第34話
部屋に戻ってそのままベットの上で横になる。
不思議と出掛ける前よりも気持ちは少しだけ落ち着いていた、不本意だったとは言え道長に気持ちを吐き出した事がよかったのかもしれない。
ベットから体を起こすと亜香里は先ほど道長から渡されたスケッチブックを開いた。
実家の近くにある公園、地味端で見つけた綺麗な花、初めて見た珍しい鳥、パラパラと今まで亜香里自身が描いてきた絵を眺めていって。
「……あっ」
そしてそのページにたどり着いた。
そこに描かれてたのは朧気に何かの形をかたどり始めた石材を見つめる黎の姿。
亜香里が初めてアトリエに訪れた時に見た天才彫刻春夏冬黎としての姿。
亜香里が恋に落ちた黎の姿。
その絵を見た瞬間そこ込めてた想いが亜香里の中に流れ込んで、心の奥で揺らいでた火が力を取り戻し熱が体を包む。
そうだ――。
止まっていた心臓が動き出す。
私――。
ベットから体を跳ね上げその勢いのまま玄関の扉を開き外へ飛び出す。
亜香里はある場所に向かって歩き出した。
さっきまでのどこかとぼとぼした力のないものじゃない、はっきりと意思の籠もった足音を響かせながら真っ直ぐに。
もう迷いも不安もそこには存在していなかった。
貸しアトリエ棟、階段を上って二階に上がり向かって一番奥にある角部屋。亜香里がこうしてここを尋ねるのはこれで何度目だったろうか。
相変わらず鍵の閉まっていない扉を開き中に入るとそこにはやっぱり黎の姿があった。
石材を見つめていた黎が亜香里の存在に気づき視線を向ける、その表情がほんの少し驚いてる様に見えたのは気のせいだろうか?
「久しぶり」
「久しぶりって、少し前にもあったじゃない」
「そうだね、だけどやっぱり私には久しぶりだから」
単純に顔を合わせていなかった期間の事を言ってるわけじゃない。
ここ最近ずっと亜香里は黎から目をそらしてきたすぐ側にいても、心が彼女を直視しないようにしていた、だから久しぶり。
「で? どうしたの? ここ最近ここには来てなかったのに」
黎のその言葉にはどことなく棘があるような不機嫌な気配を感じた、だけど今更そんなものには怯まない。
亜香里は真っ直ぐに黎の元へと歩み寄っていく。
床に座り込んでいた黎に会わせて亜香里も腰を下ろす、彼女の手を取り両手で包み込む様に握るそして真っ直ぐにその目を見つめる。
正直未だに黎が自分のことをどう思っているのか、彼女に取って斉藤亜香里という存在がどういうものなのかまるで分かっていない。
正直に言えば不安や恐怖が消えた訳でもない、手は震えそうだし足も気を抜けば今すぐこの場から逃げ出すために走り出しそうだ。
分からないことだらけで確証なんて何もない、だけどただ一つ、たった一つだけ亜香里が確信を持って絶対と言えるものがそれらを支え踏みとどまる勇気をくれる。
「前にここで聞いたよね、どうしてって。なんで私に黎がフランスへ行くことを相談しなきゃいけないのかって、今その返辞をするね」
あの時は何も言うことが出来なかった、自分にはそんな権利も理由もないような気がしてただ黙って俯くことしか出来なかった。
だけど今は違う。
黎の考えてる事なんて分からない、だけどこれはこれだけは紛れもない真実。
「――私が黎の事を好きだから」
その言葉は震える事なく、はっきりと言うことが出来た。
「前にも言ったでしょう? 私は黎の事が好きで、大好きだから。だから相談して欲しかった、黎がどこか遠くに行ってしまうのは寂しいって言わせて欲しかった。黎が何かしたいことがあってフランスに行くことを決めたならそれを応援させて欲しかった」
一度口に出してしまえば今まで堰き止めていたものから解き放たれるみたいに、言葉はよどみなく自然と溢れてきた。
「これが私のわがままでしかないことくらい分かってる、私にこんなことを言う権利があるのかも知らない。重いよね? 気持ち悪いよね? 分かってる、だけどこれが私の本音だから」
この言葉を聞いて黎は何を思うだろう。
驚くのだろうか、それとも嫌悪を示すのだろうか、それは分からない、だけどたとえなんて思われてなんて言われようとも構わない、そう言う覚悟は決めてきたつもりだった。
「――やめてよ」
だけど。
「だからズルいよ、突然そんなこと言うの……」
黎の反応は亜香里が覚悟していたものとはまるで違うものだった。
「えっ、あれ?」
予想外の反応に、むしろ亜香里の方が困惑してしまう。
そんな黎の表情を見るのは初めてだった。
落ち着きなく視線をそらして、何かを堪えるみたいに口を結んで、頬に一刷毛の朱色が浮かぶその様子はまるで……。
「……ひょっとして照れてるの?」
そう聞くと黎の体がビクリと跳ねた。
「だって急にそんなこと言われたら…………困る」
いつも飄々として自由でつかみ所のない黎、そんな彼女の見たことなのい弱々しいそんな姿を見ていたらなんだか沸々と胸が高鳴って。
どうしよう、凄く可愛い……。
「ねぇ、どうして? どうして私が黎の事好きって言ったら困るの? ねぇどうして?」
「いや、それはぁ……」
逃げるように身を引く黎を逃がさないように掴んでいる手に力を込める。
あぁ良くない、コレは良くない。理性がそう訴えるが背筋がゾクゾクするような快感にも似た感覚を押さえられない。
いつも振り回されてドキドキさせられるばかりだった黎に仕返しが出来た様な気がした、なんだこんなに簡単な事だったんじゃ……あっ。
亜香里はそこで気づいた。今まで散々悩んでそれでも答えが出なかったこと、それがようやく分かったのだ、そして。
「あはっ、あはははは」
分かったら無性に笑いがこみ上げてきた、だってあんまりにも馬鹿馬鹿しくて。
「ど、どうしたの亜香里?」
突然爆笑し始めた亜香里に黎は心配そうに声を掛ける。
「ううん、大丈夫心配しないで。ただ私ってバカだったなぁって、そう思ったら可笑しくってさ」
ずっと不思議だった。
どんなに黎と一緒にいても、楽しい時間を過ごしてもどうしても確信が持てなかった。
黎が自分の事を好きでいてくれるのか自身が持てなかった、その理由が今ようやく分かった。
それは黎が天才だからだとか自分が凡人だからだとか、そんな大層なものじゃない。
もっと単純でもっと馬鹿馬鹿しいくだらない事。
「ねぇ黎――黎は私のこと好き?」
「………………へ?」
そう聞くと目をまん丸にして黎は固まってしまった。
「私は黎の事が好きだよ、でも黎は? 今まで一度も言ってくれたことないよね? それとも黎は私の事嫌い?」
そう聞くと黎はすぐに首を横に振ってくれた。
「違うそうじゃない、ただ……」
言いよどみ口をもごもごとする黎の言葉を亜香里は辛抱強く待って、そうしてようやく消え入りそうな声で一言ぽつり。
「……恥ずかしいからぁ」
頬を赤らめて本当に恥ずかしそうにする黎の姿にまたいけない感覚を覚えながらも、亜香里は呆れる様な拍子抜けするような。
いままで散々アレやソレやとやってきたとくせにに、ただ好きの一言を言うだけのことを恥ずかしいだなんて羞恥心の基準があべこべだ。
だけど、そんなこと言われてしまったらますます言って欲しくなる。
「それでも私、黎に言って欲しいな」
「いや、でも……分かるでしょ?」
「ううん分からない、だから言って」
捕まえている手にますます力込めて畳みかけると、黎は観念したようにギュッと目を閉じて。
「…………………………………………好き、だよ」
――ああ本当に、本当にただこれだけの事だったんだ。
乾ききった地面が水を与えられて潤いを取り戻していくみたいに、その一言が亜香里に染み渡っていく、幸福が心を満たす。
こんなに簡単な事だったのに自分はずっとうだうだ悩んで、あーもう本当にバカ丸出しだ。
「……もう一回言って」
「えぅ、でも」
「いいから、もう一回言って」
「……好き」
「もう一回」
「……好き」
「もう一回」
「……好き!」
「もう一か――」
その時、閉じられてた黎の瞳が開いてその唇が亜香里の口を塞いだ。
「……いじわる、おしまい」
唇を離し顔を赤くしながら囁くみたいににそんなことを言われたら益々いじわるをしたくなってしまうが、さすがにこれ以上は可哀想かなと武士の情けで自重する。
でも、最後にもう一回だけ。
「私も黎の事が大好き」
そう言って今度は亜香里の方から唇を重ね、そのまま自分もろとも黎を押し倒した。
このまま時間が止まってしまえば良いのに。
亜香里は産まれて初めて、そんなベタなことを本気で思った。




