第五章 失われた古代窯業と、敵国の影
王都リオスは、城下町ヴィエルセンの五倍の規模の都市だった。
大河アスティの河口に近い高台に建つ王城は、淡い灰色の石でできていた。城の足元の港には、二十隻近い帆船が舫っていた。その港から続く石畳の通りには、香辛料、毛織物、葡萄酒、塩漬けの魚、そして、絹の反物の臭いが、層を成して漂っていた。颯太は、馬車の窓越しに、その光景を、長く眺めていた。
王女フィリスが用意した工房は、王城の南西の塀の外、王立学院の裏手にあった。
もとは王家の御用陶工が使っていた工房だった、と王女は説明した。御用陶工は二代前に途絶えた。それ以来、この工房は、年に二度の煤払いだけが行われ、誰にも使われずにきた。
颯太が中に入った時、彼の手は、自然と煉瓦の壁に触れた。
古い、けれど、丁寧に積まれた壁だった。
壁の内側には、粘土の貯蔵庫、釉薬の調合室、ろくろ用の小部屋、それから、四段組みの登り窯までが、ほぼ完全な形で残っていた。窯の煤は、長年の眠りの中で、艶を失わず、むしろ静かに育っていた。
颯太は、子爵領から連れてきた弟子の四人――マルディ、ターナ、クェン、ホブス――を振り返った。
四人は、それぞれの目で、その工房の中を見回していた。
「お前たちの新しい職場だ」
颯太は、それだけ言った。
ターナが、初めて、工房の中で短く笑った。
マルディは、棚の上の古い壺を、丁寧に持ち上げて埃を払った。クェンは、登り窯の煙突の根元を、手のひらで叩いて音を確かめた。ホブスは、ろくろの心棒を、無言で回した。心棒は、長い眠りにもかかわらず、なめらかに回った。
颯太は、戸口の方へ目をやった。
戸口の外には、王女の従者がひとり、いつもの姿勢で控えていた。背の高い、髪の白い男だった。名は、ヴァラン。彼は、王女の幼少からの護衛であり、剣の達人であり、口の少ない男だった。颯太とほとんど目を合わせない。けれど、彼の沈黙は、敵意のそれではなかった。判断を保留しているだけの沈黙だった。
颯太は、ヴァランに向けて、軽く頭を下げた。
ヴァランは、頷きはしなかった。瞼を、ほんの少しだけ伏せた。それで、十分だった。
古文書庫は、王立学院の三階の最奥にあった。
王女フィリスが、自ら鍵を開けて颯太を案内した。書庫には光が乏しく、油の匂いと、乾いた羊皮紙の匂いと、古い木の匂いとが、互いに譲り合うように混ざり合っていた。
王女は、棚の三つ目の段から、一冊の薄い書物を取り出した。
「『継ぎ手の灰』です」
彼女は、書物を作業机の上に置いた。
「失われたとされていますが、王家には、こうして写本がひとつだけ伝わっています」
颯太は、書物の表紙に手を伸ばした。
革表紙の文字は、彼には読めない。けれど、不思議なことに、その表紙を撫でた瞬間、彼の頭の中で、文字の意味の輪郭が、靄のように立ち上がった。リーラと最初に話した時の、あの感覚に近かった。
書物の中身は、半分が図、半分が文だった。
図には、三十六の壺の配置を示す大陸地図があった。文には、壺の素地の組成、釉薬の配合、焼成の温度履歴、そして、焼成者の心構えにまで及ぶ覚え書きが、びっしりと書き込まれていた。
颯太の指が、地図の中央付近の壺のひとつで止まった。
彼の知っている、王都の中央神殿の位置と、ほぼ重なっていた。
「殿下」
彼は、地図から目を上げた。
「この、中央の壺は、いまも――」
「あります」
王女は、低く答えた。
「そして、亀裂が、入っています」
颯太の背中を、わずかな悪寒が走った。
王女は、続けて、もうひとつの書物を取り出した。
こちらは、壺の現状を記した王家の調査報告だった。三十六の壺のうち、すでに八つが完全に風化して機能を失っていた。残る二十八のうち、十四に深い亀裂が入っていた。亀裂からは、報告書の中で「黒煤」と呼ばれる瘴気が漏れ出していた。瘴気は、ゆっくりと、しかし確実に、大地の腐朽を進めていた。
「継ぎ手の民は、すでに途絶えています」
王女は、書物のひとつのページに、長く白い指を置いた。
「『継ぎ手の灰』には、こうあります。継ぎ手は、火と土と水の声を、自分の手で聞く者である、と。私は、あなたの作った鉢を見た時に、思いました。この方の手は、声を聞いている。だから、私は、あなたを呼んだのです」
颯太は、しばらく黙っていた。
黙ったまま、彼は、書物の文字の輪郭を、目で追っていた。
継ぎ手、という言葉に、彼はまだ、抵抗があった。
けれど、書物のページの片隅、彼が指で押さえた箇所に、ひとつの文があった。
酸化は、世を朽ちさせ、還元は、世を還す。
彼の指が、その一行の上で、止まった。
止まったまま、しばらく動かなかった。
還元は、世を還す。
祖父の手帳の、最後のページの一行と、寸分違わぬ意味の一行が、この異界の古文書のなかにも、書かれていた。
颯太は、ようやく、口を開いた。
「……継ぐかどうか、私には、まだ分かりません」
王女の眉が、わずかに動いた。
「ですが、亀裂が入っている壺を、もう一度焼き直す方法は、私の手なら、たぶん、見つけられます」
彼は、書物から目を上げた。
「私は、職人として、その仕事を、お引き受けします」
王女は、深く頷いた。
そして、その日、初めて、彼に向けて、ふっと年相応の少女の笑みを、長く見せた。
書庫の窓から、午後の遅い陽が差した。羊皮紙の埃が光の柱の中で揺れた。颯太は、その埃を見つめながら、自分の前職の工場の、深夜三時の覗き穴の前のことを、ふと思った。あそこには、こんな埃の輝き方をする光は、なかった。蛍光灯の白い光と、覗き穴の中の火の橙だけだった。
「殿下」
彼は、書物を閉じる前に、もうひとつ尋ねた。
「『継ぎ手の灰』は、誰の手によって、書かれたものなのですか」
王女は、少し考えてから答えた。
「分かっていません」
彼女の指が、表紙の上で、ゆっくり動いた。
「ただ、最後の頁の余白に、こうあります。我、火を借りて、世を返し終えた、と。つまり、これを書いたのは、自分の役目を終えた継ぎ手なのです」
颯太は、その一文を、口の中で繰り返した。
火を借りて、世を返し終えた。
借りる、という言い方が、彼の耳に深く残った。
火は、どこから借りるのか。
誰に、返すのか。
その問いは、その日は、まだ答えを持たなかった。
王都へ来てひと月が経った頃、颯太の元に、領主の使いから一通の書状が届いた。
書状は、子爵領の南の国境から、騎士団の急報として送られたものだった。隣接する大国、ガロン帝国の軍が、国境の数カ所で小競り合いを起こしている。これまで五十年、双方が守ってきた国境協定が、揺らいでいる。
颯太は、書状を読みながら、しばらく黙っていた。
彼の前職の業界の感覚で言えば、それは、長く続いた競合相手との価格協定が崩れ始めた、というのに近い。けれど、ここでは、その協定の崩れは、人の血で記される。
書状とともに、ひと振りの剣が届いていた。
国境の砦で、騎士団が捕獲した、敵の上官の佩刀だという。
颯太は、剣を鞘から抜いた。
刃の表面に、独特の文様が浮いていた。
それは、一目で、彼に分かった。
粉末を高温で固めて鍛え直した刃の、断面に出る、あの紋様。
彼の前職の業界用語で言えば、粉末冶金。
現代知識でなければ、決してこの世界で再現できないはずの技術が、敵の剣に、はっきりと宿っていた。
颯太は、剣を鞘に戻した。
戻した手の指先が、わずかに冷たくなっていた。
その夜、颯太は、工房の作業机で、ひとつの試作を始めた。
彼は、薄い陶板を作っていた。
粘土に、骨材として砕いた耐火煉瓦の粉と、わずかなオリヴィン質の石粉とを混ぜる。これを薄く伸ばし、表面に細かい溝を入れる。焼成は、還元雰囲気で、千二百度を維持する。出来上がったのは、わずかに灰がかった、堅い陶板だった。
最初の試作は、十枚作って、九枚が割れた。
残った一枚を、颯太は、自分の右手のひらに乗せた。指で軽く弾くと、低い、しかし芯のある音がした。十一歳の夏の祖父の窯出しの日に、棚石を弾いた時の音と、よく似ていた。颯太は、その似ていることを、誰にも言わなかった。
二度目の試作で、五枚が無事に焼き上がった。
三度目には、十枚すべてが残った。
ターナが、最初の一枚を、自分の胸に当ててみた。
「先生」
彼女は、振り向いて言った。
「これ、もし……兄に、当ててやれたら、よかった」
ターナの兄は、二年前に国境の戦闘で死んでいた。
颯太は、それを、初めて知った。
彼は、ターナの目を見て、しばらく黙ってから、ひとつだけ頷いた。
「これからの兄を、守るためのものだ」
彼の声は、低かった。
ターナは、頷き返した。それから、もう一度、陶板を胸に当てた。
その陶板を、彼は革で包み、絹の薄い布で包み直した。
翌朝、彼は王女に試作を見せた。
「これは、何ですか」
王女が尋ねた。
「胴鎧の、内張りです」
颯太は、答えた。
「鋼の鎧の内側に、これを縫いつけます。剣で打たれた時、衝撃の一部を、この陶板が吸収して、割れます。割れることで、内側の皮膚を、わずかに守ります」
王女は、しばらく沈黙してから、薄く頷いた。
「……職人の仕事ですね」
「はい」
颯太は、頷き返した。
「私は、武器は、作りません。鎧の、内側だけを、作ります」
王女の唇が、わずかに動いた。
「あなたは、ご自分の線を、よくご存じですね」
「線がなければ」
颯太は、低く言った。
「腐ってしまうので」
王女は、その言葉を、しばらく胸の中で繰り返しているようだった。
ふた月後、国境の砦に、颯太の作った陶板の内張りを縫いこんだ胴鎧が、十着、運ばれた。
最初の戦闘の報告は、初冬の雪の便りとともに、王都に届いた。
国境の砦の隊長が、敵の魔法剣の一撃を、その内張りで受け止めた。陶板は、肋骨の高さで割れた。割れた陶板の破片が、隊長の脇腹に薄く入った。けれども、隊長は生きて戻った。
その報告を聞いた朝、王女フィリスは、自ら工房を訪ねた。彼女は、薄い銀色の毛織の外套を纏っていた。雪が、外套の肩に小さく積もっていた。颯太は、王女を作業机の前に招き、自分が朝に淹れたばかりの薄いお茶を、素焼きの碗に注いで差し出した。
「あなたの陶板で、ひとり、命を拾いました」
王女は、碗を両手で包んだ。
手のひらの温かさが、碗の側面を、わずかに湿らせた。
「殿下」
颯太は、頷きはしなかった。
「陶板は、あくまで、内張りです。あれは、命を拾うものではなく、命を返すまでの、ほんのわずかな時間を稼ぐものです。残りは、あの兵が、自分の足で稼いだものです」
王女は、視線を上げて颯太を見た。
彼女は、何かを言いかけて、口を閉じた。閉じてから、もう一度、ゆっくりと開いた。
「あなたは、ご自分の手柄を、決して、認めない方ですね」
「手柄ではないからです」
颯太は、淡々と答えた。
王女は、その答えに、ほんの少しだけ、何かを呑み込んだような顔をした。
雪が、工房の窓の格子の桟に、薄く積もっていた。
報告書には、もうひとつ、別の記述があった。
敵軍に、黒衣の参謀魔導士が現れている。年齢は若く、痩せていて、金属を錆びさせる呪文を扱う。自軍の兵士の幾人もが、剣の刃を一瞬にして錆びさせられ、戦闘中に武器を失った。
颯太は、その記述を、二度、繰り返し読んだ。
二度目の終わりに、彼は、机の引き出しから、革の手帳を取り出した。
祖父の手帳ではなかった。
彼が、王都に来てから新しく綴り始めた、自分の覚え書きの帳面だった。
彼は、その白いページの一行目に、初めて、ひとつの単語を書きつけた。
酸化。
書きつけて、彼は、しばらく筆を置いたまま、自分の手のひらを、じっと見つめていた。
手のひらに、まだ、覗き穴の青の名残があった。
名残は、じわりと、冷たくなり始めていた。
黒衣、痩せている、若い、金属を錆びさせる――その四つの言葉が、彼の頭の中で、ある一人の人間の輪郭を組み立てかけていた。颯太は、その組み立てを、まだ完成させなかった。完成させてしまえば、夜が眠れなくなる、と分かっていた。
窓の外で、王都の冬の風が、塔の鐘を低く鳴らした。
工房の下の路地で、夜回りの兵が一人、長く咳をした。
颯太は、ようやくペンを置いて、灯を吹き消した。
その夜、彼は祖父の手帳を、いつもより少し長く、胸の上で抱えて眠った。
夢の中で、深夜三時の覗き穴の青と、敵将のものらしい黒い外套の影とが、ひとつの炎の周りを、交互に回っていた。颯太は、その夢を、朝の光で見送った。見送ったあと、彼は工房の煙道を、もう一段、深く掃除した。




