第16話
少しして、亜香里の通う大学は夏休みの時期を迎えていた。
この時期は実家へと帰る生徒が多く校内も閑散として、なんとなく寂しげな雰囲気が漂ているような気がしてしまう。
亜香里も母親から実家に帰ってくるのか確認の電話があったが今年は帰らないと返事をした。描いていた作品も完成して次に何を書くか考えたかったし、正直に言えば黎も寮に残ると聞いて二人で過ごしたかったのもある。
そんな訳もあって夏休みは寮で過ごす事に決めた亜香里だったが、夏休み中は講義も無いので大学では絵を描く以外やることはなく、結果として平常時よりも時間を持て余すことが多くなった。
せっかくの夏休み何か普段とは違う事もしたほうがいいだろうか、そんなことを思っていたある日。
「あれ? どこか出かけるの?」
「ん? お散歩」
徐に玄関の方へと向かっていた黎に声を掛けるとそう返ってきた。
黎は作品作りの為アトリエにいるとき以外、日がな一日何をするでもなくぼんやりと寮で過ごしていることが多い。
何もしないにしても普通ならスマホで動画を見るなりテレビゲームをするなり漫画を読むなり、何かしら趣味や暇つぶしに興じて過ごすのだろうが黎の場合は本当に何もしない。
ベットの上でゴロゴロしたり、ソファの上でぽーっとしていたり、偶に亜香里と話をしたりお菓子を食べたりするがそれくらいだ。
退屈したりしないのかと前に一度聞いたことがあるのだけれど本人は「別に」と特に気にもしていない様子だった。
この人は一体今までどうやって生きてきたんだろうと、亜香里は常々思う。
そんな黎だけれど時折こうして散歩に出かける事がある、頻度はまちまちで帰ってくる時間も日によって違う。
一時間もしない内に帰って来ることもあれば日が落ちてあたりが暗くなるまで帰ってこない事もあり、毎度のごとく気まぐれだが出かけた先で一体何をしているのか亜香里はしらない。
自分が暇を持て余していたと言うのもあるのだろう、急に興味がふつふつと胸の内に湧いて来て抑えきれなかった。
「あのさ、私もついて行っていい?」
突然そんなことを言われた黎が驚く様な顔をする、ひょとして嫌だったかなと今更不安になるが。
「いいよ、一緒に行こうか」
黎がいいよと言ってくれた、そのことが自分でも意外な程嬉しくて亜香里は自身の気持ちが高揚していくのをはっきりと自覚できた。
「じゃあちょと待ってて、今準備してくるから」
「えーただ散歩行くだけだよ。準備なんて別にしなくたって」
「いいの! むしろ黎だって少しくらいお化粧とかしたらどうなのさ」
勢いでついそう言ったがすぐに聞いたことを後悔した、だってその答えは考えるまでもなく分かりきっている。
「いいよわたしは、面倒くさいし」
あーはいはいあなたはそうでしょうとも、聞いた私が馬鹿でした。
胸の内でやさぐれながらも亜香里はクローゼットを開きあれこれ吟味したあげく、淡い空色のTシャツにベージュのカーゴパンツを選んで脱衣所へと飛び込んだ。
部屋着から手早く着替えて軽く化粧もする、途中まだかと黎から催促が掛かるが待ってもらった。だってせっかく黎《好きな人》とのお出かなんだから、ちょっとくらいおしゃれもしたい。
着替えと化粧を済ませて脱衣所を出る、黎はなんだか待ちくたびれた様子だったが亜香里としてはこれでも大急ぎで準備をしたつもりである。
部屋を出てドアの鍵を閉めしっかりと戸締まりをしたことを確認する、うん問題なし!
「それじゃあ行こ」
そう言って、黎の手が何気なく亜香里の手を取った。突然の事に驚いて思わず変な声が出そうになったのを必死にこらえる。
「あっ、え、きゅっ急にどうしたの?」
「どうしたのって? これから一緒に散歩へ行くんでしょ?」
「いや、そうだけど、そうじゃなくって、そのぅ……手……」
「せっかく二人で出かけるんだもん、こっちの方が楽しいかなって亜香里は嫌だった?」
「別に嫌って訳じゃない、けど……ちょっと恥ずかしいかなって」
「そ? わたしは気にならないよ」
そう言って黎が亜香里の手を引いて歩き出す。
恥ずかしい、手汗大丈夫? 様々な考えや感情の断片が湧いてきては言葉になる前に流されていく。
正直訳も分からず握られた手を振り払ってしまいたいという衝動に駆られるが、この手を離したく無いという思いが僅かに上回ってどうにか堪えられた。
黎の手は心配になるほど細くて他の人よりも少しだけ冷たい、だけと長年彫刻を彫っているからなのか少しだけゴツゴツしてるところもあって――そんな感触を繋がれた掌から感じて自分の頬が少しだけ熱くなるのが分かる。
……一体どういうつもりで、こんなことをしているんだろう?
やることやっておいて今更手を繋いだくらいで何を言ってるんだと言われるかもしれないけど、それでもつい考えてしまうのだ。
だって黎は元々抱きついたりくっ付いたりそう言った何気ないスキンシップが好きで、普段からこういうことを平気でしてくる。
きっとこれは彼女にとって何も特別な事じゃない、もしかしたらあの夜のことも全部亜香里が勝手に舞い上がってるだけで黎からしたら大した意味なんて無いのかもしれない。
少しは近づけたよう様な気もしていたけれどそんなものはただの勘違いかもしれない、黎にとって自分がなんなのかそれは未だにはっきりしない。
でも、だけど、こうして触れられる度、キスをされる度、どうしても少しだけ期待してしまうのだ。
今この時この瞬間、心臓が弾けるじゃないかと思うほどドキドキしている様に黎もドキドキしたりしてくれてるんだろうか?
そんなことをつい夢想する、直接確かめる度胸もないくせに。
――ねぇ黎? もし今私が好きだよって言ったらあなたはどんな顔をするのかな?
口には出せない言葉を胸にしまいながら、亜香里は繋がれた手をそっと握り返した。




