第28話
次の日、学食でお昼ご飯を食べ終えた後絵を描くために亜香里は共同アトリエに来ていた。
アトリエ奥の倉庫で作業用のツナギに素早く着替えると絵の具一式とイーゼル、描きかけの絵を持ち出し油絵科の生徒で芋洗い状態の共同アトリエの中をかき分け進む。
どうにか空いてるスペースを見つけ準備をするなり亜香里はさっそく昨日黎から貰った筆のセットを取り出した。
折角綺麗な筆に絵の具を付けるのはなんだかもったいない気がしてしまうけれど、かといって使わないのはもっともったいない亜香里は覚悟を決めて筆に絵の具を乗せてキャンパスに奔らせた。
豚毛の筆は堅くて腰が強いのが特徴だが黎から貰った筆は堅すぎず柔らかすぎずで描きやすく、何時もより力強いタッチで絵の具を乗せる事が出来る気がした。
「斉藤さん、これよかったら」
掛けられた言葉と同時にペットボトルの緑茶が目の前に差し出される、だれだろうとその手を辿っていけばそこには見知った先輩の顔があった。
「ありがとうございます、道長さん」
「いいのいいのお茶一本くらいで、先輩後輩のよしみじゃない」
そう言ってニッと少年の様に笑ってみせたかと思うと道長は「あれ?」と声上げた。
「斉藤さん筆変えた?」
「えへへ~実はそうなんですよ」
黎から貰った筆を自慢したくて眼前に翳して見せる。
「へぇ結構いいやつじゃないか思い切ったね、確かこれ一本千円くらいしたと思ったんだけど」
「あっやっぱりそうなんですか? 実はこれ、その……知り合いがプレゼントしてくれたんです」
黎の事をなんて言った物かと少し悩んでしまい妙な間が出来てしまったが、道長は特に気にしていない様子だった。
「そっか、それは嬉しいよね。それはそうと――」
言いながら亜香里の絵に視線を向ける。
「大分形になったんじゃない?」
「はい、後もう少し手を加えて細かい仕上げをしたら完成にしようと思ってます」
「さすが、夏休み明けに三作目絵を描き上げたと思ったらもう四作目も完成か」
道長からの称賛にまんざらでもないリアクションをしながら亜香里は自身の作品へ改めて視線を向ける、そこにあるのは黒く塗ったキャンパスにぽっかり浮かんだ七色に光るクラゲの絵。
タイトルは【思い出】キャンパスの上に描かれたクラゲの色はそれぞれあの日黎と行った場所や思い出を表現している。
「いや~夏休み実家にも帰らず描いた甲斐がありました」
「頑張ってたもんね。これは進級制作にだすの?」
「うーんそれでも良いんですけど、進級制作はこれとは別にもう一枚描くつもりですまだ何を書くかは決めてませんけど。そう言う先輩はどうなんですか? 進級制作」
受け取った緑茶の蓋を開けながら尋ねると道長が別の場所へ視線を向けるのでその後を目で追うと、そこには亜香里がよく使う四号サイズよりもずっと大きなキャンバスに描かれた道長の作品がある。
「いつ見ても圧巻ですよね二百号。文字通りスケールが違いますよね、スケールが」
「ほんとにね、でも描いてみるとこうして見てる以上に広く感じるよ、描いても描いても終わらないし絵の具の量も半端ないし重くて運ぶのも苦労するしでもう大変だよ」
そう愚痴っぽく話す道長だったがその声はどことなく楽しそうに聞こえる。
「だけどこんなでかい作品は美大でもないと書けないし、卒業前に一回は挑戦したかったんだよね」
「そうですよねー、私もその内挑戦してみようかなぁ」
「おっ! やる気? いいじゃんいいじゃんやってみなよ、死ぬっっっっ程大変だけど」
「ちょっと、やめてくださいよそんな脅かす様な事言うの」
「ごめん、ごめん」
そんな事を言って道長がまた笑うので亜香里もつられて笑う。
正直こうして道長と話しているのは楽しい、馬が合うのか人柄のせいなのかつい気が緩んでしまう、だからついポロッと、そんなことを話題に上げてしまったんだと思う。
「あの、道長さん。実はちょっと相談したい事があるんですけど」
「相談? いいよ何でも聞いて、俺に答えられる事ならいいんだけど」
「ありがとうございます……実は最近知り合いの様子がおかしいと言うか」
その知り合いとは言うまでもなく黎の事だ。
朝食を作ってくれたあの日以来、黎は今まで亜香里がやっていた家事や仕事を自分でもやろうと積極的になっていた。
そのこと自体は微笑ましくて良いことではあったのだけど、悲しいかな黎は絶望的なぶきっちょで要領が悪かった。
洗濯をすれば洗剤と漂白剤を間違え衣類を脱色し、掃除をすれば掃除機のゴミをぶちまける。
今までそう言った事に一切興味を示さなかったんだろう、慣れていない事は見るからに明らかでしかも根がものぐさだからか判断がいちいち大雑把で詰めが甘い。
正直その手際は小さかった頃の弟たちの方がマシなレベルで、手伝ってくれているのにむしろ亜香里の仕事量は前より増えたくらいだった。
でもそれはいい、いや良くは無いがそれ以上に亜香里が気になったのは黎はどうして突然こんなことをしようと思ったのかと言うことだ。
今まで黎が家事をすることなんて殆ど無かった、それは亜香里が頼むことが無かったからでもあるのだがそれにしたって自分から申し出てくるなんて考えられなかった。
それが一体どうしてこんなことをしようと思ったのか、本人に聞いてみても「なんとなく」としか答えてくれない。
実際ただの気まぐれでしかないのかもしれないし、悪いことをしてるわけじゃないんだからそっとしておいてあげればいいじゃ無いかと言われればそれまでなんだけど、それまでなんだけども……。
「あっ! すいません。いきなりこんな話聞かされて困りますよね」
「いやいや、困るって事は無いけどさ、でもどうして急にそんな話を?」
「いやえっとですね。別に理由とかはないんです、ただ道長さんと話してるとなんとなく歳の近いお兄ちゃんと話している様な気分になるというか、いや兄も姉もいたことないのであくまで想像なんですけど、ごめんなさい」
「謝らなくていいって、お兄さんみたいって事はそれだけ頼りにされてるって事だろ? 素直に嬉しいよ……先輩としてはね」
道長が不躾な質問に気を悪くした様子が無くてひとまずホッとする、ただそれはそれとして一度口に出してしまった以上この際色々相談したいという欲が出てくる。
「それで、道長さん的にどう思います?」
「どう思うって言われてもなー、うーん」
道長が困った様な顔をする、やっぱり無茶が過ぎたかと不安が過るが道長は困った様な顔のまま「月並みな質問だけど」と言葉を続ける。
「……様子が変って話だけど具体的にどんな感じなの? その人は」
「えっとそれは、そうですね……」
道長から投げられたその質問に、亜香里も改めて考えてみる。
「具合が悪いとかではないと思うんです。ただ何時もやらないような事をやろうとしてて、それは別に悪い事じゃないんですけど、でも」
「心配?」
まるで心を読まれたようなタイミングの一言にいつの間にか下を向いていた頭を上げると、見守るような優しい瞳と目が合った。
「…………ねぇ、斉藤さん? ひょっとしてだけど、その人の事が好き?」
突然言われたその一言に亜香里の頭中は!マークと?マークに埋め尽くされる。
盛大に動揺して言葉が出ない亜香里を見て道長がまた可笑しそうに笑った。




