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異界の窯焚き ~窯業作業者は、二つの世界を還す~  作者: もしものべりすと


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第九章 最後の窯、最後の焼成

火入れから、半刻が過ぎた。


 炉内の温度は、順調に上がっていた。颯太は、覗き穴の前で、片膝をついた姿勢のまま、薪の投入の指図を、後ろのクェンとホブスに、短い手の動きだけで伝えていた。覗き穴の中の炎は、まだ橙だった。橙が、徐々に深い赤へ移り、それから、もう一段、暗い赤紫へ移ろうとしていた。


 地下のドームの天井の煙穴から、煙が、地上の方へ、薄く、しかし確実に、抜けていた。


 地上では、王国軍の精鋭が、王宮の南の城門の外で、帝国軍の先発隊と対峙していた。蓮見修司は、まだ、姿を現していなかった。けれど、彼の影は、戦線のあちこちで、揺らいでいた。鉄具が錆び、剣の刃が薄く赤茶色に染まり始める現象が、戦闘前の段階から、王国軍の側に、もう何度か観察されていた。


 颯太の覗き穴の中の炎は、深い赤紫を、抜けた。


 次の段階に、入る。


 颯太は、自分の右手を、空気孔の蓋に伸ばした。


 弟子のターナが、彼の隣で、薪の太さを、彼の指の動きに合わせて、選り分けた。マルディが、釉薬の調合の最終確認に走った。クェンが、煙突の根元の煤の溜まり具合を、灯で照らして見た。ホブスが、薪の山の選別を続けた。


 誰一人、声を出さなかった。


 誰一人、出す必要が、なかった。


 颯太の手の動きを、四人は、見ていた。見ているだけで、彼らの手も、動いた。前職の会議室では、誰も、誰の手も見ていなかった。会議の席では、声を出した者だけが、評価された。ここでは、声を出さない者の手のほうが、頼りにされた。


 颯太は、空気孔を、わずかに、引いた。


 炉の中の炎が、白くなった。




 還元の工程に、入った。


 壁面の古代文字が、炉から漏れる赤い光を受けて、一瞬、文字の刻みの溝の輪郭を、立体的に浮き上がらせた。颯太は、その光景を、視界の端で確かに見た。古代の継ぎ手の民が、この壁の前で、何度、同じ光景を、見ただろうか。彼らもまた、自分の手の動きを、後ろの誰かに、見せていただろう。誰かに見せられた手は、誰かの中で、また別の手の動きになって、生き延びていく。


 颯太は、ふっと、笑った。


 笑った瞬間、彼は、自分が、十二年ぶりに、笑った、と気づいた。


 覗き穴の中の白い炎が、わずかに、機嫌よく、息を吐いた。


 順調だ、と、彼の手は、判断した。


 判断した瞬間、彼の頭の中で、ひとつの言葉が、鳴った。


 いける。


 その瞬間だった。




 炉壁の奥で、ぱきり、と、乾いた音がした。


 音は、一回だけだった。けれど、その一回の音が、颯太の背筋を、瞬時に、貫いた。


 彼の覗き穴の中の白い炎の、外周のほんの一部分が、ふっと、薄い赤茶色に染まった。


 錆びている。


 炉壁の煉瓦の鉄分が、外側から、薄く、酸化されている。


 彼が顔を上げて、ドームの天井を見た時、煙穴の外側、地上に近い位置で、薄い赤茶色の輪が、ゆっくりと、円形に広がっていた。


 蓮見修司の、酸化魔術。


 彼は、この、地下の中央炉の場所を、正確に把握していた。把握した上で、地上の煙穴の出口を、外側から、薄く錆びさせていた。錆びは、煙突の内壁を、いずれ崩す。崩れた壁は、煙の流れを乱す。煙の流れが乱れれば、炉内の還元雰囲気は、保てなくなる。


 颯太の手は、すぐに動いた。


 動いた手は、覗き穴の前で、空気孔の蓋を、もう一段、絞った。煙の流れを、ぎりぎりまで、低く、しかし速くする。煙突の壁の崩れの影響を、ぎりぎりまで、遅らせる手だった。


 しかし、間に合わなかった。


 炉壁の煉瓦の鉄分の薄い層が、別の場所で、ぱきり、と、もう一度、音を立てた。


 その音と同時に、炉の内側で、釉薬の暴発が、起こった。


 颯太の覗き穴の中で、白い炎の、その奥のほうから、薄い赤紫の煙の塊が、こちらへ向かって、噴き出してきた。




「先生」


 ターナの声が、彼の背後で、低く、しかし鋭く、上がった。


「壁の脇」


 颯太は、振り向いた。


 炉の側面の、煙突の根元に近い小さな点検口から、薄い赤紫の煙が、外へ漏れていた。煙は、有毒だった。颯太は、それを、業界の知識として、知っていた。


 ターナは、すでに動いていた。


 彼女は、自分の上着を脱ぎ、その上着で、王女フィリスの口と鼻を、覆っていた。彼女の腕が、王女の肩を抱えるようにして、点検口の方角の、ちょうど反対側へ、王女を、押しのけていた。


 点検口から、もう一度、煙が、噴き出した。


 ターナの背中が、その煙の進路の上に、あった。


「ターナ」


 颯太は、叫んだ。


 ターナは、振り向かなかった。


 彼女は、王女の体を、もう一押し、安全な位置まで運んだあと、自分の体は、煙のほうへ向けたまま、低く、しゃがんだ。煙が、彼女の左の肩から背中へ、薄く、しかし確実に、流れた。


 ターナは、声を出さずに、その場に、崩れ落ちた。


 マルディが、走った。クェンが、走った。ホブスが、薪を抱えたまま、その薪を放り出して、走った。三人で、ターナを、点検口から、引き離した。


 颯太は、覗き穴の前から、目を、離してしまった。


 離した、その三秒の間に、覗き穴の中の白い炎の色が、崩れた。崩れた色の中央に、黒いまだらが、走った。




 彼の前で、すべてが、崩れかけた。


 空気は、もう、自分の指では、戻せない位置まで、傾いていた。煙突の壁の錆は、進んでいる。点検口からの漏れは、止まっていない。釉薬の暴発の余波で、炉内の温度の分布が、不均一になっている。


 颯太の手の中の、空気孔の蓋の握りが、わずかに、震えた。


 震えながら、彼は、覗き穴の中の、崩れる色を、見ていた。


 全てを、失いかけた。


 失いかけた瞬間、彼の中で、ひとつの一行が、跳ね起きた。


 還元は、火だけではない。


 手で焼く。


 颯太は、空気孔の蓋から、指を、離した。




 離した指で、彼は、自分の右の手のひらを、覗き穴のすぐ前に、かざした。


 炉の口から漏れる熱が、皮膚を、焼いた。


 最初の一秒、彼の皮膚は、痛みを、覚えた。


 二秒目、痛みの中に、温度の差が、彼の指の腹に、伝わってきた。


 三秒目、彼は、温度の差から、空気の流れを、読み始めていた。


 炉口の熱気は、ある角度で、彼の手のひらに、当たっていた。彼の手のひらの皮膚の、ごく繊細な毛羽の一本一本が、その流れの強弱を、別々に、伝えてきた。前職の十二年の覗き穴の前で、彼が、毎晩、知らずにやっていた所作だった。誰にも見られず、誰にも評価されないまま、彼の皮膚は、十二年、その読み方を、覚え続けていた。


 彼の手のひらが、ほんの数寸、左へ動いた。


 空気の流れの、わずかなずれが、彼の指の腹で、矯正された。


 覗き穴の中の崩れた色が、ほんの少しだけ、戻りかけた。


 戻りかけた色の縁に、わずかに、白の輪郭が、立ち上がりかけた。


 彼の手のひらが、もう一度、わずかに、上へ動いた。彼の指の関節の角度が、ほんの数度、変わった。それだけのことで、炉内の空気の流れの方向が、変わった。覗き穴の中の白の輪郭が、もう一段、しっかりした。


 彼の額から、汗が、一滴、落ちた。


 汗は、自分の手の甲に、落ちた。


 手の甲の皮膚が、熱で、すぐに、その汗を、蒸発させた。


 颯太は、瞬きを、しなかった。


 瞬きをすれば、その一瞬で、覗き穴の中の色が、また、崩れる。彼は、十二年、深夜三時の覗き穴の前で、瞬きの回数を、数えるようにして減らしてきた。誰にも、知られていない訓練だった。


 いま、その訓練が、彼の手のひらと共に、生きていた。




 その時、地下の階段の方から、足音が、降りてきた。


 革の長靴の音。


 ヴァランが、剣の柄に、手をかけた。


「あなたは、下がっていてください」


 ヴァランは、王女に、低く言った。王女は、頷きはしなかった。けれど、彼女は、足を踏ん張って、その場に、留まった。


 階段の最後の段から、黒衣の男が、姿を現した。


 蓮見修司、だった。


 地上の戦線では、王国軍の応戦が、まだ続いている。蓮見は、戦線をすり抜けて、ここまで降りてきた。少数の手勢を従えていたはずだが、彼の隣には、もう、誰もいなかった。彼は、独りで、地下のドームの中へ、進み出た。


 彼は、颯太の背中を見た。


 颯太は、振り向かなかった。


 覗き穴から、目を、離さなかった。


「桐生さん」


 蓮見は、低く笑った。


「お前みたいな現場上がりが、世界を救えるとでも?」


 彼の声は、十二年前、第二焼成棟の深夜に、彼が颯太に向けて使っていた、あの声と、寸分違わなかった。


 颯太は、答えなかった。


 答える代わりに、彼は、自分の手のひらを、もう一段、炉口に近づけた。皮膚が、もう一段、焼かれた。けれど、彼の指の腹の毛羽は、その分だけ、もう一段、深く、空気の流れを、読み始めた。


「俺は」


 颯太は、ようやく、口を開いた。


 彼の声は、低かった。


 低かったが、揺るがなかった。


「世界を救うんじゃない」


 蓮見の片方の眉が、わずかに、動いた。


「俺の前の火を」


 颯太は、続けた。


「ちゃんと、焼き切るだけだ」




 蓮見の手から、酸化魔術が、放たれた。


 黒い、霧のような線が、薄く、ドームの天井へ向かって、走った。


 それを、王女フィリスの、最後の祝詞が、受け止めた。


 彼女は、儀礼装束のまま、自分の祝詞を、低く、長く、唱え始めた。彼女の唇から漏れた音は、古代の継ぎ手の民の言葉だった。彼女の足元の石の床に、薄く、金色がかった灰の粒が、舞い始めた。


 マルディが、釉薬の調合した壺を、注ぎ口から、ゆっくりと、炉の中へ、流し込んだ。


 クェンが、最後の太い薪を、焚口に、投じた。


 ホブスが、ターナの背中を、抱え起こした。


 颯太の手のひらは、まだ、覗き穴の前に、ある。


 手のひらの皮膚は、もう、痛みを通り越して、ある種の、別の感覚に変わっていた。それは、彼が、深夜三時の覗き穴の前で、毎晩、感じていた、あの感覚に近かった。誰にも知られない、けれども、自分の指の腹だけが知っている、火と、自分の皮膚との、対話の感覚。


 覗き穴の中の崩れかけた色が、戻った。


 戻った色の中央に、白い炎が、もう一度、立ち上がった。


 白い炎の中で、古代の壺の破片が、釉薬の灰を被って、ひとつ、新しい器の輪郭を、結び始めた。




 最後の還元雰囲気が、立った。


 煙が、深い青へ。


 覗き穴の中の炎が、白に近い青へ。


 颯太は、ようやく、手のひらを、引いた。


「窯出しまで、あと、ひと息」


 彼は、低く言った。


 その時、蓮見の口から、声にならない、低い、息のような音が、漏れた。


 彼の黒衣の襟元から、薄い、赤茶色の幕のようなものが、一瞬、立ち昇って、すぐに消えた。彼の魔術の核が、外側から、内側へ、向きを変えた。


 颯太の前で、蓮見は、ゆっくりと、膝を折った。


 彼は、最後まで、何かを、罵っていた。前職の会議室で、彼が颯太に向けて使った、あの種類の言葉のひとつを、彼は、最後にも、口にしようとしていた。


 颯太は、振り向かなかった。


 彼は、もう、その声を、取りに行かなかった。


 炉が、一度、深く、息を、ついた。




 壺は、焼き上がった。


 古代の結界の壺が、再び、ひとつの器として、完成していた。器の腹の側面に、ほんのわずかに、薄い、夜明け前の空のような青が、走っていた。窯変だった。意図して出せるものではない、火と灰と土とが、その瞬間にだけ、手を貸した、唯一の偶然。


 窯出しは、半日後の予定だった。


 颯太は、覗き穴から、ようやく、立ち上がった。


 立ち上がった瞬間、彼の右の手のひらは、もう、ほとんど、感覚がなかった。指の関節も、肘も、肩も、震えていた。


 ターナは、ホブスに支えられて、すでに息を吹き返していた。意識は、まだ朦朧としていた。けれど、彼女は、颯太の方に、ゆっくり、目を合わせた。颯太は、その目を、まっすぐ、受け止めた。


 王女フィリスの祝詞は、止まっていた。


 彼女は、自分の足元の灰の上に、ゆっくり、片膝を、ついた。膝をついたまま、彼女は、颯太の方に、笑みを、向けた。


「あなたは」


 彼女の声は、まだ、辛うじて出ていた。


「最後まで、手を、止めませんでしたね」


 颯太は、頭を、深く下げた。


「殿下も、最後の一度を、出さずに、済みました」


「ええ」


 王女は、頷いた。


「あなたが、焼いてくれたから」


 地下のドームの天井の煙穴から、最後の細い煙が、薄く、地上の方へ、立ち昇っていった。


 煙の色は、夕暮れ近くの空のような、深い青だった。


 地上では、煙の色を見て、王国軍の角笛が、長く、低く、鳴り渡った。帝国軍の最前列が、最初に、その音を聞いた。聞いた瞬間、彼らの剣の刃の、薄い赤茶色の錆が、一斉に、止まった。


 止まった、というのは、進行をやめた、という意味だった。


 錆びた鋼は、もう、戻らない。けれど、これ以上、錆びることは、止まった。それだけのことが、戦線の流れを、わずかに、しかし確実に、変えた。


 地下では、颯太は、まだ、立っているのが、ようやくだった。


 マルディが、彼の左肩を、支えた。


 ホブスが、彼の右肩を、支えた。


 クェンが、ターナの背中を、抱え直した。


 王女フィリスは、ヴァランの腕に、軽く、肘を預けていた。


 誰一人、勝鬨は、上げなかった。


 代わりに、彼らは、それぞれの手を、それぞれの仕事の、最後のひとつまで、丁寧に、置き直した。火の養生、薪の片付け、点検口の修復、釉薬の余りの保管、灰の清掃。彼らの手の動きは、戦の終わりというよりも、ただ、長い窯番の、その一晩の終わりの、いつもの所作に近かった。


 颯太は、それでよかった、と思った。

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