第八章 還元という言葉
王宮地下の中央炉は、想像していたよりも、ずっと巨大だった。
石組みの円形の炉。直径は、優に十歩を超えていた。天井は、高く、半円のドームのように、上方にせり上がっていた。ドームの頂点の中央に、わずかに細い円形の穴があり、そこから、はるか上の地表へ、煙道が、まっすぐに伸びている、はずだった。
炉の周囲の石壁には、無数の細かな彫り込みがあった。
颯太は、灯を片手に、その彫り込みの前を、ゆっくりと歩いた。
彫り込みは、絵ではなかった。文字だった。
古代の継ぎ手の民の文字、と王女フィリスは説明した。古文書庫の『継ぎ手の灰』と、ほぼ同じ系列の、しかしもう一段、古い時代の字体だった。文字は、炉を取り囲む壁面の全周にわたって、几帳面に、しかし誰の手にも触れられぬまま、長く眠ってきた。
颯太は、灯を、ある一画に近づけた。
文字の刻みの溝に、長年の埃が、薄く溜まっていた。彼は、自分の右手の指先を、その溝に、そっとはわせた。指先の感触で、文字のかたちを、まず読んだ。
刻まれた音が、彼の頭の中で、絵になった。
「酸化は」
彼は、思わず、声に出した。
「世を、朽ちさせる」
弟子の四人が、彼の背後で、息を止めた。
颯太の指は、隣の一画へ、移った。
「還元は」
彼の声は、自分でも気づかぬうちに、震え始めていた。
「世を、還す」
古代の壁の文字は、祖父の手帳の最後のページの一行と、寸分違わなかった。
文字の意味が分かった瞬間、颯太の体の奥で、何かが、深く、沈んだ。
沈んだものは、すぐには、表に出てこなかった。
彼は、灯を持ったまま、文字の前に、しばらく立ち尽くしていた。
灯の油が、わずかに切れかけて、光が一瞬、揺らいだ。揺らいだ瞬間、文字の刻みの溝の底に溜まった灰の白が、ふっと薄く浮き上がって見えた。光は、すぐに戻った。けれど、その一瞬の浮き上がりを、颯太は、自分の網膜の奥に、深く、焼きつけた。
誰かが、ここで、誰かのために、長く祈った。
その誰かは、もう、いない。
いないけれど、その祈りの灰は、まだ、ここに、ある。
颯太は、灰の白を、自分の指先で、ほんの少しだけ、撫でた。
撫でた指先に、白の名残が、わずかに、ついた。
彼は、その白を、自分の額に、軽く、押しつけた。
マルディが、低く、彼の隣に並んだ。
「先生」
マルディの声は、十六歳の少年の声から、わずかに大人びていた。
「これ、先生が、ずっと、おっしゃっていた言葉ですね」
颯太は、頷いた。頷きながら、彼の目は、文字の彫り込みの溝の底の方を、見ていた。溝の底には、長い年月の埃の層の下に、わずかな、灰の名残のような白い粒が、残っていた。誰かが、この壁の前で、長い祈りを捧げた、その灰だった。
「マルディ」
颯太は、低く言った。
「俺は、長く、この言葉を、年寄りの抒情だと思っていた」
マルディは、頷いた。
「でも、これは、抒情ではなかった」
「はい」
「これは、技術書の、最初のページに書かれるべき、定義だった」
颯太は、文字の前で、ようやく、笑った。
笑ったというより、口の片端を、わずかに、上げただけだった。けれど、彼が、ここまで来てから、自分の意思で、小さく口の端を上げたのは、ほとんど初めてだった。
ターナが、マルディの肩越しに、低く呟いた。
「先生」
「ん」
「こちらの世界に、この言葉がない、っていうのは、本当ですか」
「ヴァラン殿は、ない、と」
「私は」
ターナの目は、文字の前の壁の暗がりに、向いていた。
「私は、初めて聞いた時、ない言葉だ、とは、思いませんでした。先生の口から出た時、私には、もう、ある言葉に、聞こえました」
颯太は、彼女の方を見た。
ターナの瞳は、灯のなかで、わずかに濡れているようだった。
「言葉は、誰かが口に出した瞬間に、生まれるのかもしれません」
ターナは、淡々と、続けた。
「先生は、こちらの世界に、新しい言葉を、二つ、置いた人なんだと、思います」
颯太は、しばらく、答えられなかった。
答えられないまま、彼は、文字の前に、もう一度、頭を、深く下げた。
炉の傍らで、王女フィリスが、儀礼装束のまま、待っていた。
彼女の隣には、ヴァランと、王立学院の最年長の司書老人がいた。司書老人は、震える手で、『継ぎ手の灰』の写本を、抱えていた。
颯太は、王女の前に、進み出た。
「殿下」
彼は、頭を下げた。
「壺を、焼き直します」
王女は、深く、頷いた。
「素地は、亀裂の入った中央神殿の壺の、破片を、用います。釉は、殿下の祝詞によって落とされた灰を、集めて、用います。燃料は、王国の民が持ち寄った薪と、祈りを、用います」
颯太の声は、低かった。
低かったが、揺るがなかった。
「窯は、この、古代の中央炉です」
王女は、もう一度、頷いた。
「その全てを、私が、用意しました」
彼女は、静かに言った。
「あとは、あなたの手だけです」
準備は、三日で整った。
マルディは、神殿から運ばれてきた壺の破片を、ひとつずつ、布で拭った。破片は、思っていたよりも、薄かった。古代の継ぎ手の民は、現代の颯太の感覚から見ても、ぎりぎりまで薄く挽いて、ぎりぎりまで高温で焼いていた。それが、結界の力を強める鍵だった、とフィリスは説明した。
ターナは、王宮の儀礼室から運ばれてきた、王女の祝詞の灰を、丁寧に、漉して、釉薬の調合に回した。灰は、黒ではなく、わずかに金色がかった、薄い灰色をしていた。普通の楢の灰とは、明らかに違う発色を、釉に与えるはずだった。
クェンとホブスは、王宮の倉庫から運ばれてきた薪を、太さ別に、十段階に仕分けた。薪の中には、王都の市民が、一束ずつ、自宅から持ち寄ったものが、混じっていた。それぞれの薪に、寄進した家族の名が、薄く、墨で書かれていた。
颯太は、寄進された薪の山の前で、しばらく立ち止まった。
薪の一束に、子供のたどたどしい字で、家族四人の名が、書かれていた。父、母、兄、そして、その薪を寄進した本人らしい、いちばん下の女の子の名。颯太は、その名を、声に出して読まなかった。読まなかったが、その薪を、別の山の中央に、丁寧に置き直した。
もう一束に、震える老婆の字で、ひとつだけ、亡き夫の名らしい名前が書かれていた。颯太は、その薪を、今度は、最初の方に焚かれる山に、選り分けて入れた。最初に焚く薪は、炉の温度を、まだ穏やかな段階で支える。長く眠った亡き夫の名は、そこで、長く、穏やかに、火と共に過ごす。
彼は、自分の手の中で、その作業を、何度も、繰り返した。
弟子の四人は、その手の動きを、無言で、見ていた。
颯太は、自分の作業台に、二冊の書物と、一枚の陶片と、一冊の手帳を、並べた。
二冊の書物は、王女が貸してくれた『継ぎ手の灰』と、彼自身が王都に来てから綴り始めた覚え書きの帳面。一枚の陶片は、祖父の手帳に挟まっていた、薄茶色の小さな破片。一冊の手帳は、祖父の手帳。
彼は、その全てを、自分の指先で、軽く撫でた。
撫でながら、彼は、長く、目を閉じた。
目を閉じた闇のなかに、深夜三時の覗き穴の青と、ガラン老の灰色の目と、リーラの幻の籠と、子爵の頭を下げる仕草と、王女の儀礼装束の裾が、順番に、横切っていった。
最後に、横切ったのは、彼の母の、乾いた、けれどあたたかい手だった。
彼は、目を開けた。
火入れの前夜、王女が、地下の彼の作業場を、たった一人で訪ねた。
彼女は、儀礼装束ではなく、簡素な麻の長衣を纏っていた。手に、小さな油の灯をひとつ、持っていた。
「キリュウ・ソータ」
彼女は、彼の名を、ゆっくり呼んだ。
「明日、火入れの前に、あなたに、お伝えしておきたいことがあります」
颯太は、作業台から立ち上がって、彼女の前に進み出た。
「殿下」
「私は、あの祝詞を始めて以来、もう五年、毎月一度、自分の身を削っています」
彼女の声は、淡々としていた。
「明日、もし、焼成が、最後まで失敗したら、私は、その場で、すべてを差し出して、亀裂を抑える祝詞を、最後の一度だけ、唱えるつもりです」
颯太は、息を、呑んだ。
「殿下」
「いいえ、聞いてください」
彼女は、首を振った。
「これは、お願いではなく、お伝えなのです。あなたに、責任を負わせるためではありません。あなたが、何かに、手を止めることのないように、です。私は、私の役目を、私の意思で、決めます」
颯太は、しばらく、答えられなかった。
答えられないまま、彼は、自分の作業台の上の、一枚の薄茶色の陶片に、目を落とした。
「殿下」
彼は、ようやく、口を開いた。
「私は、明日、手を止めません」
王女は、頷いた。
「それで、結構です」
「ですが、殿下」
彼は、続けた。
「殿下も、明日、最後の一度、を、出さないでください。出させないように、私が、焼きます」
王女の唇が、わずかに、動いた。
動いたが、何も、声にはならなかった。
彼女は、ただ、自分の手のひらを、彼の作業台の縁に、軽く、置いた。彼女の指の長さの分だけ、台の上の陶片の薄茶色が、灯のなかで、わずかに、温かい色に見えた。
彼女が、立ち去ったあと、颯太は、長く、そこに座っていた。
その夜、颯太は、もう一度、祖父の手帳を、開いた。
最後のページの一行を、彼は、改めて、読み直した。
還元は、世を還す。
その一行の下に、消えかけた鉛筆で、もうひとつ、走り書きがあった。
彼は、これを、十二年、見落としていた。見落としていたというより、視界には入っていたのに、文字として読まなかった。彼の前職の生活では、その走り書きは、ただの祖父の手の癖の名残だった。
還元は、火だけではない。
手で焼く。
颯太は、その一行の上に、自分の右の手のひらを、しばらく、覆い被せていた。
覆い被せた手のひらの内側で、その一行の意味が、彼の中で、ゆっくり、形を変え始めていた。
還元は、火だけでは、ない。
ならば、何が、要るのか。
彼は、その問いに、まだ、答えを持たなかった。
持たないまま、しかし、彼は、その問いを、自分の手のひらの中に、抱えて寝た。
眠る前に、彼は、ふと、亡き祖父のことを、思い出した。祖父は、毎晩、就寝の前に、自分の右手の小指の、関節の内側を、左手の親指で、ゆっくりと撫でていた。理由を、孫の颯太が尋ねた時、祖父は、答えなかった。代わりに、笑った。その笑い方は、他の場面では決して見せない、ある種の、やわらかい笑い方だった。
颯太は、いま、その仕草の意味を、初めて、理解した。
祖父も、自分の手のひらの中に、その日の火の熱の名残を、長く、抱え込む人だった。
颯太は、自分の右手の小指を、左手の親指で、ゆっくり撫でた。
撫でながら、彼は、ようやく、眠った。
翌朝、王宮地下の中央炉の前に、彼は立った。
弟子の四人と、王女フィリスと、ヴァランと、司書老人と、神殿の祭司たちと、王令で集められた百人を超す職工と、薪を運ぶ市民の、それぞれの代表が、円形の炉の周囲に、半円を描いて立っていた。
彼は、半円の前に立つ前に、もう一度、自分の作業台に戻った。
薄茶色の陶片を、自分の胸の内ポケットに、そっと、しまった。陶片は、彼が、深夜三時の覗き穴の青の中へ吸い込まれた瞬間にも、ポケットに入っていた。十二年前に祖父が亡くなった日の翌朝、祖父の登り窯の窯出しの跡から、彼が独りで拾った破片だった。誰にも言わずに、彼は、その破片を、ずっと持ち歩いていた。前職の更衣室のロッカーの中でも、いつもポケットに入っていた。
その陶片を、彼は、いま、心臓の近くに、置いた。
颯太は、自分の右の手のひらを、ゆっくり、開いた。
右の小指の根元に、十一歳の夏の火傷の跡が、いつもの位置に、いつもの色で、ある。
彼は、その跡を、しばらく見つめてから、半円の中央に進み出た。
「では」
彼は、低く言った。
「火を、入れます」
最初の薪が、炉の焚口に、投じられた。
乾いた、高い音がした。
彼の前職の十一歳の夏の、棚板を弾いた時の音と、同じ高さの音だった。
彼の右手が、自然と、その音に応えるように、軽く、動いた。
動いた手のひらの中で、火傷の跡が、わずかに、温まり始めた。
半円の縁で、王女フィリスが、深く、頭を下げた。彼女の儀礼装束の裾が、地下の石の床の上で、薄く、波打った。颯太は、その波打ちを、視界の端で、確かに、見た。見た上で、彼の目は、もう、覗き穴の方へ、戻っていた。
地下の中央炉の中で、最初の火が、息を、ひとつ、吸った。
吸い終えた火が、ゆっくり、吐き始めた。
吐かれた煙の最初の一筋が、ドームの天井の中央の穴のほうへ、まっすぐに、立ち昇った。




