第三章 穴窯の煙、谷を越える
窯の修復から始めるしかなかった。
崩れた天井部の石を運び直し、間に粘土を詰めて固める。颯太はリーラを呼び、村の少年たちを呼び、最後にはガランの肩を借りた。村人は半信半疑だった。穴窯の跡に手を入れることは、何代か前から、村ではある種の禁忌のようにもなっていた。けれども、リーラの母の咳が引いたことが村中に伝わって、颯太の手の動きを、誰も止めようとはしなかった。彼らは黙って遠巻きに見ていた。
颯太は、工程をひとつずつ口の中で確かめながら手を動かした。
まず、粘土。村のはずれの川の蛇行点で、岸辺の土を採る。粒の細かい赤褐色の土。指先で潰すと、わずかに鉄の臭いがする。これを布で漉して、雑物を取る。樽に水を張って沈め、上澄みを捨てる。重いほうの粘土層だけ、別の樽に集める。これを一晩、寝かせる。
次に、土練り。
颯太は、村で一番大きな板を借りて、その上に粘土の塊を置いた。両手のひらで押しつけ、向こう側へ伸ばし、また手前に折り返す。同じことを、五十回。粘土の中の気泡が、ひとつずつ抜けていく。手のひらに伝わる抵抗が、徐々に均一になる。リーラはその音を、家の戸口で長いこと聞いていた。
「ソーターの手は、土を、聞いているみたい」
リーラがそう呟いたのを、颯太は聞かなかったことにした。
聞こえなかったわけではなかった。
ただ、その言葉を受け取るには、彼の手はまだ、土の真ん中にいた。
ろくろの代用具は、簡単な手回しの円盤を作った。
硬い樫の輪切りを台座にして、中央に鉄の心棒を立てる。心棒の周りに、油代わりの獣脂を塗り、その上に、皿のような円板を重ねる。手で押せば回る。回しながら、土を成形する。ろくろ職人ではない颯太の手では、薄手の碗を引き上げるところまではいかない。けれど、深皿、片口、水甕、すり鉢、そして食卓の鉢。それぐらいまでなら、十分に成形できた。
彼はまず、十個ほど作ってみた。
一個目は、形が歪んだ。指の腹の力の入れ方が、この円板の回転速度に合っていなかった。二個目で、彼は速度を合わせた。三個目で、肉厚を均した。五個目から先は、迷いがなかった。十個目に作った深鉢は、彼自身が静かに息を吐くほどの形になった。
乾燥は、村の南向きの石垣のそばに、麻布を敷いて並べた。
日に当てすぎると、外側だけ乾いて、内側との収縮差で割れる。颯太は天気を見て、麻布の上に、別の薄い布を重ねた。風の通り道を二度迂回させて、ゆっくり水を抜く。リーラが、そのそばを通るたびに、自分の足音を小さくして歩くようになった。
乾いた素地を、まずは穴窯で素焼きする。
素焼きは、低温で長く焼く。焚口から薪を投げ入れて、ゆっくりと温度を上げる。颯太は薪の太さを、自分の親指と人差し指で測りながら投げた。村人たちは、彼の指の幅を真似して、太さを揃えた薪を運んできた。誰も、命じられはしなかった。命じる颯太の声がなかった。命じる代わりに、彼は手を動かしていた。手の動きを、村人は、誰もが目で追うようになっていた。
釉薬の調合に、彼は二日かけた。
基本になるのは、草木灰だった。リーラに頼んで、楢に近い性質の樹を村のはずれで集めた。それを乾燥させて燃やし、灰だけを取り出す。次に、川の蛇行点とは別の場所、村の北側の小さな崖から、白っぽい長石風の鉱石を砕いて取った。これを細かく挽き、灰と混ぜる。最後に、ほんの少し、川の岸辺の鉄分の多い赤い土を加える。これが、発色の鍵になる。
配合は、感覚で決めた。
彼の頭の中には、祖父の手帳の最初のほうの、配合表のページが浮かんでいた。それと、十二年の現場で叩き込まれた目分量。けれど、ここの土と、ここの灰と、ここの水で、配合は微調整しないと合わない。彼は何度か小さな試験皿を焼いて、釉の流れ方と発色を確かめた。三度目の試験で、彼は頷いた。
本焼きの日は、よく晴れた。
風は、北西から南東へ、弱く一定。煙の流れる方向としては、悪くない。颯太は、夜明け前から窯の前に立った。リーラは、ガランの肩を借りて、少し離れた草地に腰を下ろした。村人たちは、村の中ほどから、こちらを見ていた。怖がっている者もいれば、何かを期待している者もいた。
火入れ。
最初の薪は、細い小枝。次に少し太い枝。徐々に、太い丸太へ。颯太は、温度の上がり方を、煙突から立つ煙の色で読んだ。白から灰へ、灰から薄青へ。煙の色が薄青に変わったところで、彼は脇に積んでおいた、もう一段太い薪を投げ込んだ。火室の奥が、ぐん、と明るくなった。
還元の工程は、午後の遅い時刻に来た。
颯太は、焚口の脇に作った空気孔の蓋を、わずかに引いた。炉内の酸素が絞られた。火の色が、外から見ても、それと分かるほどに変わった。橙が、赤に。赤が、深い赤紫に。煙突から立つ煙の色が、薄青から、もっと濃い、夕暮れ近くの空のような青へ。
ガランが、遠くで、声を上げずに、何度も頷いていた。
リーラは、息を止めていた。
颯太は、空気孔をもう一段、引いた。
炉の中の炎が、白くなった。
窯の前に立つ颯太の影が、地面に長く伸びた。彼の輪郭は、夕日と窯の火の両方からの光を受けて、二重に縁取られていた。手のひらは、もう半日、薪と土と石にしか触れていなかった。その手のひらが、覗き穴に翳された時、皮膚の繊細な毛羽のひとつひとつが、火の流れの強弱を読み取った。
頭の中の祖父の手帳が、最後のページを開いた。
還元は、世を還す。
あの一行が、いまは詩心の発作には聞こえなかった。聞こえなかった、というよりも、彼の手のほうが、その一行を、信じ始めていた。手はもう、薪を一本、二本、と、炉の中の火の機嫌に合わせて投げ込んでいた。投げる手と、書かれた一行の意味とが、彼の中でわずかに、初めて、同じ速さで揺れていた。
日が、丘の向こうへ沈んだ。
颯太は、最後に、空気孔を、ほぼ完全に閉じた。
炉の中の白い炎が、わずかに息を細めた。煙突の煙が、ふっと低く沈んだ。火を、殺してしまうぎりぎりの手前。そこで、もう一度、ほんの少しだけ、空気孔を戻す。火は、低くしゃがんだまま、息を整え直した。これでいい。あとは、自分の手を離して、火に焼かせる時間だ。
颯太は、初めて、窯の前から後ろへ三歩下がった。
三歩下がった足元の地面が、いつのまにか冷えていた。
彼の額から、滴がひとつ落ちた。
滴は、土に吸われて、すぐに見えなくなった。
窯出しは、それから三日後だった。
窯を冷ますあいだ、村は、奇妙な静けさに包まれた。誰も、窯の話をしなかった。話せば、出てくるものに何かの呪いがかかると、年寄りの誰かが言ったらしかった。颯太はその言い分を笑わなかった。窯出しの前夜の沈黙を、彼自身、十二年、毎回の窯出しの前に味わってきた。
三日後の朝、彼は窯の蓋を開けた。
最初に取り出したのは、十個目の深鉢だった。
蓋を取った瞬間、村のあちこちから、声にならない声が、いっせいに漏れた。
深い、青だった。
藍とも違う、紺とも違う、薄明のように、暮れ近くのように、しかし夜ではない、その間際の空の色。鉢の縁から内側へかけて、釉が静かに流れて溜まっていた。その溜まりの底に、ほんの一点、星のような白い斑が浮かんでいた。窯変。意図して出せるものではない。火と灰と土とが、その瞬間にだけ手を貸した、唯一の偶然。
颯太は、しばらくそれを胸の前で抱えていた。
彼の指先は、鉢の縁を、なぞるように撫でていた。
ここに焼き上げられたのは、十二年ぶんの、彼の覗き穴の青だった。
覗き穴の枠を超えて、彼自身の手の上に、その色は出てきた。
最初に声を上げたのは、リーラの母だった。
母は、土間の奥から自分の小さな水甕を抱えてきて、颯太の前に置いた。それから、その甕に張った水を、颯太の鉢に注いだ。鉢の中で、水が、青の中の青になった。母は、何度も小さく頭を下げた。それから、リーラの手を取って、その鉢の縁にそっと触れさせた。
「母さんの遺品の壺は、もう割れてしまっていたから」
リーラは、静かに言った。
「これが、新しい母さんの壺になる」
颯太は、何も答えなかった。
答える代わりに、彼は窯の中から、次の器を取り出した。
二個目の片口、三個目のすり鉢、四個目の水甕。それぞれに、深さの異なる青があった。火の通り道に近かった器は、わずかに灰がかった青。火から少し遠かった器は、底に夜の青が溜まっていた。完璧な器など、ひとつもない。けれど、ひとつとして、同じ表情の器も、なかった。
ガランは、最後に取り出された一番小さな碗を、両手で受け取った。
受け取った両手が、震えていた。
「親父の、見た色だ」
ガランは、ぽつりと言った。
「俺の親父が、亡くなる前の晩に、語ってくれた色だ。俺は信じなかった。詩心の発作だと思ってた。お前さん、覚えのある言葉だろう」
颯太は、苦笑のような小さな笑いを、唇の片端だけで漏らした。
そう、覚えのある言葉だった。
その夕方、煙が、谷を越えた。
颯太は気づいていなかった。煙は、彼が本焼きをしていた間も、窯出しの三日のあいだも、燠村の上空に、薄く、しかし確実に立ち続けていた。風が穏やかな日には、煙は谷を渡り、隣の谷の住人の鼻先に届いた。隣の谷には、領主の屋敷へ続く街道があった。街道を行き交う商人や巡回兵の鼻先に、その煙の匂いは届いていた。
窯出しから二日後、村の入り口に、馬の蹄の音が立った。
二頭の馬。一頭は灰色、一頭は栗毛。乗り手は、革の鎧を着けた青年と、襟に紋章のついた灰色の外套を纏った中年の男だった。中年の男は馬を下りて、村の長に向かって名乗った。颯太には、その名乗りの半分が分かり、半分が分からなかった。けれど、長の表情の固さと、村の女たちが家の戸を半分閉めた動きで、彼にも事情は伝わった。領主の使いだった。
使いの男は、村の長の案内で、まっすぐに颯太の前に立った。
男の目は、颯太の顔を見ていなかった。
男の目は、颯太の足元に並べられた、青の鉢の列を見ていた。
「これは」
男は、ようやくのことで一言だけ呟いた。
「これは、何だ」
颯太の隣で、リーラが小さく息を吸う音がした。ガランは、灰色の目を、ただ静かに男のほうへ向けていた。
颯太は、答える前に、自分の右手を、鉢の縁にもう一度触れさせた。
鉢の縁は、まだ、わずかに温かかった。
「鉢です」
彼は、そう答えた。
不思議と、その答えは、口に出してから、彼自身の中でいちばんしっくり来た。
「水を、汲む鉢です」
領主の使いは、長く息を吐いた。
吐いた息の中に、あたたかい何かと、冷たい何かが、半々に混じっていた。
「お前さん、名は」
「キリュウ・ソータと、申します」
その名を、彼が、この世界で初めて、自分の口から声に出した瞬間だった。
使いの男は、颯太の名を、自分の手のひらに小さく書きつけた。
書きつけた指先の動きを、ガランが、見えないはずの灰色の目で、最後まで追っていた。
使いの男は、しばらく言葉を選ぶように沈黙してから、灰色の外套の襟を直して、再び口を開いた。
「我が主、エディン・カラル・ヴィエルセン子爵閣下が、お前さんに会いたいと申されている」
子爵、という言葉だけ、颯太には正確に届いた。
けれど、それが何を意味するのか、彼には実感がなかった。実感のないまま、彼はもう一度、足元の鉢を見た。鉢の青が、夕暮れの最後の光をやわらかく受け止めていた。
「私は、この村で、まだ仕事の途中です」
彼は、そう答えた。
使いは、わずかに眉を上げて、しかし呆れたような笑いを口の端に浮かべた。
「途中の仕事は、続けるがいい。城下に、お前さんのために、もっと広い窯場を用意しよう」
ガランが、初めて、その言葉に体を動かした。
老人は、颯太の袖をそっと引いた。
「ソーター」
ガランの灰色の目が、颯太のほうへ向けられた。
「行きなさい。お前さんの火は、この村だけに留めるには、大きい」
颯太は、首を振りかけた。
振りかけて、止めた。
ガランの言葉のなかに、年寄りの抒情ではない、もっと厳しい何かがあった。それは、自分が育てた火に、自分よりも先に死んでいくものを送り出す、そういう声だった。颯太は、その声に逆らえなかった。
風が、もう一度、北西から南東へ抜けた。
窯の煙は、もう細く、かすかにしか立っていない。それでも、その煙の細い線は、確かに谷を越え、もう一つ向こうの山の斜面のほうへ、ゆっくりと吸い込まれていった。
その夜、リーラは、窯場の前で、ひとり、長く立っていた。颯太は気づかないふりをして、ガランの小屋の灯りのほうへ歩いた。背中で、リーラがいつまでも煙の名残を見ていることが、なぜか分かった。




