第388話 【凶星の覚醒と阿鼻叫喚の狂乱!】全兵士を呑み込む絶望の凶獣コントン!地獄絵図の戦場と決死の撤退劇!
「オーダン様ー!」
主君の命が目の前で奪われた瞬間、それまでスクルドたちと激しい死闘を繰り広げていた近衛隊の戦士たちは、戦意を完全に喪失して武器を投げ出し、無残な肉塊と化したオーダンの元へと一斉に駆け寄っていった。
だが、その惨状の中でただ一人、オーダンの側近として行動を共にし、影のように付き従っていた一人の男だけが異彩を放っていた。
男は倒れ伏すオーダンの死体を見下ろすと、突如として不気味な肩の揺れを見せ、地響きのような高笑いを上げ始めた。
「ハッ……はっはっはっはぁッ! 哀れなオーダン、ついに死に晒したか! いやはや実に見事な手際だ、ヴァルキリーども。……ククク、ならばそろそろ『頃合い』ということだな」
男がそう口にした瞬間、その肉体から禍々しくドロリとした黒い闇が噴出された!
闇は急速に膨れ上がり、彼の影は人間から禍々しい超巨大な魔物の輪郭へと歪んで変貌していく。
一気に戦場全体へ拡散する濃密な闇、そして世界を狂わせるほどに邪悪な神力が周囲の空気を重く押し潰す。
溢れ出た闇が爆発的に晴れ渡った時、そこに現れたのは四大凶獣が一角——『渾沌』であった!
その姿はまさに悪夢の具現化であった。
全身を月白色の長く美しい毛並みで覆われた巨躯。身体からは四本の脚が生え、二本の前足と二本の後ろ足で大地を強く踏みしめている。後ろには同じく長い毛に覆われた太い尻尾が揺らめいている。輪郭としての顔は存在するものの、本来あるべき目、耳、鼻、口という『七孔』の位置には、光すら吸い込む不気味で底知れない漆黒の穴だけが穿たれていた。そして背中からは、巨大な二対四枚の翼が禍々しく羽ばたいていた。
あまりの絶望的な威容に、スクルドの喉から悲痛な叫びが漏れ出る。
「なっ……凶獣『渾沌』……ッ!?」
「しまっ……死ねぇぇぇッ!」
危機感を察知した狙撃手のヒルドが、即座に古代兵器『小銃』の銃口を渾沌へと向け、撃ち尽くす勢いで引き金を連引した。
スパァン! スパァン! スパァン!
乾いた炸裂音が連打され、極大の貫通力を誇る弾丸が渾沌の巨躯へと次々と命中する。
しかし、信じがたい光景が広がった。
放たれた弾丸は渾沌の全身を覆う月白色の長い毛に触れた瞬間、その凄まじい運動エネルギーと衝撃をすべて無効化され、吸い込まれるように威力を失って地表へとカランと力なく落ちていく。肉体には傷一つ、擦り傷すらついていない。
「嘘……でしょ……ッ!? 弾丸が……全く効かない……!?」
ヒルドは顔を蒼白にさせながら、弾切れを知らせるカチリという空砲音すら気づかぬまま、我を忘れて引き金を弾き続けた。
渾沌は一切の音も発せず、無言のままスクルドたちの方向へと顔を向けた。だが、目の位置にある黒く深い闇の穴はただの空洞であり、本当に彼女たちを視覚として認識しているのかすら判別がつかない。その不気味な沈黙こそが、見る者の精神を激しく削り取っていく。
勇者ハーミアは、悪魔キマリスとなった至高の剣聖・オニバル将軍の手によって無力化された。殺してはいないものの、聖剣を粉砕されて完全に戦意を喪失している。
そしてスクルドの憎き仇敵であったオーダン侯爵は、ヴァルキリーのヒルドが放った狙撃によって完璧に討ち取られた。
誰もが、長きにわたるオーダン侯爵軍と樹海帝国軍の泥沼の戦争が、ついに決着を迎えたと確信したまさにその瞬間——。
最悪の厄災である凶獣『渾沌』が降臨してしまったのだ。
ヒルドが誇る極大威力の古代兵器『小銃』による遠距離狙撃すら、その圧倒的な毛皮の防護の前には何の意味もなさなかった。
(なっ……よりによってこのタイミングで『渾沌』が現れたかッ!? 不味いぞ、周囲にはまだ我が樹海帝国軍の兵たちが多数取り残されている……!)
俺は遠方からその光景を視界に捉え、戦場に散らばる全眷属と将校たちに向けて、全精神を注ぎ込んだ焦燥の念話を一斉に飛ばした!
(全員に緊急通達! オーダンはヴァルキリーたちが討ち取ったが、戦場に凶獣『渾沌』が出現した! 全軍、直ちに戦闘を中断して大至急撤退を開始しろ! オニバルとバズは、全軍が引き揚げるまでの間、何としても『渾沌』の動きを足止めしろッ!)
念話を受けたマシラン将軍は、即座に全軍へ向けてドスの効いた叫びをあげた。
「全軍撤退ッ! 陣形を崩さず、速やかに後方へ退けぇぇぇッ!」
吸血鬼部隊を率いるヴァンスもまた、眷属たちに素早く後退を命じる。精霊王レイの精霊たちも、異様な胸騒ぎを覚えて慌てて後方への撤退を開始した。
だが——あまりにも遅すぎた。
最初に異変をきたしたのは、樹海帝国軍の圧倒的な物量に蹂躙され、成す術もなく戦場を逃げ惑っていたオーダン軍の生き残りの兵士たちだった。
「ひひっ……ひははははッ! 殺せ! 全部殺してやるッ!」
「死ね! お前も、あいつも、俺以外みんな敵だぁぁぁッ!」
渾沌から撒き散らされる凶悪な精神汚染の波動を受け、兵士たちは正気を失って発狂。敵味方の区別すら失い、隣に立つ味方の首を斧で撥ね飛ばし、お互いに血反吐をぶちまけながら凄惨な殺し合いを始めたのだ。
さらに、その狂気はマシラン率いる樹海帝国軍の歩兵隊や魔法兵団にまで牙を剥く。
マシランの撤退命令に最速で反応し、すぐさま踵を返した者たちは間一髪で難を逃れた。しかし、一瞬でも「何が起きているんだ?」と判断を躊躇した者たちは、即座に脳を狂気に汚染された。
オーダン軍と同様、つい数十秒前まで肩を並べて戦っていた仲間の喉元に剣を突き立て、目を見開いたまま互いを貪り食うように殺し合いを始めてしまったのだ。
ヴァンスの吸血鬼の眷属たちや、精霊王レイ率いる精霊たちの大半は高い精神耐性をもって素早く撤退できたものの、後方に遅れて留まっていた僅かな者たちは狂気に呑まれ、血みどろの宴へと加わってしまった。
そして、その惨劇は空を舞うヴァルキリーたちにまで及んだ。
高レベルであり強い精神力を誇るスクルド、ヒルド、スコグル、フリストの四人以外のヴァルキリーたちは、瞬く間に正気を失って狂乱。翼を乱しながら味方同士で空中で殺し合いを始めてしまったのだ。
「そんな……嘘でしょ!? みんな、正気に戻りなさいッ!」
スクルドたち上位の四人すらも、立っているだけで頭痛と幻覚に襲われ、思考がドロドロと混乱し始める自分自身の異変に激しい驚愕を覚えた。
「しまった……ッ! これ以上ここに留まれば、私たちまであの精神汚染の混乱に呑み込まれる……! 総員、なりふり構わず全力で撤退するぞッ!」
スクルドの悲鳴のような叫びが響く中、周囲の戦場は完全に理性を失った者たちが互いの肉を削り合う、目を覆いたくなるような地獄絵図と化していた。
文字通り——この世の悪夢そのものの光景が、そこに広がっていた。




