第30話
その日、亜香里は次の作品は一体何を書こうかと頭の隅でぼんやりと考えていた。
以前道長に言ったように今度描く絵は進級制作として提出する予定だ。一年間の集大成とも言える絵の題材、さすがに簡単には決められない。
「……ちょっと、アトリエに行ってくる」
不意に黎がそう言ってふらりと立ち上がる。それだけで彼女が作品制作へ向かおうとしている事が亜香里には分かる。
「あっそれなら今日お弁当作って持って行こうか?」
「ん、分かった待ってる」
そうして玄関の方へと向かっていく黎を見送るために亜香里がついて行く。
別に頼まれた訳でもないのだが、やりたいから出掛けていく黎を亜香里は何時もこうして玄関まで見送りに行く。
「いってらっしゃい、また後でね」
「うん、また後で」
そう言って黎が亜香里へその顔を寄せる、キスをされると思ってつい目を瞑り身構える。出掛け際黎が頬や唇に軽い口づけをしてくることは良くあることだった。
キスと行っても洋画とかでよく見る挨拶としての軽い物ではあるのだけど、亜香里にはまだそれを平然と流すことは出来なくてつい身構えてしまう。
ただ今回はなぜだかいつまで経っても黎の唇が亜香里に被弾することはなく、あれっ? と思いつつ瞑っていた目を開けてみれば既に玄関の戸を開けて外へと出て行く所だった。
結局そのまま黎はアトリエへと出掛けて行ってしまい、亜香里は一人ぽつんと玄関に取り残されてボッと顔が熱くなった、恥ずかしさで。
「な、なんなのよもうッ」
これじゃ私が期待してたみたいじゃん!
八つ当たりに閉じられた扉を恨みがましくにらみ付け後、プリプリしたまま踵を返して台所へ向かい早速お弁当作りに取りかかる。
何を作るか食材の在庫を思い浮かべながら思案して、そう言えば昨日六枚切りの食パンを買った事を思い出したのでサンドイッチを作ることに決定。
具材は王道のハムとレタスにトマト、後は卵サンドを後は冷凍していたベリージャムがあったはず、等と献立を考えながら具材を用意していく。
……そう言えばこうしてお弁当を用意するのは随分と久しぶりの様な気がした。
確か最後に黎が作品制作に向かったのは十月の終わり頃だったはずなので、もう一ヶ月ほど前の話になる。
元々不定期で期間が空いたり空かなかったりしていたが、これほど間が開くことは流石に珍しい。
どうしてだろう? 一瞬思ったが黎の事だし大した意味なんてありはしないだろうと思い胸に浮かんだ疑念はすぐに霧散して亜香里は目の前の作業に集中していった。
お弁当を作り終えたのは午後十二時少し過ぎた頃、お昼ご飯にはちょうど良い時間だった。
出来上がったお弁当を持って黎が待つアトリエへと向かう、天気は晴れているのに冬の気配が強くなりつつある景色は夏の頃と比べると少し寂しげに見えるのはどうしてだろうか?
肌を撫でる風が心なし何時もより冷たく感じて、亜香里は上着の前を手で軽く締めた。
端から見ると二階建てのマンションみたいな貸しアトリエ棟の二階、向かって一番奥の黎のアトリエの前に立ちそっとその扉を開ける。
隙間から中を覗いてみれば、アトリエの中央で黎が何時もの様に石材を静かに見据える姿が見えた。
邪魔をしないようにそっと扉を開いてアトリへの中へと踏み入る亜香里だったが。
「あっ! 亜香里、いらっしゃい」
「えっ、あっごめん」
中へ入った途端、黎が亜香里の存在に気がついて振り返って来て思わず意味もなく慌てて謝ってしまった。
何時もならすぐには気づかずそのまま小一時間くらい作業に没頭する事だって珍しくないのに。
違和感を感じながらも亜香里はアトリエの中へと入り黎のすぐ隣へと腰を下ろして、持ってきたお弁当を広げた。
「おお、今日はサンドイッチだ~いいね」
黎は頂きますと手を合わせるのももそこそこに、卵サンドを手に取って小さな口で一口囓って。
「……美味しい」
そう一言呟いて、黎はモクモクと卵サンドを咀嚼していく。
亜香里もハムとレタスのサンドイッチを手に取りながら何気なく、さっきまで黎が見つめていた作りかけの彫刻を見た。
それは正直まだ彫刻と言うにはおこがましい程原形をとどめていて、殆どいやもしかしたら全く手を付けられていないように見えた。
やっぱり変だ、ここのところらしくない言動が目立っていたが今日は特に不自然だ。
一体どうしたんだろう? 老婆心だとは思いながらもどうしても疑念と心配が胸の中でムクムクと無視が出来ないくらいの大きさになっていく。
「ねぇ黎? その」
なんて聞くべきが言葉に詰まる。ここのところ変だよ? というのはなんだか直接的過ぎる気もしたし、一体なんて言った物かと考えて。
「……最近何かあったの?」
結局そんな漠然とした質問しか出てこなかった。
「……何かって、どうして?」
「えっと、最近の黎なんだか何時もと違う気がして、いやそれが悪いって言いたいんじゃないの、ただなんだかその……無理していない?」
ただらしくないと言うだけだったら心配なんてしなかったかもしれない、だけどここ最近の黎からどことなく焦り様な物を感じていた。
何に対して焦っているのか、何をしようとしているのか、何が原因でそうなってしまったのかは分からない、分かったところで亜香里にどうにか出来ることではないのかもしれないけれど。
「心配な事とか言いたいことがあるなら言ってみて欲しい、余計なお世話なのかもしれないけどでも……私も黎の力になりたいから」
そっと黎の手に自身の手を重ねぎゅっと強く握る、胸の内にある思いが少しでも伝わる様に彼女の綺麗な琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめる。
すると黎の瞳が一瞬まるで逃げるみたいにスイッと横に逸れて。
「別に大した事じゃないよ全然。でも、そうだね言わなきゃいけないことはあるかな」
そらされていた瞳が戻ってきて、そして――。
「わたしね、Papyの所に行くことにしたから」
本当になんてこともない、世間話でもするみたいに放たれた一言。
その意味を亜香里は分かりたくなかった。




