ったと思われているに違いない。一応嘘は言っていないのだが、見てくれが頼りないせいかどうにも胡散臭いのだろう。
さて、ここからどう挽回したものか――などと思案する間もなく、少女は再び背を向けて歩き始めてしまった。
「どんな化け物か、聞いてる?」
「いんや、あんまり聞けなかった。というかそもそもほとんど情報がないらしい。でかくて角の生えた牛みたいな奴ってだけ聞いてるけど、それじゃただでかいだけの牛だもんなぁ」
「そうだね」
少女の声音がわずかに弾む。気の抜けた答えに釣られて頬が緩んだのかもしれない。
「まあ村の人の話を聞く限りじゃ、ギルドも把握してない新種じゃないかって話でさ。要は未確認生物ってわけだ」
「ゆーま?」
「あこれも通じないか」
男はやっちまったというように額を叩く。
「簡単にいえば、その正体を誰も知らない生き物、ってとこかね」
「へぇ」
そうして話がひと段落したところで、少女は立ち止まった。踏みつけられた落ち葉がぱきりと音を立てる。
「ここからはこっちに入ってくよ」
少女が指差したのは鬱蒼と茂る木々の合間、緑色の壁に走る亀裂のような場所だった。周囲に比べて背の高い草は少なく、人ひとりが通るには充分な幅がある。
ただ、頭上では枝葉が屋根を作り、足元に影を落としていた。昼間ならまだ視界が利くだろうが、陽は既に落ち始めている。完全な闇ではないものの、見通しの悪さは無視できない。
「道なりに行くのが安全で確実じゃないかい?」
男は難色を示した。少女が指差す先は緑の木々と黒い闇とが溶け合う自然の迷彩に囲まれた場所だ。狡猾なモンスターなら容易く奇襲を成功させるだろう。男ひとりならともかく、少女を伴って入るわけにはいかなかった。
「だけど、こっちが近道だよ」
「それでも承諾しかねるなぁ。夜にはなっちまうだろうけど、この道でもそう時間はかからないはずだろう? それに何より、嬢ちゃんを無事に村まで送るためにも余計なリスクは負いたくない」
「でも……早く行かないと、また誰かが殺されるかもしれない――――お父さんみたいに」
その言葉に男はしばしの間、二の句が継げなかった。なぜ少女はひとりで男を迎えに来たのか。今の言葉がその答えかもしれない。
(この様子だと、行きもこの道を使ったんだろうな……)
男は苦い顔をして頭を掻き、やがて重たい息を吐いた。
どちらの道を選んでもリスクはある。今いる道も、いくらか見通しが良いというだけで山の中であることに変わりはない。時間がかかる分、夜の闇を行かねばならないのだからやはり危険だ――――という理屈が言い訳でしかないことを、男は自覚していた。
目の前の少女がどんな想いでここにいるのか。その覚悟を無下にすることは、男には難しかったのだ。
「わかった。ただし約束だ、嬢ちゃんは自分の命を優先すること。もしモンスターと戦闘になって、俺がやばい状況になったときは、俺のことは迷わず置いてってまっすぐ村に帰ること。いいな?」
「うん、わかった」
少女は感情の抜けた声で、しかしにこりと微笑みながらそう答えた。
男は早くも後悔に襲われていた。森の狭間に空いた底の見えない空洞は、獲物がかかるのを待つ魔物の顎のようだ。
だがそれでも男は覚悟を決めた。必ず少女を送り届け、これ以上の犠牲を許さない。その誓いを胸に、男は森の中へと踏み出した。




