彷徨と消失と2
まさかこの世界に見知った文字が存在しているとは思わなかった。
その文字はフェイの発音を聞く限り、まず間違いなく私の知っているアルファベット(この場合はラテン語)そのものである。
しかしいったい何故アルファベットがこの世界に存在しているのだろうか。
私と同じように、ここではない世界の記憶を持っている人間が居る、あるいは居たという話だろうか?
否。それは無いか……?
もしあの世界の記憶を持った人がすでに居たのなら、この世界はもっとあちらの文明に引きずられていてもおかしくは無い気がする。
たとえ魔法の有無という違いがあったとしても、あの世界のものはこちらの世界で言う魔法のようなものと言えなくもないほどの魅力を持っていると思うし。
私は複雑な思いで、その文字を見続けた。
「興味がおありで?」
どうやらフェイは私が文字に興味を引かれていることに気づいたようだった。
私は素直に肯定する。
興味が無いわけが無い。
「そうですか」
フェイは答えてしばし沈黙した後、懐から小さく丸められた羊皮紙を取り出しそれを広げてみせた。
「では、こちらはどうですか?」
広げられた羊皮紙に書かれたものを見て、再び私は衝撃を受けて目を見開いた。
これは間違いない。
多少混ざり合ってごっちゃりとはしているが、この書き方には見覚えがありすぎて間違いようもなかった。
――――ソースコード。
そう。
その羊皮紙に書かれているのは、いわゆるプログラム言語と呼ばれる固有の言語仕様に乗っ取って書かれた文字の羅列だった。
記憶にある複数のプログラム言語の仕様が混ざり合ったような書き方をされているそれを、アルファベット文字を見た時よりもさらに凝視したのは言うまでもない。
だからなのか、ぱっと羊皮紙が下げられ視界が強制的に切り替えられたその時には、フェイに右腕をとられ引っ張られ、強制連行よろしく歩かされていた。
その歩みはかなりの速さだったため、持っていた弓を慌ててしまいながら転びそうになり、自分の歩み速さとは異なる早さだったために勢い余って階段でつまづき、何もないところで思わずつんのめりそうになること数回。
そうしてたどり着いた場所は、部屋の壁のすべてに本がおさめられ、中央に書類が山積みになった机が一つと、すわり心地が良さそうなソファーが一つあるばかりの、本に囲まれた部屋だった。
部屋にたどり着いたところで引っ張られていた腕はようやく解放されたので、少し上がった息を整えていると、フェルラートも遅れて部屋にやってきた。
「ちょっとそこのソファーに座って待っていなさい」
フェイはそういうと本棚に視線を移して何やら探し始めたので、私はいまいち状況がつかめない中、とりあえずフェイの指示に従いソファーに腰をおろすことにした。
フェルラートは私の側に来はしたが、ソファーには座らず立ったままである。
しばらくした後フェイは目的の本を見つけたのだろう、一冊の本を手に取りこちらにやってきた。
本を持つ彼の表情は、禁欲的で近寄りがたい印象などこれっぽっちも受けようのない表情をしている。
細いフレームのメガネの奥にある涼やかな目はぎらつき、陶磁器のような白い頬をやや紅潮させて、薄い唇は大好きなおもちゃを手にした少年のような無邪気さを感じさせるように半月状に吊り上っている。
私、なんか地雷踏んだか? と、彼の雰囲気のあまりの変わりように、ちょっと背筋に冷や汗が伝って落ちるくらいに動揺した。
だが、表情はあれだが会話自体はまあ正常であった。
これで会話の様子も変わるようなら私は全力でフェルラートに助けを求めていいただろう。
フェルラートが本当に助けになることをしてくれるかどうかはまったく未知数ではあるが。
「呪いの文字とは、正しくは二十四の魔力ある記号です」
フェイが持ってきた本を開いて見せてくれた頁には、見覚えのある二十四のアルファベットが並んでいた。
ただし、順序は私の記憶にある順序通りではなく、てんでバラバラである。
しかし、どうして唐突にこれを見せようと思ったのか、その意図がわからず困惑しながらフェイに視線を向けるが、やたらうれしそうに見える表情がそこにあるだけで答えなど返ってきそうになかった。
なので、仕方なく続けられそうな程度に質問を返す。
「魔力のある記号……ですか?」
「はい。なんでも、魔法の腕は天下一品だったが、文字が恐ろしく汚い魔法使いが居て、その人物が己の書いた汚い文字の中の特定の文字に、魔力が宿っているのに気付いたのが始まりだったそうですよ」
なんとも微妙すぎるエピソードに思わず内心でツッコミを入れる。
ちょっと前まで、もしかして同じ世界の記憶を持っている人いるかもとか考えちゃった私に謝罪してほしいぐらいである。
まあそれはいいとして。
この世界の文字は、私の知りうる文字の中では梵字が最も近い形をしている。
漢字ほど正確な形ではないにしろ、形に意味を持たせている文字である。
つまり、正しい形をかけていなければ字とは言えない、というのが正直な所である。
そんな字なのだが、それをどれだけ汚く、というか崩して書けばアルファベットの形にたどり着くのだろうか。
大いに謎である。
「魔力が宿るとは、すなわちそれに対して法を敷くことができる事を意味していると、その魔法使いは考えたそうです。魔力のある記号をどうにかして使えないかと考えたのち、呪い文字という形で魔法を扱う術が生まれました」
フェイが本の頁をめくりながら話を続けていく。
「呪い文字は文字として書いた直後に発動し、発動してしまった文字には二度と魔力が宿らないという特性を持っていました。そのため、編み出された魔法の発動方法がこれです」
そうして示された頁には一つのソースコードが書かれてあった。
「これは最初に作り出された『呪いの言葉』です。意味は、『繰り返し熱を持たせる』です」
その言葉で私はぴんときた。
「もしかして、最初の魔剣に関するものだったりするんじゃ……?」
この答えに、我が意を得たとでも言うように、フェイは笑みを深めてみせた。
「どうやら貴女とは話が弾みそうだ」
この時私は早々に逃げておくべきだったのかもしれない。
「えっと……それはどう言うことで……?」
「安心なさい。悪いようにはしません。ちょっと三日ほど私と呪い文字について語り合っていただければいいだけですから」
「三日!?」
「最低限の睡眠、食事、稽古の時間は保証しましょう」
「いや、そこを保証されてもっ!」
思わず側に立っていたフェルラートの袖をつかんで視線を向ければ、彼も困惑したような視線を返してくるばかりであった。
逃げ道。逃げ道はどこだろうか。
そこで部屋の扉が突然空いて、別の声が割って入ってきた。
エドワードである。
「おや。これは珍しい。滅多に私室に人を入れないお前が、今日は珍しく二人も入れているじゃないか」
「良い話し相手が見つかりましたので」
その言葉にどうやらエドワードは何かを察したらしい。
少々憐みの籠った視線をこちらに投げかけて、何も言わずに肩をすくめてみせた。
「ほどほどにしておくように」
まるで処置なしとでも言うかのような投げやりな言葉をフェイに投げかけたエドワードは、朝食の時間であることを告げるだけですぐに立ち去ってしまった。
私の逃げ道はどうやらないらしいことを、その時察したのだった。
そして、フェイの言葉通り丸三日。
呪い文字について語り合う日々が続いたのである。
ようやく解放されて、すっかり馴染んでしまったエドワードの私室にある寝床に寝転がり一息ついたとき、あることを思い出した。
「そういえば、あれも呪い文字になるのかしら?」
その時もっと考えていれば、未来はもっと違っていたのかもしれないなんて、その時の私はついぞ気づかなかった。