第六章 黒衣の魔導士、その名を蓮見
春の終わり、国境のヴァロン砦に、颯太は、自ら出向くことになった。
陶板の内張りの追加納入が必要になっていた。砦の鍛冶屋に作業の手順を直接伝えるため、王女フィリスの手配で、護衛の小隊と共に、彼は街道を南へ下った。同行したのは、王女の従者ヴァランと、弟子のターナの二人だった。マルディ、クェン、ホブスは、王都の工房に残った。
ヴァロン砦は、南の山地を貫く狭い峠の入り口に建つ、四つの塔を持った石造りの要塞だった。砦の周りには、近年新しく掘られた塹壕の跡があり、そのいくつかは、すでに埋め戻されていた。砦の指揮官は、隻眼の老騎士で、颯太が陶板の追加分を引き渡した時、低く頭を下げた。
「あなたの内張りは、すでに二十四人の兵士の命を、拾った」
彼は、颯太の手を握った。
「これは、礼ではない。報告だ。職人としてのあなたの仕事への、報告だ」
颯太は、握り返さなかった。
握り返す代わりに、相手の手に自分の額をつけた。それは、彼の前職の業界で、納入先の現場担当者に向けて、極めて丁寧な詫びを伝える時の作法だった。意味は伝わらなかった。けれども、隻眼の老騎士は、その姿勢を、長く受け止めた。
颯太たちが砦に滞在して三日目の昼過ぎ、伝令が走ってきた。
北東の偵察哨が、敵の小規模部隊を発見したという。部隊は通常の歩兵ではない。中央に黒い外套の人物が一人。そして、その人物の周囲十歩以内で、自軍の兵士が持つ鉄製の武具が、一斉に、急速に錆びていく現象が、観察されていた。
砦は、迅速に防衛態勢に入った。
颯太の役目は、本来、ここで終わっていた。彼は職人だった。戦場の指揮系統に組み込まれる立場ではなかった。けれど、彼は、ヴァランに低く頼んだ。
「私を、城壁の上へ、連れて行ってもらえますか」
ヴァランは、灰色の眉を、わずかに動かした。
「危険です」
「分かっています」
「殿下に、頼まれていることがあります」
ヴァランは、つけ加えた。
「あなたを、生きて、王都へ戻すこと、です」
颯太は、頷いた。
「分かっています。だから、城壁の縁の、奥の見張り台までで、結構です」
ヴァランは、しばらく颯太の顔を見ていた。
やがて、薄く頷いた。
城壁の上には、強い風が吹いていた。颯太は、見張り台の石の縁に、手をかけた。眼下、峠の細い道を、ゆっくりと、敵の小部隊が登ってきていた。先頭の歩兵は、十名ほど。中央に、馬に乗った黒衣の人物がひとり。後衛にも、十名ほどの歩兵。しかし、本当の戦力は、その黒衣の人物ひとりに、ほぼ全てが集まっていた。
黒衣のフードは、深く下ろされていた。
颯太の場所からでは、その顔は、見えない。
けれども、馬に乗ったその姿勢、馬の歩ませ方、片手の指の細い動き――そのいくつかが、彼の頭の奥で、ある人間の輪郭と、ぴたりと重なった。
颯太は、見張り台の縁を、思わず強く握った。
石の冷たさが、指の関節まで届いた。
黒衣の人物は、見張り台のほぼ正面の位置で、馬を止めた。
止めた馬の上で、彼は、片手を高く上げた。
次の瞬間、砦の城門の鉄具の上に、薄い赤茶色の幕のようなものが、ふわりと走った。鉄が、見ている前で錆びていった。鉄の閂が、軋み、ひび割れた。
兵士たちが、口々に短く叫んだ。
颯太は、叫ばなかった。
代わりに、彼は、見張り台の縁から、一歩、身を乗り出した。
「ヴァラン殿」
彼の声は、自分でも信じられないほど、低く落ち着いていた。
「一度だけ、あの人物の、フードを上げさせる方法はありますか」
「方法、とは」
「なんでも、構いません」
ヴァランは、しばらく颯太の横顔を見ていた。
それから、無言で背中の弓を取った。
ヴァランは、矢を、放った。
矢は、敵の黒衣の人物のフードの脇を、紙一枚の隙間で抜けた。フードの留め紐が、その勢いで、ぷつりと切れた。
黒衣の人物のフードが、風の中で、後ろへ跳ねた。
顔が、見えた。
遠かった。
遠かったが、颯太には、見えた。
薄い唇。三十代半ばの、痩せた頬。少し下がった目尻。額の生え際の、わずかな後退。
蓮見修司、だった。
颯太は、見張り台の石の縁を、握りしめたまま、しばらく呼吸が止まった。
心臓が、止まったわけではなかった。脈は、むしろ普段より速かった。けれど、肺の動きが、止まった。彼の体は、自分の見ているものを受け入れるのに、数秒、必要だった。
眼下の蓮見も、城壁の上を見上げていた。
その目が、颯太の場所で、止まった。
蓮見の顔の下半分に、緩やかに、薄い笑いが広がるのが、颯太には、はっきりと分かった。蓮見の唇は、声には届かない距離で、しかし、明らかに、ある言葉のかたちをした。
お前もか、と。
颯太には、その口の動きが読めた。
蓮見は、それから、馬上で、わずかに頭を下げた。礼ではなかった。商談で、相手の弱みを見つけた時の、あの蓮見の癖の頭の下げ方だった。颯太の前職の会議室で、十二年、何度も見た仕草だった。
蓮見は、馬を返した。
戦闘は、なかった。
彼は、自軍の小隊を、ゆっくりと峠の向こうへ引き上げさせた。砦の城門の鉄具の錆は、それでも消えなかった。
颯太は、見張り台の縁から手を離した。
手のひらに、石の凹凸が、白く跡を残していた。
その夜、砦の食堂の脇の、小さな空き部屋で、颯太は、ターナの前で、初めて崩れた。
崩れた、というより、足が、立たなかった。
ターナは、颯太を、藁敷きの上に座らせて、自分は壁に背を預けた。彼女は、何も尋ねなかった。
部屋の隅の小さな暖炉で、湿った薪が、低く、息切れのような音を立てていた。煙が、煙突の途中で、わずかに引き返してきていた。颯太は、その煙突の構造を、ぼんやりと頭の中でなぞっていた。なぞることで、自分の心拍を、もとに戻そうとしていた。
「私は」
颯太は、自分の手のひらを見つめながら、低く言った。
「あの黒衣の男を、知っている」
ターナは、静かに頷いた。
「先生の、前世の知り合いですか」
颯太は、ターナを、ゆっくり見た。
「お前は、私が前世から来たことを、知っていたのか」
「マルディが、最初に気づきました」
ターナは、わずかに苦笑した。
「先生の、手の動きの中に、ない言葉が、いくつかあります。私たちは、それを、別の世界の言葉だと、勝手に決めました。四人で、決めました。クェンとホブスとマルディと、私です。誰にも言いません」
颯太は、しばらく言葉を返せなかった。
四人の弟子が、いつのまにか、彼を、彼ごと、受け止めていた。前職の会議室では、誰も彼を「ごと」では受け止めなかった。彼の名前すら、書類から落ちていた。けれど、ここでは、彼の名前を呼ぶ前に、彼の手の動きが、四人の弟子の沈黙の中に、すでに住んでいた。
「あの黒衣の男は」
颯太は、ターナのほうへ、少しずつ口を開いた。
「私の、前職の、上司だ」
ターナは、頷いた。
「先生を、踏みつけていた人ですか」
「ああ」
「そうですか」
ターナは、それ以上、何も言わなかった。
彼女は、立ち上がって、暖炉の脇から、薄いエールの入った杯を取って戻ってきた。颯太の前に置いた。颯太は、杯を、両手で包んだ。手のひらに、暖炉のわずかな熱が、伝わってきた。
彼は、長い時間をかけて、エールを、半分まで飲んだ。
飲み終える頃、彼の呼吸は、ようやく、落ち着き始めていた。
「先生」
ターナが、低く呼んだ。
「私の兄は、二年前、国境の戦で死にました。その時、兄を斬ったのは、敵兵ではありません。錆びた剣を握ろうとして、刀身が砕けて、自分の頸動脈を切ったんです」
颯太は、顔を上げた。
ターナの目は、暖炉の火を、まっすぐに見ていた。
「兄の剣を錆びさせたのが、もし、あの人なら」
彼女の声は、震えなかった。
「先生、私は、先生の手伝いを、続けます」
颯太は、ターナを、しばらく見ていた。
彼は、彼女に、ありがとう、と言わなかった。
ありがとうは、彼の前職の業界で、責任を曖昧にする時に、上司が部下に向かって、よく口にした言葉だった。颯太は、その言葉を、いま、ここでは、絶対に使ってはならない、と思った。
代わりに、彼は、頷いた。
深く、ひとつだけ。
ターナも、頷き返した。
翌日、ヴァランから、王女宛ての伝令の準備の申し出があった。
颯太は、その伝令の便に、自分の覚え書きを一通、添えてもらうよう頼んだ。覚え書きの中には、敵の魔導士の正体についての、彼自身の確信は、書かなかった。書いたのは、ひとつだけだった。
敵将の魔法は、酸化魔術と思われる。我々の対抗は、還元の理に基づくべし。
彼は、それを書きつけて、封をした。
封蝋の上に、彼は、自分の小指の根元の火傷の跡を、軽く、押しあてた。意味のある所作ではなかった。ただ、自分の体の一部分を、その封の上に、置きたかった。
馬車が、砦の門を出た時、空には、薄い雲が広がっていた。
雲の隙間から、夕方近くの陽が、斜めに差した。
颯太は、馬車の中で、ヴァランに尋ねた。
「ヴァラン殿、酸化、という言葉は、この国の言葉に、ありますか」
ヴァランは、しばらく考えてから、答えた。
「ありません」
「では、還元、は」
「ありません」
颯太は、頷いた。
頷きながら、彼は、長く、息を吐いた。
ふたつの言葉は、この異界の言語のなかには、ない。
それなのに、ガランの口から、王女の古文書から、そして自分の祖父の手帳から、その言葉は、確かに鳴っている。
火を、借りる。
借りた火は、いずれ、誰かに、返さねばならない。
颯太は、馬車の窓の外を、流れる丘の稜線を、長く眺めていた。
丘の向こうから、王都の方角に、薄く一筋、煙が立ちのぼっていた。
誰のものとも知れぬ、夕餉の煙だった。
王都に戻った夜、颯太は、王宮の小さな客間に呼ばれた。
客間には、王女フィリスが、たった一人で待っていた。彼女は、白い夜着に、薄い肩掛けを纏っていた。手元に、灯がひとつ。窓の向こうの王宮の中庭では、噴水の水音が、低く続いていた。
「お疲れ様でした」
彼女は、まず、それを言った。
颯太は、頭を下げた。
「ヴァランから、手紙を受け取りました」
王女の声は、いつもより少し低かった。
「敵将の正体について、あなたは、何か、ご存じなのですね」
颯太は、しばらく沈黙してから、ようやく頷いた。
「私の、前職の、上司です」
王女の眉が、わずかに、動いた。
「前職、というと、あなたが元いた世界の」
「はい」
「……お辛いですね」
彼女は、それだけを、低く言った。
颯太は、自分の口の端に、苦い笑いの形が浮かぶのを、自分でも止められなかった。
「殿下」
彼は、灯の方を見た。
「私は、彼を、見返したくて、こちらの世界の窯を直しているのではありません。少なくとも、最初は、そう思っていました。けれど、今日、彼の顔を見て、自分が、まだ、どこかでそう思っていたのだと、気づきました」
王女は、頷きはしなかった。
ただ、灯の脇の素焼きの碗を、自分の指でそっと撫でた。颯太が献上した、最初の三十個のうちのひとつだった。
「それは、職人の動機としては、純度が低い、と」
王女は、低く言った。
「あなたは、思っていらっしゃる」
「はい」
「私は、そうは思いません」
彼女は、目を上げた。
水色の瞳が、灯のなかで、わずかに揺れた。
「動機の純度は、結果が決めます。あなたの作った陶板は、二十四人の兵士の命を、拾いました。あなたの動機がどれほど不純であろうと、その事実は、変わりません」
颯太は、しばらく、答えられなかった。
答えられないまま、彼は、ただ、王女の指の動きを、見ていた。彼女の指は、碗の縁を、ゆっくり、何度も撫でていた。
その指の動きを、彼は、しばらく忘れたくない、と思った。
思った瞬間に、自分が、思った、ということに、気づいた。
彼は、目を伏せた。
その夜、工房に戻る帰り道、王宮の長い廊下で、颯太は、もう一度、ヴァランとすれ違った。
ヴァランは、いつものように、軽く瞼を伏せた。
すれ違いざま、彼は、低い声で、たった一言、颯太に告げた。
「殿下のお父君、王陛下は、ご病気が重い」
颯太は、振り向いた。
ヴァランは、もう、廊下の影の方へ歩み去っていた。
颯太は、しばらく、その背中を見送っていた。
窓の外で、月が、二つ、薄く重なっていた。重なってはいたが、ぴたりとは合っていなかった。わずかにずれた二つの月のあいだから、薄い光の筋が、地上の塔の屋根の上に、長く伸びていた。
颯太は、自分の右の手のひらを、もう一度、見た。
手のひらは、いま、冷たく、薄く、湿っていた。
彼は、その手を、ゆっくりと握り直した。




