第3話 『「私が弱いから……」――耐え続けた小妖精が初めて力を解放する』
第3話 『「私が弱いから……」――耐え続けた小妖精が初めて力を解放する』
ゴブリンの群れが一斉に動き出した。湿った洞窟の床を何本もの足が踏み鳴らし、土と腐った木の匂いが鼻の奥へ入り込んでくる。シルフィは白い外套の裾を両手でつまみ上げ、背中の羽を大きく動かして走り出したが、背負っていた荷物を途中で落としてしまった。
「待ってください!」
振り返ると、緑色の顔がいくつもこちらを向いていた。ゴブリンたちは棍棒を振り上げ、奇声を上げながら追ってくる。シルフィは足元の石につまずきそうになりながらも、壁に手をついて身体を支え、昨日宿で縫ったばかりの外套が破れないように片手で押さえた。
「こっちに来ないで!」
声が洞窟の奥へ響いたが、ゴブリンたちは止まらなかった。シルフィは細い通路を見つけると身体を横向きにして滑り込み、羽を畳んで先へ進んだ。人間なら通れないほど狭い場所だったが、小柄な妖精である彼女ならどうにか通れる。
しかし、通路の先は行き止まりだった。岩壁が目の前に立ちはだかり、左右にも逃げ道はない。シルフィは荒く息を吐きながら壁に背をつけ、胸元に手を当てた。
「……どうしましょう」
ゴブリンの足音が近づいてくる。先頭の一匹が姿を現し、その後ろからさらに十匹、二十匹と続いてきた。シルフィは腰の革袋を探ったが、中に残っていたのは小さな薬草と、宿で買った硬いパンの欠片だけだった。
「こんなのでは、戦えません……」
パンの欠片を握りしめると、昨日の朝に食べた豆のスープの味を思い出した。温かな湯気と塩気のある味、宿の主人が「熱いうちに食べな」と言ってくれた声まで浮かんだ。こんな場所で死ぬわけにはいかないと思ったが、手の中のパンはあまりにも小さく、今の自分にできることもそれと同じくらい小さく感じられた。
「私……冒険者になんてならなければよかったのかな」
ゴブリンが一歩近づいた。シルフィは身体を縮め、花飾りのついた髪を両手で押さえた。森にいた頃なら、困ったときには木々が風を知らせ、鳥が危険を教えてくれたのに、ここでは耳を澄ましても聞こえるのはゴブリンの荒い息と、自分の心臓の音ばかりだった。
「ガルドさんたちを信じた私が、いけなかったんですね」
返事はない。シルフィは目元を袖で拭い、泥のついた白い外套を見下ろした。
「私が弱いから……こんなことになったんですね」
その瞬間、地面の下から低い音が響いた。
ゴブリンたちが動きを止めた。シルフィも顔を上げ、足元を見つめる。最初は洞窟が崩れるのかと思ったが、岩の隙間から何かが動いているのが見えた。
「……何でしょう?」
次の瞬間、岩壁を突き破って太い根が飛び出した。茶色い根は蛇のように地面を這い、最前列のゴブリンの足へ巻きついた。ゴブリンが悲鳴を上げて倒れると、別の根が腕を絡め取り、そのまま天井近くまで一気に引き上げた。
「ギャッ!」
「グギャア!」
次々と根が伸びていく。ゴブリンたちは棍棒を振り回して根を切ろうとしたが、切れた根は地面へ落ちる前に新しい枝を伸ばし、別のゴブリンへ絡みついた。シルフィは壁際に立ったまま、目の前で起きていることを理解できずにいた。
「どうして……?」
さらに洞窟の奥から巨大な根が現れた。根の表面には古い文字のような模様が浮かび、淡い緑色の光がそこを走っている。その根はゴブリンたちをまとめて拘束すると、まるで荷物を置くように地面へそっと降ろした。
「動けない……」
シルフィが呟いた。
その声に反応したように、地面のあちこちから小さな芽が顔を出した。芽は見る間に伸び、葉を広げ、蕾をつけていく。洞窟の冷たい空気の中に甘い花の香りが広がり、シルフィは思わず鼻を動かした。
「お花……?」
一輪の花が開いた。
続いて二輪、三輪と花が咲き、あっという間に洞窟の床が色とりどりの花で埋め尽くされていく。白、青、黄色、淡い桃色の花々から甘い香りが漂い、その香りを吸い込んだゴブリンたちが一匹、また一匹とその場へ倒れていった。
「えっ……?」
シルフィは慌てて口元を外套の袖で覆った。けれど、自分のところまで漂ってきた花の香りは不思議と苦しくなく、むしろ森の中で昼寝をしていたときのような安心する匂いだった。ゴブリンたちは全員眠り込み、洞窟には寝息だけが響いている。
「私が……やったんですか?」
シルフィは恐る恐る右手を上げた。指先からは何も出ていない。それでも、手のひらの奥には、今まで感じたことのない温かなものが流れていた。
「でも、私は何もしていません」
足元を見ると、先ほどまで何もなかった場所に一本の若木が生えている。幹は細いのに葉は青々としていて、その根元にはシルフィが落とした硬いパンの欠片が転がっていた。
「……パンまで、こんなところに」
シルフィはしゃがみ込み、泥のついたパンを拾った。さすがに食べる気にはならなかったので、布袋へしまう。こんな状況なのに、もったいないという考えが先に浮かんだ自分がおかしくなって、シルフィは小さく笑った。
「帰ったら、新しいパンを買いましょう」
立ち上がったシルフィは、眠っているゴブリンたちを見回した。殺すこともできたのかもしれない。しかし、目の前の魔物たちはすでに動けず、今なら安全に洞窟を出られる。
「……あなたたちも、起きたらここから出てくださいね」
自分を襲った相手にまでそんなことを言ってから、シルフィは首を傾げた。
「私、変でしょうか」
もちろん答える者はいない。
シルフィは洞窟の出口へ向かって歩き出した。途中でガルドたちが置いていった荷物を見つけ、さらに討伐証明になるゴブリンの耳や討伐印のついた袋まで落ちているのを発見した。ガルドたちは自分たちだけ逃げるため、依頼の証明品を置き去りにしていたらしい。
「これを持って帰れば、依頼は完了になりますよね」
シルフィは袋を拾い上げた。中身を確認すると、ゴブリンの討伐数が記録された帳面まで入っている。帳面の端にはガルドの名前が書かれていたので、シルフィはそれを折り曲げないように丁寧に荷物へしまった。
洞窟の外へ出ると、夕方の風が頬を撫でた。冷たい空気を吸い込んだ瞬間、シルフィはようやく肩の力を抜き、空を見上げた。太陽は西へ傾き、草原の向こうでは街へ戻る街道が赤く染まっている。
「……生きて帰れました」
シルフィは羽を広げた。
けれど、長く飛ぶ力は残っていなかった。結局、討伐証明の袋を抱え、泥だらけの外套を引きずりながら、歩いて街へ戻ることになった。
ギルドの扉を開けた瞬間、食堂から肉を焼く匂いが流れてきた。シルフィの腹が大きく鳴り、彼女は慌てて両手でお腹を押さえる。受付嬢が驚いた顔で立ち上がり、泥まみれのシルフィを見て駆け寄ってきた。
「シルフィさん!」
「ただいま戻りました」
「どうしたんですか、その服! それに、ガルドさんたちは?」
「先に帰ったみたいです」
受付嬢が青ざめる。
「まさか、置いていかれたんですか?」
「……たぶん」
シルフィは拾ってきた討伐証明の袋を受付台へ置いた。受付嬢は中身を確認し、目を大きく見開いた。ゴブリンの討伐数は依頼で指定された数を大幅に超えている。
「これ……全部、シルフィさんが?」
「よく分からないんです」
「分からない?」
「洞窟で追いかけられて、それで……お花が咲いて、みんな眠ってしまって」
そこへガルドたちが戻ってきた。シルフィの姿を見た瞬間、ガルドの足が止まった。
「……生きてやがったのか」
シルフィはその言葉を聞いて、胸の前で指を組んだ。ガルドが謝ってくれるのではないかと、ほんの少しだけ期待してしまった。しかし彼は視線を逸らし、吐き捨てるように笑った。
「運が良かっただけだ」
受付嬢の表情が険しくなる。
「ガルドさん、あなたは――」
「黙れ。こいつが勝手に逃げ回って、たまたま魔物同士が潰し合っただけだろ」
シルフィは反論しようとした。
けれど、言葉が喉の奥で止まった。
あの洞窟で自分を助けたのは、確かに偶然だったのかもしれない。自分の力なのか、それとも古代の遺跡に眠っていた何かが助けてくれたのか、まだ何も分からない。
「……そうかもしれません」
シルフィがそう答えた瞬間、胸の奥で何かが大きく脈打った。
ドクン、と一度だけ強く鳴った。
シルフィは胸元を押さえた。
「……あれ?」
身体の奥から、朝まで感じたことのない力が込み上げてくる。けれど、それは怖いものではなかった。森の大樹の根元で昼寝をしたときに感じた、土の中から伝わってくる温かな感覚に似ていた。
シルフィはまだ知らない。
理不尽な言葉を飲み込み、誰かを恨むことよりも生きることを選んだことで、古代魔力がさらに大きく育っていたことを。
そしてガルドは、目の前にいる小さな妖精が昨日までのシルフィとは、もう別人になり始めていることに気づいていなかった。




