第2話 『「荷物持ちで十分だ」――命を囮にされる小妖精』
第2話 『「荷物持ちで十分だ」――命を囮にされる小妖精』
翌朝、シルフィは宿の小さな食堂で、焼きたての丸パンと豆のスープを食べていた。昨日の薬草採取でもらった銅貨を数えながら、白い外套のほつれを指先でつまみ、あとで宿の主人に針を借りようと考えていた。森にいた頃は服が破れれば母代わりの妖精が直してくれたが、人間の街では自分でできることを増やさなければならない。
「今日も、お仕事を探さないといけませんね」
スープを飲み終えると、シルフィは小さな木匙についた豆をきれいに舐め取り、籠を抱えてギルドへ向かった。朝の街にはまだ薄い霧が残っていて、石畳は夜露で濡れていたが、パン屋の煙突からは香ばしい匂いが流れてきた。ギルドの扉を開けると、昨日と同じように酒と革と木材の匂いが混ざった空気が鼻をくすぐり、受付へ向かう途中で何人かの冒険者がシルフィを見て笑った。
「おっ、羽虫が来たぞ」
「今日は薬草じゃなくて何を拾うんだ?」
シルフィは聞こえないふりをして掲示板を見上げた。彼女には人間の文字を読むのに少し時間がかかるので、依頼書を一枚ずつ指でなぞりながら内容を確かめていく。すると、背後から大きな手が伸びてきて、シルフィが見ていた依頼書をひょいと剥がした。
「薬草採取なんてやめておけ」
振り返ると、そこにガルドが立っていた。昨日と同じ革鎧を着ているが、今日は肩に厚手の外套を掛け、腰には大きな剣を下げている。朝から酒を飲んでいるのか、近づいただけで麦酒の匂いがした。
「お前、昨日Fランクになったばかりだろ」
「はい」
「なら、俺たちの手伝いをしろ」
シルフィは目を瞬かせた。ガルドから声をかけられるとは思っていなかったので、胸元の花飾りを無意識に触る。昨日は散々馬鹿にされた相手だったが、今日は一緒に仕事をしようと言っている。
「私でいいんですか?」
「ああ」
ガルドは笑ったが、その笑顔には親切さよりも別のものが混じっていた。隣にいた大柄な斧使いの男が吹き出しそうになり、慌てて口元を手で隠している。シルフィはそれに気づかなかった。
「今日の依頼はゴブリン討伐だ」
「ゴブリンですか?」
「そうだ。街から半日ほど歩いた場所に洞窟がある。そこに巣を作ったらしい」
シルフィは依頼書を受け取り、内容を確認した。報酬は一人につき銀貨二枚で、Fランクのシルフィにとってはかなり大きな金額だった。銀貨二枚あれば、しばらく宿代を払えるし、温かい食事も何度か食べられる。
「お願いします」
「決まりだな」
ガルドは満足そうに笑った。
出発前、ギルドの裏手でシルフィは自分の荷物を確認した。小さな革袋の中には水筒、干し肉、硬いパン、薬草、それから森を出るときに持たせてもらった裁縫道具が入っている。昨日破れかけていた外套の袖も、宿で借りた針を使って簡単に縫い直してあり、シルフィは糸の結び目を確認してから袋を閉じた。
「準備できたか?」
「はい」
ガルドたちのパーティは四人だった。ガルドのほかに斧使いのドグ、弓使いのバルク、魔術師のネラがいる。四人ともシルフィを値踏みするように見ていたが、誰も歓迎する言葉は口にしなかった。
街を出てしばらくすると、道の両側に広がる草原から風が吹いてきた。シルフィは歩きながら、森とは違う乾いた土の匂いを嗅いでいたが、隣を歩いていたドグが大きな荷物を背負わせてきた。革袋や食料袋まで詰め込まれた荷物はシルフィの身体より大きく、彼女は両手で抱えながらふらついた。
「わっ……重いです」
「小さいんだから持てるだろ」
「でも、これでは飛べません」
「飛ぶ必要なんかねえよ」
ドグが笑い、ガルドたちも笑った。シルフィは仕方なく荷物を背負い直したが、紐が肩に食い込み、白い外套がずり落ちてしまう。彼女は立ち止まって外套を直し、それから小さな足で三人の後を追った。
「荷物持ちとしては優秀だな」
「戦わなくていいんだから、楽なもんだろ」
ガルドの言葉に、シルフィは少しだけ首を傾げた。昨日、彼は「戦えない奴が冒険者を名乗るな」と言っていたはずなのに、今日は自分を連れていく。理由は分からなかったが、仕事をもらえたことのほうが嬉しかった。
「私、頑張ります」
ガルドは振り返らなかった。
昼過ぎになると、目的の洞窟が見えてきた。入口の周囲には枯れた草が生え、湿った土から生臭い匂いが漂っている。シルフィは鼻を押さえながら洞窟を覗き込み、暗い奥から聞こえる小さな唸り声に羽を震わせた。
「中に何かいます」
「分かってる」
「私も一緒に行くんですか?」
「お前にしかできない仕事がある」
ガルドはそう言って、シルフィの背中に荷物を押しつけた。
「洞窟の奥まで行け」
「奥ですか?」
「ああ。お前は小さいから、狭いところにも入れるだろ」
シルフィは暗い洞窟の奥を見つめた。湿った岩肌には水滴が伝い、足元には古い骨が転がっている。人間の冒険者なら危険を感じる場所だったが、シルフィは森で似たような洞窟を何度も見たことがある。
「敵を見つけたら、すぐ戻ってきてください」
「分かった、分かった」
ガルドは面倒そうに手を振った。
「お前が逃げてきたところを、俺たちが後ろから倒してやる」
「本当ですか?」
「嘘をついてどうする」
シルフィは安心したように頷いた。
「では、行ってきます」
小さな羽を畳み、シルフィは洞窟へ入っていった。
洞窟の中は外よりずっと冷えていた。天井から落ちる水滴が頬に当たり、湿った岩の匂いと腐った木のような臭いが混ざって鼻に残る。シルフィは片手に小さなランタンを持ち、もう片方の手で壁を触りながら、慎重に奥へ進んだ。
「……誰もいませんね」
しばらく進むと、奥から足音が聞こえた。ひとつではない。二つ、三つ、十、二十と数えるうちに、暗闇の向こうに赤く光る目が次々と浮かび上がった。
「ゴブリン……?」
シルフィの手からランタンが落ちそうになった。小さな緑色の身体が洞窟いっぱいに並んでいる。粗末な棍棒を持つもの、錆びた短剣を持つもの、弓を構えているものまでいた。
「こんなに……?」
シルフィはゆっくり後ろを振り返った。ガルドたちが来るはずだった場所には、誰もいない。耳を澄ましても聞こえるのはゴブリンの唸り声と、遠くから落ちてくる水滴の音だけだった。
「ガルドさん?」
返事はない。
シルフィは急いで洞窟の入口へ戻ろうとした。しかし、ゴブリンたちはすでに左右へ広がり、逃げ道を塞いでいる。背中の荷物が岩壁にぶつかり、紐が肩へ食い込んだ。
「待ってください……」
シルフィは荷物を下ろした。革袋の中から干し肉が一枚落ち、湿った地面に転がる。昨夜食べずに残しておいたものだったが、拾う余裕はなかった。
「私は、戦うために来たんじゃ……」
そのとき、洞窟の入口からガルドの声が響いた。
「悪いな、羽虫!」
シルフィが振り返る。
遠くの暗闇に、ガルドたちの姿が見えた。だが、彼らは洞窟の外へ向かって走っていた。
「ガルドさん!」
シルフィは駆け寄ろうとした。
「待ってください!」
ガルドは振り返り、口元を歪めた。
「お前が囮になれば、俺たちは安全に逃げられる」
「囮……?」
「お前みたいな小さい奴でも、ゴブリンくらいなら少しは時間を稼げるだろ」
シルフィは言葉を失った。頭の中で、出発前に言われた言葉が何度も繰り返される。敵を見つけたら戻ってこい、自分たちが後ろから倒してやる、その約束だけを信じてここまで来た。
「……嘘だったんですか?」
「最初からお前を連れてきた理由なんて、それだけだ」
ガルドは笑った。
「じゃあな、羽虫!」
足音が遠ざかっていく。
シルフィは追いかけようとしたが、目の前にゴブリンが立ちはだかった。粗末な棍棒が床を叩き、湿った土が跳ねて白い外套に付着する。シルフィは袖についた泥を指先で払おうとしたが、手が小刻みに震えてうまく取れなかった。
「どうして……」
ゴブリンが一歩近づく。
「どうして、こんなことをするのでしょう」
答える者はいなかった。
シルフィはゆっくり後ろへ下がった。背中が冷たい岩壁に触れ、これ以上進めないことが分かる。胸元の花飾りを握ると、森を出る朝に仲間から言われた言葉が蘇った。
「人間の街は広いから、きっと楽しいことがたくさんありますよ」
その言葉を思い出しながら、シルフィは目元を袖で拭った。
「……私、帰りたいです」
ゴブリンが棍棒を振り上げた。
その瞬間だった。
シルフィの足元から、緑色の小さな芽が一本だけ顔を出した。
湿った岩の隙間から伸びた芽は、周囲の土を押し上げながらゆっくりと茎を伸ばしていく。シルフィはゴブリンに追われているため、その小さな変化には気づかなかった。
芽の先には、まだ開いていない小さな蕾がついていた。
シルフィが一歩下がるたび、もう一本。
涙を拭うたび、もう一本。
逃げたいと思いながらも、誰かを恨むことを選ばず、ただ生きようとしている間にも、地面の下では無数の細い根が伸びていた。
そしてシルフィの胸の奥でも、昨日までとは比べものにならないほど大きな魔力が静かに膨らみ始めていた。




