第32話
夜五時半、共同アトリエ棟。
最終他出時間が迫り生徒達の姿もまばらになり始めた頃、亜香里は目の前のキャンパスを見つめていた。
四号キャンパスは白紙だった。
そこには下書きの後すらなく正真正銘真っ白な景色が広がっている。
進級制作の提出は二月まで、いい加減下書きくらいは始めてないと、今後の進行に支障が出るかもしれないのだけど。
「はぁ……」
亜香里は人気のなくなりつつある共同アトリエで、一人深い深いため息を付いた。
今までも題材に悩んだりどうすれば上手く描けるか考えて筆が進まない事はいくらでもあった。
だけど絵を描く気力そのものすら湧いてこないなんてことは初めてだった。
いや絵に限った事じゃない、何かをしようという方向に体が動いてくれない。
心ここにあらず、あの時とどめを刺された心臓はまだ鼓動を止めたまま動き出す気配を見せないでいる。
『どうして?』
数日経った今でもその一言が頭を回る。
答える事が出来なかった。
投げかけられたその問い対して、理路整然と答えられる理屈が亜香里は何一つとして持ち合わせていなかったからだ。
自分と黎の間には偶々部屋が同じになったルームメイト以上の物がないことを、嫌というほど突きつけられた。
そんなことはないと胸の内で叫んでみてもどうしても確信が持てない。
別に黎から拒絶されたわけではない、自惚れかもしれないけど好意を向けてくれていると思える様な言動だってそれなりにあった。
それなのに黎が自分の事をどう思ってるのか亜香里には解らない。
やっぱり黎に取って自分はなんて事ない他人でしかないんじゃないか? そんな考えが頭から離れない。
不安は今までずっと、喉に引っかかった魚の骨みたいに亜香里の中に蟠っていた、それを振り払う様に色々頑張ってきたつもりだったけれどあまり意味はなかったみたいだ。
我ながら不思議に思う、どうしてこんなにも自信を持つことが出来ないのか。
単に天才彫刻家春夏冬黎という存在に気後れしてしまってるからなのか、ただの凡人でしかない自分を卑下してしまってるからなのか、それともその両方か。
いくら考えたところで気が滅入るだけで答えは出ない。
亜香里はスケッチブックを閉じると席を立って片付けを始めた、これ以上粘ったところで何も描けそうにない。
白紙のキャンバスを倉庫にしまい作業用のツナギを着替えて共同アトリエの外に出ると冷たい風が吹き抜けて思わず首がすくむ。
どことなく世界から元気がなくなってしまった様に見えるのは季節が冬になったせいか、それとも亜香里自身の気持ちが落ち込んでいるからだろうか。
色が抜け落ちてしまったような景色の中を歩いて寮へと戻る、部屋の前で鍵を取り出し扉を開ける。
「ただいまー……」
返辞はなく声が暗い部屋の中にむなしく響く、なんとなくそんな気はしていた。
あの日から黎は少し前とは打って変わってアトリエに籠もりがちになった。
時々帰ってきてはいるけれどそれもほんの少しの間だけ話をすることも殆どない、元々黎はそれほど口数が多い方ではないし亜香里も何を話せばいいか分からなかった。
あれからアトリエを尋ねる事もしていない、最後に顔を合わせたのはいつだったろうか? 二日だったか三日だったか。
ちゃんとご飯は食べてるのだろうか? お風呂はどうしてるんだろう、そもそもあのアトリエにはまともな寝具があるんだろうか?
そんなまるでお母さんみたいな心配が湧いてくきて思わず苦笑が漏れる、そんなに心配なら自分で様子を見に行けば良いのに。
だけどどうしても足が竦む、そんな事をする権利が自分にあるのかもう分らなくなってしまった。
「……ご飯どうしよう」
それほどおなかは空いていなかったが、何か食べなければという使命感に押されて夕食の献立を考えようとするがどうにも頭が回らない。
結局夕食はここ数日ヘビーローテーションとなっている買い置きのカップ麺で済ませることにした。
適当にお風呂を済ませて歯を磨いて床に付く。
ふと、今日何したっけ? と思い思い返そうとしてみるが何も記憶がない、ここ数日ずっとそんな調子だった。
「だめだめだめっ! こんなじゃ」
鬱々とした気持ちを無理矢理上向かせ横になっていたベットから飛び起きる、このままではまともに寝ることも出来ない。
絵を描こう、モヤモヤしたり考えが纏まらない時はいつもそうしてきたじゃないか。
アトリエでは上手くいかなかったけれど油絵じゃなくスケッチやクロッキーならちゃちゃと描ける、ちゃんとした物じゃなくてもいいとにかく何でも良いから――。
空元気をフル回転させて亜香里はいつも使っているトートバックからスケッチブックを取り出そうとして……して……。
「あれ? ない」
バックの中を何度あさってもひっくり返してもスケッチブックが見当たらない、一体どうしてと一瞬混乱するが冷静になれば考えるまでもない。
今日は講義もなく行ったのは共同アトリエだけ、となればもう答えは自ずと見えてくる。
「忘れて来ちゃったか……」
そう気づいた途端どうにか絞り出していた空元気も在庫が切れた、力なく床に寝っ転がって立ち上がる気力も湧かない。
忘れてきたというなら明日とりに行かないと、そう思ったがそう言えば今日は金曜日だ明日は休日でアトリエは閉まっている。
休日でも当直の事務員さんお願いすれば開けて貰うことは出来るだろうけど――。
「面倒くさいな」
ポロリとそんな言葉が口から漏れた。
なんだか私が黎になっちゃったみたい。
そう思ったらなんだか可笑しくて、亜香里は寮の部屋で一人乾いた笑みを浮かべた。
翌朝、相変わらずどうにも気力が湧かないこのまま二度寝してしまいたい衝動にさいなまれるが、それでも亜香里はベットに生えた根っこを引きちぎる気分で無理矢理立ち上がり朝の支度を始めた。
それは別にだらしない生活を送ってはいけないとかそんな生真面目な使命感から来る物じゃなくて、ただここで動かないと本当にもう二度と動けなくなるような、そんな気がしてそれが怖かった。
相変わらず気力は落ち込んだままだったがそれでも日々根付いた習慣というのは大した物で、どれだけ気落ちしていてもいざ初めてしまえば体はよどみなく動いていく。
身だしなみを整えご飯を作り、食器を片付けて歯を磨いて掃除をして二時間ほどで朝の仕事を終わらせてしまった。
さて、この後どうしよう。
このままではいけない事は分かってる、どれだけ落ち込もうが時は勝手に過ぎていく、こうしていてもただ時間を無駄にするだけで何の意味もない。
漠然とした焦りを感じるが、でもじゃあ一体何をすれば良いのか……。
考えていたら、ふと黎と初めて会ったときの事を思い出した。
あれはまだ亜香里が入学する前、寮で初めて顔を合わせた時のことだ。
まだ会って数分のほぼ初対面だった亜香里を一人この部屋に置いて黎はさっさと散歩に出掛けていってしまった。
今思い出しても暴挙としか思えないような所業だが、あの頃はまさか自分がこんなことになるだなんて想像もしていなかった。
「……散歩、か」
亜香里はクローゼットを開くと、奥にしまっていたある一着の服を取り出して部屋着から着替える。
それはライムグリーンのワンピース、夏休みに行ったブティックで黎が亜香里に選んでくれた物だ。
さすがに夏物であるその服を今の時期に着るのは自殺行為に等しいので、きっちり厚手の冬用インナーとと上にはコートを着込む。
バッチリ防寒対策をしてから。亜香里は部屋の外へと出てどこへともなく歩き出す。
行く当てがあるわけじゃない、ただなんとなく散歩に出掛けてみることにしたのだ。
目的も理由もなく黎がそうしていた様にただその辺を歩いてみたくなった。
後から思えば、もしかするとそうすることで少しでも黎の考えてることを分かるんじゃないか? そんなことを無意識に期待してたのかもしれない。




