第35話
「ねぇ、どうしておじいちゃんの所に行くことにしたの?」
二人並んで仰向けになって天井を見上げながらずっと気になっていった事を聞いた。
もうそのことで不安を感じたり黎の事を疑ったりはしない、だけどあれだけ行くことを渋っていたのに何があったのかは気になった。
「……見えないんだ」
「見えない?」
「前までは石を見ていればそれだけでどこをどう削れば良いのか分かったのに、最近はいくら石を見つめても何も見えてこないの」
「どうして?」
「亜香里のせいだよ」
まさかそこで自分名前が出てくるなんて思わなくて思わず亜香里がすぐ横にある黎の顔を窺うと、彼女は天井を見上げたまま言葉を続ける。
「前に話したでしょう、わたしは【天才彫刻家、春夏冬黎】それ以外の物を全部取り除いて産まれてきたって。だけど亜香里と出会って、亜香里と一緒にいるようになって、わたしには余計なものが沢山付いちゃった」
「……それで私から距離を取ろうとしたの?」
そう聞くと黎は首を横に振る。
「違う、むしろその逆――捨てたくなかったんだその余計なものを、それはもうわたしにとって大事なものになっちゃったから。だから彫刻以外に出来ることを探そうとも思ったんだけど」
ああそれで最近何かと家事を手伝ったり普段しないような事をしようとしていたのか、ストンと疑問が一つ腑に落ちる。
「だけどやっぱりわたしには彫刻を作ることしか出来ないんだって分かったから、だから決めたの。papiのところで修行してちゃんとちゃんとした彫刻家になろうって、亜香里にかっこいいって思ってもらえるような芸術家でいたいから」
「……そっか」
もう不安はなかった、黎の心に触れて言葉を聞いて今ならそれを信じることが出来るから。
離ればなれになってしまうのは悲しいけれど、それでも黎が覚悟を持って決めたことだと言うのなら応援してあげたい、それもまた亜香里にとって本心だったから。
「……ねぇ亜香里、一つだけワガママを言ってもいい?」
「ワガママ? ってなに?」
聞き返すと黎は黙り込んでしまった、自分から言い出したくせになんだか言うことを躊躇しているように見えた。
「なに?」
もう一度聞いてみると、そっと黎の手が亜香里の手に触れる、握るわけでもなくただ遠慮がちに接触した指先だけが二人を繋ぐ。
「……待っててほしい」
祈るような声がそう言った。
何を待てば良いのか、いつまで待てば良いのか、そう言った具体的な事はなにも言わずただ一言。
もしかしたら聞いたら教えてくれたかもしれない、でも亜香里はそれ以上聞いてしまうのは野暮なような気がした。
「……分かった、待ってる」
触れていた指を自分の指で絡めて捕まえるそうすると黎もそれに応える様に指を絡め返してくる、簡単に離れてしまわないようにしっかりと深く強く。
「あっ、そうだ! ねぇその代わりにっていうわけじゃないんだけど、私も一つだけお願いしてもいい?」
そうして亜香里があるお願いをすると、黎は少し不思議そうにしていたけれど「いいよ」とそれを受け入れてくれた。
「これでよしっと」
翌日、黎のアトリエで亜香里は共通アトリエから持ち込んだキャンバスやイーゼルといった油絵を描くための道具一式を広げた。
「それじゃあ黎、よろしくね」
「うん、それは良いけど本当に良いの? 昨日も言ったけど最近はあんまり調子が良くなくて」
「大丈夫、最悪ポーズを取ってくれるだけでも良いから。あっ疲れたら言ってね休憩とるから」
「わかった、亜香里がそう言うのなら」
そうして黎はいつものようにアトリエの中央で座り込み石材を見つめて意識を集中させる。
最近はスランプ気味だという話だったけれど、その姿と表情はあの時と変わらず凜々しくて凄く綺麗だった。
亜香里からのお願い、それは彫刻を作る例の姿を描かせて欲しいというものだった。
人物画は苦手。モデルである人に似せる以上の意味を絵に込める事が出来ないから、だから今まで亜香里は自身の作品としてそれを描こうとはしてこなかったから。
でも今なら似顔絵以上の何かをキャンパスに塗り込める様な気がした、根拠はないけれど描きたいと思えたそれ以上の動機なんて必要ない。
今まで下書きするら描くことのできなかキャンバス、真っ白なその景色がようやく色づき始める。
まずは下書き、鉛筆で大まかな輪郭と絵のバランスを決める、次は下塗りで全体のイメージとなる大まかな色を乗せていく。
油絵と言うのは基本的に一日で一気に描き上げられるものじゃない。
油絵の具はすぐには乾かず短くても一日から三日掛かる事が殆どだ、だからある程度描き進めたらいったん絵を乾かす時間をとらなければならない。
もどかしくも思えるけれど無理に描こうとすると絵の具が混ざって綺麗な絵にはならない、だから慌てずじっくり少しずつ色を重ねていく。
それから黎にも協力してもらいながら亜香里は何日も掛けて絵を書き進めて、約一ヶ月後十二月も終わりに差し掛かった頃その絵は完成し、それから一週間も経たないうちに黎は祖父のいるフランスへと旅立っていった。
パスポートやらなんやらといった向こうに行くための手続きは、結局面倒だからと中々手を付けない黎を見かねて殆ど亜香里が手伝ってしまったが今となっては良い思い出……でもない気がする。
向こうでちゃんとご飯は食べれるだろうか? 洗濯は? 掃除は? しばらくはおじいちゃんの所で生活すると言っていたけど迷惑を掛けてたりしていないだろうか。
なんて老婆心が爆発してしまうが不思議と悲しさや寂しさみたいなものはあまり感じなかった、もしかしたらまだ実感が湧いていないだけなのかもしれない。
だけど一番の理由はきっと黎が『待ってて』と言ってくれたから『待ってると』約束したから。
彼女はなにもはっきりとした物は残さず行ってしまったけれど、それでも待つことがつらいとは思わなかった。
黎が旅立つ前に描き上げたあの絵は進級制作として学校に提出し先生達からはそこそこの高評価を頂いた。
美しい女性の形をした石の彫刻、しかしその瞳には確かな意思の光が宿り真っ直ぐに何かを見つめている、そんな絵だ。
『彼女はまるで彫刻の様で』それがタイトル。
結局、黎にとって斉藤亜香里はどんな存在だったんだろう。
それは亜香里が二年生になった今でも時々頭を過る疑問だ、だけどそんなもの今となってはもう大した意味はないのかもしれない。
「だけど、いつまでも待たせてたら気が変わっちゃうかもしれないよ」
始業式を終えた後の帰り道、遠く離れた場所とつながっているはずの空を見上げながら亜香里はそう呟いた。




