第十章 還る場所
帝国軍は、戦線を、二月かけて、退いた。
退き際に、もう一度、激しい局地戦があった。けれど、彼らの主力魔導士であった黒衣の参謀は、もう、現れなかった。蓮見修司の遺骸は、王宮地下の、中央炉のドームの石の床の上で、黒衣のまま、動かなくなっていた。彼の魔術は、最後に内側へ向かい、彼の体の中の鉄分そのものを、薄く、酸化させた。死因は、と、王立学院の医師が、丁寧に書面に書いた。「自身の魔術の、自身への帰還による、機能不全」。
颯太は、その遺骸を、見に行かなかった。
見に行かない、ということを、彼は、自分の意思で、決めた。
決めた上で、彼は、自分の右の手のひらを、もう一度、薪の運搬に、使った。
復興は、長かった。
子爵領ヴィエルセンの街は、半分以上が破壊されていた。颯太は、王女フィリスの差配で、石工長オルバスを総指揮にして、ヴィエルセンの工房の再建に、半年を、費やした。新しい工房の登り窯は、以前と同じく五段だが、ひとまわり太く、堅牢になった。煙突は、王都の工房のものより、もう一段、太く、高くなった。颯太は、その煙突の根元に、亡き子爵の、削られた家の紋章を、あらためて、自分の手で、彫り直した。
燠村は、再建されなかった。
代わりに、村のはずれの穴窯の跡に、ガラン老の墓が、建てられた。墓石は、颯太自身が、王都の工房で焼いた、薄茶色の素焼きの板だった。板の表面には、彼の右手の指で、ひとつだけ、文字が、刻まれていた。
還、と、その一字が、ガラン老の眠る石の上に、置かれた。
その墓石の前で、颯太は、長く、頭を下げた。
頭を下げた地面の脇に、白い花の混じった葉が、わずかに、揺れていた。
復興のひと月目に、ヴィエルセンの城下に、ひとりの少女が、徒歩で、たどり着いた。
亜麻色の髪を、肩のあたりで切り揃えていた。ひと回り、痩せていた。けれど、目は、生きていた。
リーラだった。
彼女は、燠村が焼かれる直前、ガラン老に、こう言われたという。山の北の、断崖の下の洞窟へ、行きなさい。あの洞窟は、お前の祖母が幼い頃に、戦火を逃れて隠れた場所だ。場所は、私の小屋の裏の、白樺の三本目に、印が、ある。
リーラは、その印を頼りに、洞窟へ向かった。
洞窟の中で、彼女は、二月、一人で、生き延びた。手元には、籠ひとつと、籠の中の、薬草の葉と、そして、燠村の戸口の棚から最後に持ち出した、颯太の最初の青の鉢、ひとつだけ。鉢は、雨水を受け、洞窟の天井から滴る湧き水を溜め、彼女の渇きを、毎日、癒した。
リーラが、ヴィエルセンの工房の戸口に立った時、颯太は、最初、彼女を、認識できなかった。
認識できなかった彼の右手が、しかし、無意識に、伸びた。
リーラは、籠を、その手に、預けた。
籠の中に、薄茶色の小さな破片が、入っていた。
颯太の祖父の手帳に挟まっていた陶片と、よく似た、しかし別の破片だった。リーラの母が、最後に握っていた、一枚だった。
「先生」
リーラは、低く言った。
「私、戻ってきました」
颯太は、彼女の頭を、しばらく、撫でられなかった。
撫でられないまま、ただ、彼の右手は、籠の中の破片の上で、震えた。
震えが、ようやく止まった時、彼は、自分の左手で、リーラの肩を、そっと、抱いた。リーラは、彼の胸に、額を、押しつけた。彼女は、声を出さずに、長く、息を、吐いた。彼の胸の、内ポケットの中で、彼自身の祖父の陶片が、彼女の額の体温を、薄く、受け取った。
工房の戸口の脇で、マルディが、自分の頬を、自分の手で、ぎゅっと、押さえた。ターナの目に、薄く、涙が浮かんだ。クェンとホブスは、互いの肩を、わずかに、叩き合った。
「先生」
リーラは、彼の胸に額を預けたまま、もう一度、低く、呼んだ。
「ガラン爺ちゃんは」
「ああ」
颯太は、低く、答えた。
「お前さんに、続きを、託していた」
リーラは、頷いた。
頷いたまま、彼女は、そこから、しばらく動かなかった。
颯太の右手は、ようやく、彼女の頭の上に、置かれた。彼の前職の業界では、誰の頭にも、彼が手を置くことは、なかった。置く資格が、自分にはない、と思っていた。けれど、いま、彼の手は、リーラの亜麻色の頭の上に、自然と、置かれていた。置かれたまま、しばらく、動かなかった。
復興の半年が過ぎた頃、王都の中央神殿で、再焼成された壺の、最後の据え付けの儀式が、行われた。
儀式の前夜、王女フィリスが、颯太を、王宮の客間に呼んだ。
客間の机の上に、薄い金色の紙の文書と、一通の封書が、置かれていた。
封書のほうには、王家の紋章の蝋印が、押されていた。
「明日の儀式の後で」
王女は、低く言った。
「私から、あなたに、ふたつの選択肢を、お伝えします」
颯太は、頷いた。
「ひとつ目は、ここに、留まること」
彼女は、薄い金色の文書のほうに、指を置いた。
「炎神メリオラの巫女として、王家は、あなたを、新しい継ぎ手の民の長に、任じる用意があります。あなたには、王宮の工房と、王都郊外の領地と、若い職工の養成所の、その全てを、委ねます」
颯太は、しばらく、文書を見つめていた。
「ふたつ目は」
王女は、封書のほうに、指を移した。
「あなたを、もとの世界へ、還す手段です」
彼女の指の動きは、わずかに、遅くなっていた。
「『継ぎ手の灰』の、最後の章に、火を借りた者を、火に返す祈りの法が、記されています。一度きり。失敗は、私には、許されません。けれども、あなたが、お望みなら、私は、それを、やります」
颯太は、頭を、深く、下げた。
下げたまま、しばらく、口を開かなかった。
顔を上げた時、彼の頬には、わずかに、湿った筋が、残っていた。
彼は、それを拭わなかった。
「殿下」
彼は、低く言った。
「私には、こちらの世界に、残してきた、いくつかの大切なものが、あります。リーラがいます。マルディと、ターナと、クェンと、ホブスがいます。ヴィエルセンの工房があります。ガラン老の墓があります。そして」
彼は、王女の方へ、目を、上げた。
「殿下が、いらっしゃいます」
王女は、頷きはしなかった。
ただ、自分の手のひらを、机の縁に、軽く、置いた。指の動きは、いつものように、すこし遅かった。
「ですが」
颯太は、続けた。
「私には、もとの世界にも、残してきたものが、あります。母です。母は、私の名前を、もう、確実には、呼べません。けれど、私の手は、まだ、その手を、握れます。それから、もうひとつ、私は、もとの世界の、自分の小さな仕事の場所を、自分の手で、もう一度、立て直さなければ、ならないと、思っています」
王女は、長く、彼を見ていた。
やがて、彼女は、薄く、笑った。
「あなたは、本当に、職人ですね」
彼女は、もう一度、その言葉を、口にした。
「最初に申し上げた時と、同じ言葉です。けれども、いまは、少し、違う意味で、言っています」
颯太は、頷いた。
「殿下も」
彼は、低く言った。
「最初に、私を、お招きくださった時と、いまでは、少し、違う方に、なっておられるように、お見受けします」
彼女は、薄く、頷いた。
「変わったほうが、よかったと、私自身、思っています」
窓の外で、王宮の鐘が、夜の刻を、低く、打った。
二人は、それ以上、何も、話さなかった。
話す必要が、もう、なかった。
翌日、儀式は、滞りなく、終わった。
その夜、王宮地下の中央炉の前に、颯太は、ひとり、進み出た。
彼の足元の床の上に、王女フィリスは、薄い金色の灰の輪を、ゆっくり、描いた。輪の中央に、颯太は、座った。彼の手元には、祖父の手帳と、薄茶色の陶片と、リーラから預かった彼女の母の陶片の、三つが、置かれていた。
彼は、リーラの陶片を、王宮の工房の棚の、いちばん奥に、自分の手で、置いてきた。リーラには、もう、別れを、告げてあった。リーラは、泣かなかった。代わりに、彼女は、新しい工房で、若い職工たちと共に、自分の手で、新しい鉢を、いくつも、作っていくと、彼に約束した。
マルディと、ターナと、クェンと、ホブスは、ヴィエルセンの工房の前で、彼を見送った。誰一人、引き止めなかった。代わりに、彼らは、自分たちの手の動きを、最後まで、隠さなかった。
ヴァランは、王宮の地下の階段の上で、彼に、低く頭を下げた。
石工長オルバスは、ヴィエルセンの新しい煙突の前で、片手を、軽く、上げた。
燠村の墓のガラン老は、もう、頭を下げなかった。代わりに、墓石の脇の白い花の混じった葉が、風に、わずかに、揺れた。
王女フィリスは、灰の輪の縁で、最後の祝詞を、低く、唱え始めた。
颯太は、自分の右の手のひらを、もう一度、開いた。
右手の小指の根元の、十一歳の夏の火傷の跡が、いつもの位置に、いつもの色で、ある。
彼は、その跡の上に、左の親指を、ゆっくり、置いた。
亡き祖父の、夜ごとの仕草と、同じだった。
灰の輪が、薄く、青く、光り始めた。
目が覚めた時、彼は、第二焼成棟の床に、倒れていた。
白かった天井が、いつもの蛍光灯の白に戻っていた。
壁の時計は、深夜三時三十二分。
非常用のバルブが、半分まで、開いて止まっていた。爆燃の閃光のあと、なぜか、補助バーナーは、自動の安全装置によって、停止していた。爆発は、起こらなかった。彼の体には、大きな怪我は、なかった。ただ、右の手のひらに、薄い、火傷の痕が、ひとつ、増えていた。
蓮見修司の姿は、棟内のどこにもなかった。
あとで知ったことだが、その夜、蓮見は、棟を出てすぐ、心臓の発作で、倒れた。一命は、取り留めた。けれど、長く、第一線への復帰は、難しいだろう、と医師団は、判断した。
颯太は、その夜のうちに、第二焼成棟の補助バーナーの配管系統を、自分の手で、点検した。
翌朝、彼は、課長宛てに、辞職願を、出した。
理由は、「家業の継承のため」と、ひと言だけ、書いた。
半年が、過ぎた。
夕方六時。
颯太は、亡き祖父の登り窯の、覗き穴の前に、座っていた。
窯場は、町の外れの、小さな丘の中腹にあった。雨戸の閉まらない古い小屋と、苔の多い庭と、煤に染まった煙突が、ひとつ。母は、施設のままだった。月に三度、彼は、面会に行った。母は、まだ、彼の名前を、確実には、呼べない。それでも、彼が手を握ると、母の手は、いつも、乾いて、あたたかかった。
窯の覗き穴の中の炎は、橙から、薄い黄に、変わろうとしていた。
あと少し空気を絞れば、青みが差す。還元焼成の頃合いが、近い。
彼の背後に、ひとり、若い女性が、立っていた。
先月、町の小さな求人広告を見て、訪ねてきた弟子志願者だった。まだ、何もできない。けれども、彼女は、今日、初めて、薪を、自分の指の幅で、太さを、揃えた。
颯太は、振り向かなかった。
「火を、見ろ」
彼は、低く、言った。
「色が、違う」
前職で、誰にも言えなかった一言が、いま、自然に、出た。
女性が、一歩、踏み出して、覗き穴を、覗いた。
「……青く、見えます」
彼女は、低く、言った。
颯太は、小さく、頷いた。
彼の右手の小指の根元の、十一歳の夏の火傷の跡の隣に、もうひとつ、薄い、新しい火傷の跡が、ある。
彼は、その跡を、自分の左の親指で、軽く、撫でた。
窯出しの一個に、覚えのない深い青の窯変が、走っていた。
紋様は、誰のものとも知れぬ、細い百合の紋章に似ていた。
颯太は、それを、工房の棚の、いちばん奥に、そっと、置いた。表に出して、売る品では、ない。
彼の目には、その紋章が、誰の紋章なのか、いまでは、分かっていた。けれど、彼は、声に出して、それを、名乗らなかった。声に出さずに、ただ、棚の奥の暗がりの中に、一礼して、戸を、閉めた。
工房を閉めて、外に出た。
夕焼けの空が、広い。
月は、一つだ。
それで、いい。
彼は、深く、息を吸った。
吸い込んだ空気の中に、まだ、わずかに、覗き穴の青の名残が、あった。
「俺の、火だ」
誰に、言うでもなく、彼は、呟いた。
戸口の鍵を、閉めた。
鍵を閉めた瞬間、彼は、十二年ぶんの、自分の輪郭の削り屑が、自分の手の中で、ひとつの、新しい器のかたちに、収まっていくのを、はっきりと、感じた。
器は、まだ、完成していない。
完成しないままで、彼は、もう、十分に、立っていた。
丘の道を、彼は、ゆっくり、降りた。
道の脇に、小さな野花が、揺れていた。誰のものとも知れぬ、夕暮れの花だった。颯太は、そのひとつに、軽く、頭を下げた。下げた時、彼の右の手のひらの中で、二つの世界の火の名残が、ひとつの、温かい層に、なって、収まっていた。
還元は、世を、還す。
還した先で、火を借りた者は、自分の小さな炉に、還る。
彼の足音が、丘の道の砂利の上で、低く、低く、響いた。
夕焼けは、もうすぐ、終わる。
終わる前に、彼は、家に、着く。




