表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
1/5

第1話 『「羽虫に冒険者は無理だ」――最弱Fランクから始まる』

第1話 『「羽虫に冒険者は無理だ」――最弱Fランクから始まる』


 森を出たシルフィが人間の街へ入ったのは、朝の鐘が三度鳴った頃だった。昨日まで木漏れ日の下を歩いていた彼女にとって、石畳の道は硬く、靴底から伝わる感触まで新鮮だった。金色の長い髪には故郷の森で摘んだ小さな花を編み込み、薄い緑色のワンピースの上には、母から譲られた白い短い外套を羽織っている。


 背中の蝶のような羽を隠すことはできなかったので、街へ入ってから何度も人の視線が集まった。焼きたてのパンを並べた店からは小麦とバターの香りが流れ、肉屋の軒先からは炭火で焼かれたソーセージの煙が漂っている。シルフィは足を止めるたびに鼻を小さく動かしながら、腰に結んだ布袋の中身を確認した。


「銅貨が三枚……これでお昼ご飯を買ったら、残りは一枚です」


 森を出るときに持たせてもらった食料は、昨夜のうちに食べ終わっていた。硬くなった黒パンを水でふやかして食べただけだったが、それでもシルフィにとっては故郷を離れて初めての夕食だった。今朝も何も食べていない腹が小さく鳴り、彼女はお腹を押さえてから、街の中央にそびえる大きな建物を見上げた。


「冒険者ギルド……ここでお仕事を探せばいいんですよね」


 木造の大きな扉を押し開けると、乾いた木の匂いと酒の匂いが混ざった空気が顔に当たった。朝だというのに受付の前には何人もの冒険者が集まり、壁には魔物の討伐依頼や薬草採取の紙がびっしりと貼られている。革鎧の男、弓を背負った女、杖を持った老人までいて、森とはまるで違う世界に入り込んだようだった。


「……妖精?」


「おい、見ろよ」


「あんな小さいのが冒険者登録するのか?」


 シルフィが受付へ向かうと、周囲から声が聞こえてきた。彼女は一度だけ振り返ったが、誰が話しているのか確かめることはしなかった。代わりに受付台の端に置かれていた羽ペンを見つめ、先端に残った黒いインクが乾いていないことに気づいた。


「冒険者登録をしたいのですが」


 受付嬢は目を丸くし、それからシルフィの顔と羽を交互に見た。手元の書類を取り出しながらも、隣の受付係へ小声で何かを尋ね、二人で困ったように顔を見合わせている。シルフィは椅子に腰掛けようとしたが、普通の椅子では足が届かず、結局その場で立ったまま説明を聞くことになった。


「種族は妖精族で間違いありませんか?」


「はい、森の妖精です」


「冒険者として登録する理由は?」


「人間の街を見てみたかったのと、お仕事をしてみたかったからです」


 受付嬢は少しだけ困った顔をしたが、登録用紙を差し出した。シルフィは羽ペンを両手で持ち、慣れない人間の文字を一文字ずつ丁寧に書いていく。紙の端にインクが少し滲んだため、彼女は袖口で拭こうとして慌てて手を止め、受付嬢から布を借りて机をきれいにした。


「冒険者ランクは……Fランクになります」


「Fランク?」


「はい、最低ランクです」


 受付嬢の声に悪意はなかったが、その説明を聞いた周囲から笑い声が上がった。シルフィは登録証を受け取り、銀色の小さな板に刻まれた「F」の文字を指先でなぞった。森では木の高さや薬草の種類で自分の役割が決まっていたので、文字一つで人の価値を判断する仕組みが少し不思議だった。


「妖精がFランクだってよ!」


「当然だろ、戦えるわけがない」


「その羽で魔物を倒すつもりか?」


「薬草摘みでもしてろよ!」


 笑い声が広がり、シルフィの羽がわずかに震えた。彼女は胸元で登録証を握り直し、花飾りの位置を指先で整えた。森を出る前、古い大樹の下で姉代わりだった妖精に「人間は見た目だけで決めつけることがある」と言われたことを思い出した。


「……そうですか」


 シルフィは小さく笑った。怒鳴り返すより先に、今日の仕事を見つけなければならないと思ったからだ。空腹のせいで少し力が入りにくくなっていたので、できれば昼食までに依頼を終わらせて、温かいスープを飲みたかった。


「おい、そこの羽虫」


 低い声が響いた。


 振り返ると、赤茶色の髪を短く刈った大柄な男が立っていた。厚い革鎧の肩には何度も使い込まれた傷があり、腰には幅広の剣が吊られている。


「冒険者をやりたいなら、まず自分の身の程を知れ」


 男の名前はガルドだった。上級冒険者の中でも名の知られた戦士で、仲間を三人従えてギルド内を歩く姿は、誰もが道を空けるほどだった。ガルドはシルフィの頭からつま先まで眺め、最後に蝶のような羽を見て鼻で笑った。


「その羽じゃ、ゴブリン一匹にも勝てないだろ」


「やってみなければ、分からないと思います」


 シルフィがそう答えると、周囲からまた笑い声が上がった。ガルドの眉がわずかに動き、彼はシルフィの前へ一歩近づいた。革靴が床板を踏む音が大きく響き、シルフィは思わず一歩だけ後ろへ下がった。


「口だけは達者だな」


「すみません」


「謝るくらいなら、最初から冒険者なんて名乗るな」


 ガルドは吐き捨てるように言うと、仲間を連れて受付の奥へ消えていった。シルフィはその背中を見送り、登録証を胸元へしまった。


「……お腹が空きました」


 隣で聞いていた受付嬢が思わず吹き出しそうになり、慌てて口元を押さえた。シルフィも少し笑ってしまい、二人の間に先ほどまでとは違う空気が流れる。受付嬢は壁に貼られた依頼書の中から、一枚の紙を取り外した。


「だったら、まずはこれを受けてみませんか?」


「薬草採取ですか?」


「はい、街の外れにある草原で薬草を十束集める依頼です」


 報酬は銅貨五枚だった。シルフィは登録証と依頼書を見比べ、これなら昼食を買ってもまだ少し残ると計算した。彼女は嬉しそうに頷き、受付嬢から小さな籠を借りてギルドを出た。


 街の外へ続く道には、朝露を残した草が風に揺れていた。シルフィは森で暮らしていた頃と同じように地面へしゃがみ込み、葉の裏側や石の陰を覗き込んでいく。人間の冒険者なら見落としてしまうような小さな薬草を見つけるたび、シルフィはそっと根元を避けて摘み取り、籠へ並べていった。


「これは三束目……あ、こっちにもあります」


 昼前には依頼の十束を集め終えた。さらに森でしか知られていない希少な薬草まで見つけたため、シルフィはそれを別の布に包んで大切にしまった。籠を抱えて街へ戻る途中、パン屋の前を通ると焼きたての丸パンが店先に並び、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。


「ひとつください」


 銅貨を渡すと、店主が温かなパンを紙に包んでくれた。シルフィはギルドへ戻るまで待とうと思ったが、焼きたての香りに耐えられず、道の端に腰を下ろして一口かじった。表面はぱりっとしていて、中から小麦の甘みが広がり、空っぽだった胃がようやく落ち着いていく。


「おいしい……」


 パンを半分食べたところで、シルフィは残りを紙に包み直した。夜に食べる分まで全部食べてしまったら、またお腹が空いてしまうからだ。そんな小さな節約をしながら、彼女は再びギルドへ向かった。


 受付で薬草を確認してもらうと、依頼は問題なく達成となった。受付嬢は通常の薬草より品質が良いことに驚き、追加報酬を渡そうとしたが、シルフィは首を横に振った。


「依頼に書いてある分だけで大丈夫です」


「でも、この薬草はかなり上質ですよ」


「本当ですか?」


 シルフィは嬉しそうに目を細めた。自分が役に立ったのだと分かると、胸の奥に温かなものが広がった。Fランクという文字より、誰かの役に立てたという事実のほうが、今の彼女にはずっと大切だった。


 その様子を、ギルドの奥からガルドが見ていた。彼は酒の入った木杯を机に置き、シルフィが受け取った報酬を見て鼻を鳴らした。仲間の一人が「意外とやるんじゃないか」と言うと、ガルドは面白くなさそうに腕を組んだ。


「薬草採取くらいで調子に乗るな」


 シルフィには聞こえていた。


 それでも彼女は振り返らなかった。


 登録証を胸元にしまい、残ったパンを大切そうに抱えて宿へ向かう。


 その背中から伸びた小さな羽が、夕暮れの光を受けて淡く輝いた。


 誰も気づかなかった。


 シルフィが理不尽な言葉を飲み込むたび、胸の奥で眠っていた古代魔力が、ほんの少しずつ膨らんでいることを。


 そして、その小さな変化が、やがて冒険者ギルドの常識そのものをひっくり返すほどの力になることを、今はまだ誰も知らなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ