第323話 【漆黒の女王降臨】 圧倒的魔圧がもたらす絶望と、慈悲なき深淵の処断
戦乙女ヴァルキリーの一人、スクルドの指先から放たれた青白い雷撃が、空気を焼き切りながら一直線にアマゾネスの少女へと向かった。
正面からその衝撃を受け止めようと、ハーミアは奥歯を噛み締めて強く両目を閉じる。回避は不可能。身体を突き抜けるであろう凄まじい衝撃と激痛を覚悟し、彼女は心の中で己の未熟さを呪った。
だが、どれだけ待っても、死の衝撃は訪れなかった。
代わりに聞こえてきたのは、パチパチと弾ける電位の音と、それさえも飲み込むような不気味なまでの静寂だった。
恐る恐るハーミアが瞼を持ち上げると、そこには信じられない光景が広がっていた。
「……え?」
ハーミアの視界を遮るように差し出されていたのは、五指の先まで全てを塗りつぶしたような、漆黒の掌だった。スクルドが放った必殺の雷撃は、その黒い闇に触れた瞬間、まるで最初から存在しなかったかのように吸い込まれ、消滅していたのだ。
あまりの出来事に呆然と立ち尽くすハーミアが、その掌の持ち主へと視線を向ける。そこに立っていたのは、冷徹な美貌を湛え、圧倒的な王者の風格を纏った女性だった。
「グレイア様……!」
ハーミアの口から、安堵と敬畏の混ざり合った震える声が漏れる。
そこに降臨したのは、樹海帝国配下のダークエルフ国を統べる女王、ダークハイエルフのグレイアであった。彼女は氷のような瞳をスクルドに向け、温度の無い声で告げた。
「スクルド、そこまでにしな。これ以上の身勝手は、我が主への反逆と見なすよ」
その存在を認めた瞬間、戦乙女としての誇りに満ちていたスクルドの顔から、みるみるうちに血の気が引いていった。彼女は額に冷や汗を浮かべ、喉を鳴らした。
「グレイア……っ、なぜ貴女がここに」
状況の変化についていけない暗黒街ミレースのボス、グランダが、苛立ちを露わにして叫ぶ。
「貴様! 何者だ! 邪魔をするなら女だろうと容赦せんぞ!」
グレイアは視線すら合わせず、威厳に満ちた宣言を口にした。
「樹海帝国ダークエルフ国女王、グレイアです。この戦、私が預かります。異論は認めないよ」
グランダは吐き捨てるようにスクルドを振り返ったが、頼みの綱であるはずのヴァルキリーは、即座に武器を収めて両手を高く掲げていた。
「よ、よせスクルド! 相手はたった一人だぞ!」
「馬鹿なことを言うな。私は樹海帝国と敵対するつもりはない。……いや、できない」
スクルドの返答に、グランダは顔を真っ赤にして激昂した。
「チッ、たった一人を相手に臆病風に吹かれやがって! ここで殺して消してしまえば、樹海帝国にバレるはずがねえだろうが! ヴァルキリーの名が泣くぞ!」
スクルドは憐れみすら含んだ冷ややかな眼光を男に向け、力なく首を振った。
「貴様は何も分かっていないな。暗黒街ミレースの全兵力を掻き集めようと、グレイア様には万に一つも勝機はないよ。たとえ秘蔵の古代兵器を全て持ち出したところでな。……我々は降りた」
「ふん! 臆病者は引っ込んでな! 野郎ども、構わねえ、かかれえっ!」
グランダの狂ったような号令とともに、周囲を取り囲んでいた者たちが一斉に動き出す。先ほどハーミアに蹴飛ばされて倒れていたライオンの半獣人ライガムが、獣特有の唸り声を上げてナイフを握り直した。
ダンピーラのヴァズドも鋭い切っ先を八双に構え、大勢の半魔族たちが凶器を手にグレイアを包囲する。そしてグランダは、ハーフエルフの女王エルサラから奪い取った魔導銃の銃口を、グレイアの胸元へと向けた。
「死ねやぁッ!」
けたたましい爆音とともに、放たれた弾丸がグレイアの腹部へと一直線に吸い込まれていく。
だが、弾丸がその肌に届く直前、グレイアの前方にどろりとした深淵の闇が浮かび上がった。弾丸は金属音一つ残さず、その闇の中へと呑み込まれ、この世界から完全に消滅した。
グレイアは無傷。それどころかピクリとも動かず、無表情のままそこに立ち続けている。その超常的な光景に、ヴァルキリーのヒルドが肩をすくめて溜息をついた。
「あ~あ、やっちゃった……。私は知らないからね。忠告はしたんだよ、バカな男」
グランダは冷や汗を流しながら、引きつった笑いを浮かべて叫んだ。
「な、なんだ!? ただのダークエルフじゃねえのか!? くそっ、くそっ!」
タタタタタン!
甲高い乾いた音が部屋中に鳴り響く。グランダは半狂乱で銃の引き金を連射した。しかし、放たれた全ての弾丸は、グレイアの眼前に蠢く闇へと吸い込まれ、跡形もなく消え去るだけだった。
グレイアを取り囲んでいた連中は、目の前の常識外れの現象に圧倒され、完全に腰が引けて足がすくんでしまう。
グレイアは冷酷な眼差しでグランダを見据え、静かに、だが重く言い放った。
「宣戦布告……確かに受け取ったよ」
その瞬間、グレイアの全身から超絶的な邪気と膨大な魔力が解き放たれ、津波となって部屋全体を飲み込んだ。
圧倒的な密度の「魔圧」に空間が歪み、空気すらも鉛のように重くなる。グランダはその恐ろしい圧力に耐えきれず、ガクガクと膝を震わせ、その場に崩れ落ちた。
「な、なんだこれは……!? 息が……身体が動かん……っ!」
天井を見上げれば、そこには見渡す限りドロドロとした無の闇が広がっていた。
その時である。グランダたちの背後で不意に眩い光が弾け、あらゆるものを焼き尽くす灼熱の熱風が吹き荒れた。
「熱いっ、ギャアアアアッ!」
後ろを振り向いたグランダの視界に入ったのは、背後に控えていた数人の半魔族たちが一瞬にして灰燼と化す光景だった。その炭化した遺体の上空には、神々しく輝く情熱の炎を纏った不死鳥フェニックスであるフェンが、悠然と羽ばたいていた。
さらに前方から、地響きのような唸り声が響き渡る。
「おいおい、余所見してる暇なんてあるのかよ?」
グランダが怯えた顔を前に戻すと、そこにはグレイアの傍らで巨大化し、鋭い牙を剥き出しにした黒い猫又、ミサキの姿があった。
ミサキの足元には、先ほどまで殺気を放っていたライガム、ヴァズド、そして凶悪な半魔族たちが、血の海の中で文字通り引き千切られて倒れていた。
ほんの一瞬——コンマ数秒の間にも満たない時間で、勝負は完全に決していたのだ。
「ひっ……う、嘘だろ……」
圧倒的な力の差、逆らいようのない絶対的な絶望を前にして、グランダは引きつった空笑いを浮かべるしかなかった。手にしていた銃を床に投げ出し、震える両手を高く上げる。
「こ、降参だ! 俺たちの負けだ、助けてくれ……!」
しかし、グレイアの冷徹な瞳には、一片の慈悲も浮かんでいなかった。
「断る。主の慈悲は、これほど愚かな者には向けられないんでね」
グランダの顔が恐怖で歪む。
「えっ——」
直後、天井を覆っていた深淵の闇から、槍のように鋭利に研ぎ澄まされた闇の触手が高速で放たれた。
ドスッ、という重く不快な音が部屋に響く。触手はグランダの胸を正確に貫き、その心臓を一撃で穿ち去った。
天井の闇からはさらに無数の触手が滑るように伸び、囚われていたハーフエルフのエルサラとエルサイアを縛り付けていた縄を、寸断するように切り刻んでいく。
拘束から解放された二人は、震える足でゆっくりと立ち上がった。
エルサラは胸に手を当て、深々と頭を下げる。
「グレイア様……お助けいただき、誠にありがとうございます」
エルサイアもまた安堵の息を漏らしながら感謝を口にした。
「本当にありがとうございます……! 外に残してきた仲間たちが心配ですので、不躾ながらこれで失礼いたします!」
二人が部屋を飛び出そうと入口へ向かったその時、扉が静かに開かれた。
そこには、ハーフエルフの幹部の一人である、ハーフダークエルフのグライガが立っていた。
「安心しろ。仲間なら全員、グレイア様に助けていただいたよ」
エルサイアは目を見開き、パッと表情を明るくした。
「グライガ! 無事だったのか……! ああ、よかった……!」
グライガは外で半魔族たちの猛攻を防ぎ、決死の覚悟で仲間たちを指揮していた男であった。
一方、床に縄で縛られたまま横たわっていた半魔族の王グリガスが、怨嗟の籠もった掠れ声でグライガに問いかけた。
「ぐっ……グライガ、俺の配下どもはどうなったんだ……!?」
グライガは感情の欠片もない視線をグリガスへ落とす。
「全員、グレイア様に捕まっているよ。抵抗した者は一人残らずね」
「な、なに……!? じゃあ、精鋭の半獣人やダンピーラどもはどうした!?」
「消えたよ。塵一つ残さずね」
「消えただと……!? 一体どういう意味だ!」
混乱し、取り乱すグリガスに対し、歩み寄ってきたグレイアが静かに言葉を重ねた。
「樹海帝国の痕跡を外界に残すわけにはいかんでな。この場所の目撃者は、すべて始末した」
グリガスは慄然として女王を見上げた。
グレイアの足元から、どろりと重い闇が津波のように広がり、部屋の床一面を覆い尽くしていく。先ほど命を落としたグランダやその手下たちの死体は、底なしの沼に沈むかのように闇の中に沈み込み、痕跡すら残さず消滅していった。
「このように、な。証拠も、存在も、全ては虚無に帰す」
グリガスは青ざめた顔をガチガチと震わせながら、悲鳴のような声を絞り出す。
「お、俺……俺はどうなるんだ……!? 頼む、助けてくれ……!」
グレイアは表情一つ変えず、死神の如き冷酷さで引導を渡した。
「勿論、目撃者は消す。それが我らの流儀だ」
「え……ひっ、助けてくれええええっ!」
絶叫を残し、グリガスの身体もまた底なしの暗黒へと沈み込んでいく。
二度と這い上がれぬ永遠の虚無の中に、半魔族の王の存在は影も形もなく、歴史の闇へと消え去ったのだった。




