第七章 崩れる結界、燃やされる窯
帝国軍の総攻勢は、初夏の朝に始まった。
南の国境のヴァロン砦が、二日で落ちた。砦の鉄の城門は、戦闘開始からわずか半刻で、内側から錆びて崩れた。隻眼の老指揮官は、最後まで剣を振るったあと、自害した。彼の遺体の脇には、颯太の作った陶板の内張りを縫い込んだ胴鎧が、いくつもの破片となって散らばっていた。胴鎧の本体の鋼は、ぼろぼろに錆びていた。けれど、内張りの陶板は、最後まで、その持ち主の肌に近い側で、白い破片として残っていた。
帝国の進軍は、街道沿いに、迅速に北上した。
子爵領ヴィエルセンが、十日で陥落した。エディン・カラル・ヴィエルセン子爵は、退路を塞がれ、街の中央広場で降伏した。降伏したあと、彼は処刑された。彼の館の柱に彫られていた家の紋章は、敵兵の手で削り落とされた。
その報せが王都に届いた朝、颯太は、工房の戸口で、しばらく動けなかった。
子爵の言葉が、彼の耳の奥で、ひとつ、繰り返された。
怒鳴る術、報いる術、罰する術。そのどれも、お前の工房では使われていない。
颯太は、戸口の柱に、額を、しばらく押しつけていた。
額の下で、柱の木目が、わずかに湿った。
工房の中で、マルディが、新しい粘土の樽を、いつもより慎重に、しかしいつもの手の動きで、蓋を閉めていた。誰も、口をきかなかった。蓋の木が湿気で軋む音だけが、長く響いた。颯太は、その音を、額越しに聞いた。
石工長のオルバスが、ヴィエルセンから、わずかな手勢と共に、王都へ落ち延びてきたのは、その三日後だった。彼の右肩には、深い切り傷があった。颯太は、彼を工房の奥の小部屋に寝かせ、自分で、薬草の湯を温めた。リーラの母にしてやったことを、自分の手で、もう一度、繰り返した。
「子爵様は」
オルバスは、低く言った。
「最後まで、紋章の方を、見ていなさった」
颯太は、頷いた。頷きながら、彼の手は、薬湯の温度を、指先で確かめていた。確かめながら、彼の手は、わずかに、震えていた。震えを止めるためには、もう、別の何かを焼くしかない、と、彼の指は、知っていた。
燠村は、進軍の早い段階で、燃やされた。
報告は、半月後に、王都に届いた。村は、戦略的価値を持たない辺境の小村だった。本来であれば、進軍の途上で素通りされてもおかしくない場所だった。しかし、その村は、わざわざ、敵軍の一部隊によって焼かれた。焼かれた家屋の中央に、村のはずれの古い穴窯の修復跡があった。穴窯は、徹底的に破壊された。石の一つひとつまで、別々の方角に、放り投げられていた。
颯太は、その報告を、王女と二人きりの客間で受け取った。
ガラン老の名は、犠牲者の名簿の中にあった。
ガランは、村の燃え盛る家屋の中から、自分の足で出てきたあと、穴窯の跡の前に座り込んで、動かなくなった、という。敵兵が、彼を斬ろうとした時、ガランは、灰色の見えない目で、まっすぐに敵兵のほうを向いた。そして、低く、一言だけ言った。
火ってのは、奪うためにあるんじゃねえ。
返すためにあるんだ。
その一言を、敵兵は、訳もわからず、しかし、最後まで、覚えていた。報告を上げてきた偵察兵が、敵兵から直接、その言葉を聞き出したのだと、報告書には記されていた。
颯太は、報告書を、長く膝の上に置いていた。
ガランの最後の言葉は、彼が初めて聞いた時、年寄りの抒情として、無視できた言葉だった。
今、それは、無視できなかった。
無視できないだけではなく、彼は、その一言を、じわりと、自分の喉の奥に、引きずり込み始めていた。引きずり込まれたものは、簡単には出てこない。出てくる時には、別のかたちになっている。
火を、奪う者と、火を、返す者。
ガラン老は、自分の人生のほとんどを、火を奪われる側で生きてきた。村の最後の番人として、誰もが彼を放置した。手を継ぐ者もいなかった。彼の灰色の目は、それを長い年月、静かに見ていた。それでも、彼は、最後の瞬間に、火を返す側の言葉を、敵兵の耳に置いた。置いて死んだ。それは、彼が、自分の人生で唯一、自分から差し出した「教え」だった。
颯太の両膝の上の報告書の、ガランの名の上に、彼の涙が、一滴落ちた。
涙は、紙にすぐ吸われた。
吸われた紙の繊維の奥で、ガランの名が、わずかに、にじんだ。
リーラの名は、犠牲者の名簿には、なかった。
その代わり、行方不明者の最後の欄に、彼女の名が、書かれていた。
颯太は、その名の上を、指先で、長く撫でた。
撫でた指先が、しばらく、震えていた。
行方不明、という言葉に、彼は、わずかな、しかし揺るぎない希望のかたちを、自分の指先で、無理やり、描いた。彼の前職の業界では、行方不明、という記号は、最後まで諦めない者の符号だった。死亡確認書類が出るまでは、その人間は、まだ生きていることになる。彼は、その記号の慣習を、いまここで、自分の救いとして使うことに、後ろめたさを、半分だけ感じた。半分だけ、自分に、許した。
王都リオスの中央神殿に祀られた最後の結界の壺に、新しい亀裂が走ったのは、その月の終わりだった。
亀裂は、壺の腹の側面から、底のほうへ、稲妻のように走っていた。亀裂の縁から、薄い黒煤の煙が、ゆっくりと、立ち昇り始めた。煙は、神殿の天井近くで、わだかまった。神殿の床の石が、わずかに、表面を白くざらつかせ始めた。風化が、加速していた。
王女フィリスは、儀礼装束を纏い、神殿の中央に進み出た。
彼女の儀礼の祝詞は、古代の継ぎ手の民の言葉を、わずかに残した、独特の響きを持っていた。颯太は、神殿の隅で、その祝詞を、初めて、最後まで聞いた。意味は、半分しか分からなかった。けれど、半分のほうの意味の中に、火、土、水、灰、そして「還る」という言葉が、繰り返し現れていた。
フィリスの祝詞によって、亀裂からの黒煤の漏れは、一時的に止まった。
止まったが、彼女自身が、神殿の床に、片膝をついた。
颯太は、神殿の隅から、ヴァランと共に走り寄った。
王女の額には、汗が浮いていた。けれど、汗は、すぐに乾いた。乾いたあとの肌は、薄く、白くなっていた。彼女は、颯太の腕に支えられながら、低く笑った。
「私の祝詞は、応急処置に過ぎません」
彼女は、低く言った。
「壺そのものを、もう一度焼き直さない限り、最後には、私が先に消えます」
颯太は、そのとき、自分の喉の奥に引きずり込んだガランの一言が、別のかたちで、出てくるのを、感じた。
「殿下」
彼は、王女の腕を、しっかり支え直した。
「焼き直しは、できます。私が、やります」
王女の唇が、わずかに、動いた。
「素地は」
「割れた古代壺の、破片そのものを、用います」
「釉は」
「殿下の祝詞の、灰を」
王女の目が、わずかに見開かれた。
「燃料は」
「王国の民の、薪と祈りを」
颯太は、続けた。
「窯は、王宮地下の、古代窯業国家の、中央炉を、使います」
王女は、しばらく彼の顔を見ていた。
それから、ゆっくりと、笑った。
「あなたは、本当に、職人ですね」
彼女の指が、彼の腕を、軽く握った。
「では、その全てを、私が、王令で、用意します」
その夜、颯太の工房が、焼かれた。
帝国の手の者ではなかった。少なくとも、報告の上ではそう書かれた。原因は、不明。火の手は、工房の南側の薪置き場から上がった。風向きは、運悪く北西。火は、工房の本体へ、半刻で広がった。
颯太が現場に駆けつけた時、屋根は、すでに半分が崩れていた。
弟子のターナが、工房の中から、ホブスを背負って出てきた。ホブスは、煙に巻かれて、意識が薄かった。クェンとマルディは、工房の裏手の井戸で、頭から水を被っていた。誰一人、命に別状はなかった。
火は、王宮の衛兵団がかけつけて、なんとか抑え込んだ。けれど、消火が終わった頃には、工房の梁の三本のうち二本が、黒い炭になって地面に横たわっていた。颯太は、その梁の根元を、しばらく見ていた。彼の前職の工場の天井の梁とは、違う形の組み方だった。けれど、燃え方は、同じだった。木は、どの世界でも、同じ燃え方をする。それが、奇妙に、彼を、落ち着かせた。
しかし、四段組みの登り窯は、半分まで崩れた。
颯太は、崩れた窯の前で、しばらく立ち尽くした。
崩れた煉瓦の隙間から、まだ、わずかに熱が漂っていた。
彼は、煉瓦の隙間に、しゃがみ込んだ。崩れた灰の中に、片手を、深く差し入れた。
灰の中から、何かに、指先が触れた。
彼は、それを、慎重に取り出した。
手のひらに乗せた時、彼は、自分の呼吸が、止まったのが分かった。
それは、一枚の、陶片だった。
彼が異界に来たとき、ポケットに入っていた祖父の手帳に、ずっと挟まっていた、あの薄茶色の小さな陶片だった。彼が、無意識に、王都の工房の作業机の引き出しの一番奥に、入れていたものだった。
工房は燃えた。
窯は半分崩れた。
けれど、その陶片だけが、灰の中で、傷ひとつなく、残っていた。
彼の手のひらの上で、陶片の縁に、わずかに、黒い煤がついていた。
颯太は、その陶片を、震える指で、自分の額に押しつけた。
押しつけたまま、長く、目を閉じた。
工房の焼け跡で、彼は、リーラの姿を、見たような気がした。
幻だった。
彼は、それを知っていた。
けれど、リーラの幻は、いつかの晩のように、籠を提げて、こちらへ歩いてきていた。籠の中に、白い花の混じった葉が見えていた。
「ソーター」
幻のリーラは、低く、彼の名を呼んだ。
「鉢を、ありがとう」
颯太は、声に出さずに、頷いた。
「あの鉢で」
彼女は、続けた。
「私は、母さんの最後の薬湯を、淹れました。母さんは、最後に、この水は青いね、と笑ってくれました。先生のおかげです」
颯太は、両手で顔を覆った。
覆ったまま、長い間、声を出さなかった。
「先生」
幻のリーラの声は、次第に、薄くなっていった。
「先生の火は、まだ、終わってないよ」
颯太は、両手の隙間から、わずかに、目を上げた。
見えない、けれども、見えるような気がした。十二、三歳のままの彼女が、焼け跡の煤の中に、小さく、光ってかすんでいた。
彼は、何も答えられなかった。
答える代わりに、彼の右の小指の根元の火傷が、もう一度、痒んだ。前職の十一歳の夏、祖父の登り窯の窯出しの日に、棚板の縁に触れて作った、あの跡。十二年ぶりに、その跡が、わずかな自己主張のように、痒みを返してきた。
リーラの幻は、消えた。
消えたあと、灰の中に、彼の手のひらの上の陶片だけが、薄く、白く、残っていた。
翌朝、王女フィリスから、王宮地下への招集の使者が来た。
彼は、焼け焦げた服のままで、王宮へ向かった。
弟子の四人が、彼の後ろを、無言で歩いた。
ターナの腕には、まだ煙の煤がついていた。マルディの頬には、薄い火傷の跡があった。クェンとホブスは、互いに肩を支え合っていた。誰一人、戻ろうとは言わなかった。誰一人、休もうとも言わなかった。
王宮地下への階段は、長かった。
階段を降りるごとに、気温が、ゆっくり下がっていった。
最後の踊り場で、颯太は、振り向いた。
弟子の四人を、見た。
彼らは、彼の目を、避けなかった。
マルディの頬の火傷は、まだ、薄く湿っていた。ターナの腕の煤は、湿った布で拭き取られていたが、皮膚の奥にまで、わずかに灰色が残っていた。クェンの右の前髪は、火に巻かれた時、根元から焦げて、いまは、不揃いの長さで額にかかっていた。ホブスは、咳が、まだ、ときどき出ていた。
誰一人、立派ではなかった。
誰一人、特別ではなかった。
四人は、ただ、それぞれの形で、灰の匂いを、衣服に染みつかせていた。颯太は、その匂いを、自分の呼吸の中で、混ぜ合わせた。混ぜ合わせた呼吸を、長く吐いた。
彼は、自分の右の手のひらを、もう一度、見た。
手のひらの中に、ガランの一言と、リーラの幻と、子爵の頷きと、王女の指の動きと、亡き祖父の手帳の最後の一行が、すべて、薄く、層を成して、宿っていた。
彼は、長く、息を吸った。
吸い込んだ空気は、王宮地下の、古い、湿った石の匂いがした。
その匂いの奥に、しかし、火の気配が、薄く混じっていた。
まだ消えていない火が、地下のどこかに、ある。
颯太は、最後の踊り場の石を踏みしめて、もう一段、深く、降りた。
階段の先には、もう、戻る道はなかった。それを、彼は、足の裏で確かめながら、降りた。




