第20話
八月も半ばが迫り、いよいよ夏休みも終わりが見えてきた頃。
照りつける太陽光が殺人光線かと見まがう程の熱波を放つようになって久しいが、今日も亜香里はお弁当を片手に黎のアトリエに向かう。
貸しアトリエ棟にある黎のアトリエの前で軽く汗を拭い、預かっていた合鍵で邪魔をしないようにそっと扉を開くと隙間から心地いい冷気が吹き抜けて生き返る様な気分だ。
「……お邪魔しまーす」
声を抑えてアトリエの中を窺うといつもの様に作業中の黎が静かに石材を見つめている。
後ろ手にそっと扉を閉める、集中した黎はアトリエの中に入ってきた亜香里の存在に気づかずその視線は目の前にある石材から動かない。
邪魔をしないよう亜香里は音を立てず黎から少し離れた場所に腰を下ろした。
あえて声を掛けるような事はしない、邪魔だけはしたくなかったし何よりこうして黎の作業を見ているのが好きだからこれでいい。
そうして三十分とちょっと時間が経って、集中力が切れたのか軽くノビをしたところで黎の視線が亜香里のことを見た。
「あれ? 来てたんだ」
「うんちょっと前に、お弁当もってきた」
「何時も声かけてくれればいいのに」
「いいの、それより休憩するならお弁当食べない? もう結構いい時間だよ」
「変なの……まぁ亜香里がいいって言うのならそれでいいけど」
作業を中断した黎と持ってきたお弁当を広げる、アトリエにはテーブルがないので床に直置きだがピクニックみたいで亜香里は密かに気に入ってたりする。
お弁当の内容は作業しながらでも食べられるようにと俵方のおにぎりが五つずつに、昨日の夜に付けておいたキュウリの浅漬けが数枚。
「……あっ、筋子だ。他には何があるの?」
「おかかに昆布、後は鮭フレークが二つ」
「そっか、美味しいね」
「そう? 良かった」
期待するだけじゃない自分から黎に好きになってもらうんだ。そう意気込んでから早二週間、それから何か進展があったのかと言われるとイマイチ手応えがないのが実情だった。
何もしていなかった訳じゃない、こうしてお弁当を作ったりお喋りをしたり、散歩にだってあれからも何度か二人で一緒に行ったりして、前よりも積極的になったと思う。
でもそのどれもが結局以前からやっていたことの延長線上で前より距離を縮められたかと言われると実感はない、そもそも好きになってもらいたいと言っても具体的に何をどうすればいいんだろう。
今までに二人お付き合いをした相手はいた、でも二回ともお互いなんとなく付き合うことになってなんとなく別れる様な緩い交際だった。
はっきり言って亜香里には今まで本気で誰かに好かれようと思って努力した事はない、だから引き出しがなくて早々に手詰まりになる。
現状の幸せに甘んじて流されるような事はしないと誓ったけれど具体的な行動に移せる訳でもない、そんな漫然とした日々が過ぎていく。
それで不都合があるわけでもないのだけれど、これでいいのかな? と言う漠然とした焦りみたいなものを感じないと言えば嘘になる。
「亜香里?」
「えっ?」
いつの間にやら思考に没頭していた意識が黎の声で引き戻された。
「ごめん、どうかした?」
「うん? どうしたって、ただご飯粒付いてるよって」
「えっ? どこどこ」
言われて亜香里は自身頬を手探りで触って見るがそれらしきものが取れた気配はない。
「……ちょっと動かないで」
その時、スッと自然な動きで黎が顔を寄せてきて亜香里の体が思わずガチリと強張る。
「えちょ、急に」
「いいから――」
その間にも黎との距離はどんどん近づいてあわや接触しそうになったその時、亜香里は堪えきれなくなってぎゅっと目蓋を閉じてしまった。
柔らかくて暖かい感触が口元に触れる、そこから伸びた舌が亜香里の唇そのすぐ横をちろりと優しく舐め上げられる。
ビリビリと背筋に電流が走るような生々しい感触が目を閉じたせいでより鮮明に感じて、亜香里の体はますます強張る羽目になった。
「……うん、大丈夫ちゃんと取れたよ」
「ふ、普通に取ればいいでしょぉ、普通にさぁ」
「だってわたしもちょうどお握り持ってたし、こっちの方が早かったから」
「早かったって……。変な横着しないでよ、もぅ」
そうやって遺憾の意を示してはみるけれど、その声は我ながらヘロヘロで勢いがない。
大層な決意をしくせに結局こうやって黎にドキドキさせられるばかりで、こんな調子で本当にいいの私?
いいやよくない! 何か、なんでもいいから行動を起こさなくてはッ!
心の内でそんな決意を固める亜香里だったが、さっきの後遺症でまだ強張った体ではリスみたいに黙々とお握りを囓ることしか出来なかった。




