第21話
「ねぇ? 今度散歩に行くときはすこし遠出をしない?」
夕食を食べ終わって食器の片付け等が一通り終わった頃合いで、亜香里は座卓を挟んで座る黎に思い切ってそう切り出した。
「遠出?」
「うん、せっかくの夏休みなんだし少しは遊びに行かないともったいないかなって」
とにかく何か行動を起こさなければと思い立ち、亜香里が考え捻り出したのがこれだった。
少し前から黎と散歩に出る様になったけれど、それも精々寮から三十分くらいの範囲をフラフラするだけであまり外出という感じはしない。
だから少し遠出をして普段とは違う場所へ行けば何かのきっかけくらいにはなるんじゃないか? そう思っての提案だった。
それに何より折角の夏休み、一回位それっぽい思い出を黎と作りたいという思いも少し。
だけど基本的に出不肖で面倒くさがりの黎がどう思うのか不安ではあった、面倒くさいから嫌って言われたらその時は諦めるつもりだったけれど。
「うん、いいよ。どこ行くの?」
「えっ、いいの?」
「なに? わたし何か変なこと言った?」
「変なことは別に言ってないけど、ただ黎はもしかしたら嫌がるかなと思ってたから、遠出すること」
「嫌がったりなんてしないよ、ひどいなぁ」
「だって黎って何でも感でも面倒くさがるじゃない、食べ終わった食器はそのままにするし、服だって脱ぎっぱなしだし、歯磨きだって言わないとサボろうとするし――」
おっといけないついつい日頃の愚痴が零れてきてしまった、今はそういう話をしたいんじゃない。
「とにかく! 何時もはそんな感じだから遠くに出かけるなんて嫌かなって」
「うーん、そう言われると確かに少し前のわたしだったら嫌がってたかも」
「少し前って、今は違うの?」
「さぁ? 正直わたしにもよく分かんない――だけどそうだな」
黎の琥珀色の瞳が亜香里を見てふっと微笑む。
「もしかしたら、亜香里と一緒に出かけるのが楽しいのかも」
悔しい、こんなことを言われただけで嬉しくて舞い上がってしまいそうになる自分が悔しい?
「そうやって適当なこと言ってさ」
「嘘はいってないんだけどなぁ、適当なのは否定しないけど」
それから二人でどこへ行くかの相談をした、とは言っても黎はどこへ行きたいとかそういうのは無いみたいで結局殆ど亜香里が決める事になった。
それでも、こうやって二人で出かける約束をするのはなんだか恋人とのデートみたいで少しだけ心が躍る。
黎の散歩に付いて行くときはそのどれもが突発的でこうして前もって一緒に出かける約束をするのは今回が初めてだ。
「楽しみだね」
話の中でついそんなはしゃいだ様な事を口にしてしまったけれど、黎は「そうだね」と言って返してくれた。
その日が来たのは二週間と少しが経った八月の終わり頃、作品制作のため一週間近くアトリエに籠もっていた黎が帰ってきた翌日の事だ。
「ねぇ、今日行くんでしょ?」
「! 分かった、準備するね」
言われるやいなや亜香里は素早く出かけるための準備を始めた。
部屋着から今日着ていこうと決めてていた服に素早く着替えお化粧も手早く済ませる、あんまり時間を掛けて気まぐれな黎の気が変わったら大変だ。
「お待たせ、準備できたよ」
「そう、それじゃあ行こっか」
「あっ待ってその前に」
今にも玄関の取っ手に手を掛けようとしていた所を引き留めると、黎は少し怪訝な表情で振り返る。
「この前はうっかりしてたけど、日焼け止め塗らないとほら黎も」
「えぇ、いいよ普段塗ってないんだし」
「だーめ! お化粧しろなんて今更言わないけど、黎せっかく白くて綺麗な肌してるんだからもったいないよ」
普段なら多めに見る所だが今日は少し遠出になる、UVケアくらいはしっかりしておかないと。
「いいて、別にわたしは焼けようが何しようがどうでもいいし」
「そんなこと言わないの、そんなに手間でもないんだからさ、ほら」
「むぅ……分かった、それなら亜香里が塗ってよ」
「えっ! なっ! なっなにを訳分からないこと言い出すの!」
「だって自分で塗るの面倒くさいし、そこまで言うなら亜香里が塗ってよ、ほら、んっ」
そう言って黎は目を瞑り、その綺麗な顔を差し出してくる。
また突拍子もないその行動に思わず気持ちが後じさる亜香里だったが、そこでぐっと堪えて負けるもんかと反骨心を燃え上がらせる。
「……分かった、やってやろうじゃない、塗ってあげますとも」
覚悟を決めて亜香里はクリームタイプの日焼け止めを手の甲にだすと、指先で適量をすくい取って黎の顔へ触れた。
「んッ」
冷たかったのか黎がくすぐったそうな声を上げるが亜香里はそれを無視して、頬や顎先そして額と適当な位置にクリームを付けていく。
「んんっ……くふっ……」
「こら! 動かない」
「だって、なんだかくすぐったくってさ」
時折小刻みに動く黎に苦心しながらも要所に付けたクリームをムラの無いように丁寧に優しく指先で塗り広げていく。
普段あまり外に出ないからなのか、それとも単純に体質なのか黎の肌白くて綺麗で、女として少し嫉妬すると同時につい惚れ惚れしてしまう。
何時も私はこの肌に触ったり爪を立てたりしてるんだよね……ってオヤジか私は!
つい淫らな事を考えて顔が赤くなる、しかもそのせいでさっきまであえて気がつかない様にしていた事が無視できなくなってくる。
クリーム塗ることに熱中するあまりいつの間にか鼻先がぶつかりそうな程近くに黎の顔がある。
無防備に差し出されてそれに触れながら、こうして撫で回している今の状況ってもしかして思った以上に結構アレなのでは?
そんな事が頭を過ったその時、閉じていた黎の瞳がパチリと開く。
ド至近距離で目が合った亜香里はザリガニもびっくりな速度でバックステップをかまし黎から距離を取った。
「どうしたの?」
「いや別に何でも――はいっ! サービスはここまでです! 後はお客さんが自分で塗ってください!」
「えぇーここまで来て? 最後までやってよ」
「いやそれはムリだから。ここまで塗ってあげたんだかわがまま言わないの」
「むぅ~、まぁいいけどさぁ」
不満そうにぶつくさ言いながら黎は自身の両手を使ってワシャワシャと雑に残っていたクリームを顔に塗り広げていった。
ああ~せっかく丁寧に塗ってたのに。
賽の河原で積んでいた小石を鬼に崩された様な絶望感に亜香里はがっくしと肩を落とすが、自業自得なのだからさすがに文句を言えるわけもない。
「なんだか私、黎と一緒に暮らすようになってからどんどんオヤジ化が進んでる様な気がする……」
「? 何の話」
「いい、話したくない」
そんな多少のすったもんだのすえ二人はようやく寮の外へ出る。
玄関の扉を出て戸締まりを確認したところで亜香里はすぐに黎の手を取った。
初めて一緒に散歩に出かけたあの日以来、玄関を出てすぐ二人で手を繋ぐことがなんとなく慣例になってしまっていた。
最初は黎から手を繋いでくるばかりでその度に照れくさい気持ちにさせられていたが、その内だんだん悔しくなって亜香里の方からも手を繋ぐようになり今ではお互いに隙を窺ってちょっとした競争みたいになりつつある。
とはいえまだ亜香里の方は手を繋ぐ事に照れはあるし、恥ずかしいから手を繋ぐのは人目が少ないところでだけだけど。
「じゃ、行こ」
そうしてどちらともなく繋がれた手を引いて、二人は歩き出した。




