第二章 燠村のリーラと、忘れられた窯
少女の名は、リーラといった。
颯太が連れて行かれたのは、三十戸ほどの小さな集落だった。リーラはこの村を「燠村」と呼んだ。颯太の頭の中で、その音は炭火の燠と重なって、不思議としっくり来た。村の家々は、黒ずんだ木と、灰色の石を組んだ低い建物だった。屋根は薄い板を重ねたもので、ところどころ苔が生えている。煙突の先からは、朝餉の煙が細く立ちのぼっていた。
その朝、リーラの家の戸口に立って颯太を迎えたのは、痩せた女だった。リーラの母だった。
女は颯太を一目見て、すぐに何かを察した目をした。村の言葉で何事かを口早に言って、それから無言で、家の奥の藁敷きを指した。颯太に、そこへ座れということだった。
颯太は座る前に、土間の隅で煮立っている小鍋に目を留めた。
黒い鋳鉄の鍋だった。中で、リーラが籠から取り出していたのと同じ葉と根が、薄茶色の湯の中で揺れている。蓋はない。湯気の立ち方が、彼の知っている薬草の煎じ方より、わずかに荒い。
颯太は、自分でも驚くほど自然に、鍋の縁に手を伸ばしていた。
女が、ぴくりと身を強張らせた。リーラが慌てて何かを言いかけた。
颯太は、湯気のすぐ上に、手のひらをかざした。皮膚で湯気の温度を測った。それから、もう一度、鍋の鋳鉄の縁を、指の腹で軽く撫でた。鉄の冷たいような、しかし熱で歪んだ独特の手触り。
彼は、振り向いてリーラを見た。
言葉は出なかった。出ないはずだった。彼にはこの土地の言葉がわからない。けれど、なぜか今朝から、相手の言いたいことの輪郭は、頭の中で勝手に絵になる。颯太は鍋を指差した。次に、戸口の脇に積まれた、素焼きらしい古い土器の壺を指差した。最後に、自分の小指の根元の火傷の跡を、ちらりと撫でた。
――鉄じゃ、駄目だ。
声には出さず、彼はそう伝えた。
リーラの目が、しばらくの間まばたきを忘れた。
それから少女は、母に向かって早口で何事か言った。母の眉が一度、深く寄って、それからゆっくり緩んだ。母は黙って立ち上がり、戸口の壺を抱えてきた。颯太は鍋から葉と根を取り出し、湯ごと壺に移すよう、手の動きで示した。母はその通りにした。颯太は壺の口を、近くにあった木の蓋で覆った。湯気が、出口を絞られて、壺の中で旋回しているのが、彼の耳には聞こえた。
颯太は、ようやく藁敷きに腰を下ろした。
体じゅうが、いまになってようやく震え始めていた。
その晩、母の咳は浅くなった。
翌朝、リーラの母は颯太に粥を出した。粥には小さな干し肉のかけらと、わずかな塩が振られていた。颯太はそれを掌で受け取って、ありがとう、とだけ日本語で口にした。言葉は通じなかった。けれど、丁寧に下げた頭の角度が、おそらく代わりに通じた。
粥を食べ終えた颯太は、リーラに連れられて村のはずれへ歩いた。リーラは何度か振り返って、颯太の歩調に合わせた。陽は高かった。村のあちこちで、子供が、痩せた山羊を追い回していた。家の壁に、傷だらけの小ぶりな鍋が立てかけてあった。隣国から買った鍋だ、とリーラが説明した。割れやすく、しかし高い。村にはまともな鍋を作る者がいない。
リーラの示した先に、それはあった。
石組みの古い焚口跡だった。
地面から低く、半円形に石が積まれている。前面の石は煤で黒い。崩れた天井部の周りには、雑草が深く伸びている。入口の右と左に、薄く白い灰の筋が残っている。長い年月、誰の手も入っていない。けれど、構造は残っていた。
颯太は、しゃがんで、石の積み方を指で確かめた。
穴窯だ、と彼の指が判断した。
彼の知っている言葉でいえば、地下式の穴窯。古墳時代の須恵器を焼いたかたちに近い。煙道の取り方、焚口と焼成室の角度。違うのは、この窯は登り傾斜が浅く、焼成室が円錐ではなく扁平な楕円であること。それでも、火を入れれば焼ける。彼の手は、それをすぐに確信した。
背後で、咳の音がした。
振り向くと、ひとりの老人が、村の小径からこちらへ歩いてくるところだった。腰がわずかに曲がっている。痩せた肩。両目は薄い灰色で、瞳孔の周りが白く濁っていた。ほとんど、見えていない。けれど老人は、迷わずまっすぐ、窯の跡へ向かって歩いてきた。
「ここに、誰かがいる」
老人は颯太に、そう言った。
颯太は、その音をなぜか日本語に近いものとして受け取った。彼は黙って立ち上がった。
老人は、リーラに何かを尋ねた。リーラは小さく頷いて、颯太を指差した。颯太の名を、村の発音で言い換えて伝えた。
「ソーター」
老人はその名を、ゆっくり口の中で確かめた。
「お前さんは、土を握ったか」
老人は颯太の右手を、灰色の見えない目でじっと「見て」いた。颯太は無言で、自分の手のひらを老人の手の上に重ねた。老人の指が、颯太の指の腹を辿った。乾いた肌の感触の中に、土を擦った時のかすかな粒が残っているのを、老人の指は読んだ。
「還元」
老人がそう呟いた。
颯太の背中が、わずかに震えた。
還元、というその音は、確かにこの土地の言葉のはずだった。それなのに、その音は、颯太の耳には日本語の「還元」と寸分違わずに聞こえた。彼は、口の奥で言葉を確かめた。素地。釉掛け。棚板。ひとつひとつ、声に出してみる。出るたびに、老人は、膝を一段ずつ折っていった。
最後に老人は、颯太の前で完全に膝を折った。
「お前さんは、神が遣わせた継ぎ手だ」
颯太は、首を振った。
継ぎ手という言葉の意味は、彼にはまだ分からない。けれど、その重さだけは肌で分かった。彼は、ただの一作業者だった。深夜三時に覗き穴を覗くだけの男だった。誰の継ぎ手でもなかった。
「私は、何も継いでいません」
彼は、そう答えた。
老人は顔を上げた。灰色の目が、それでもまっすぐ颯太のほうに向けられた。
「継ぐかどうかは、お前さんが決めることだ」
老人は静かに言った。
「だが、お前さんの手が、すでに継いでいる。それは、お前さんが決めたことではない」
老人の名は、ガランといった。
ガランは村のはずれの、小さな小屋に独りで暮らしていた。小屋の中は、思いのほか整頓されていた。壁の棚に、薄く古びた素焼きの皿、口の欠けた壺、煤けた小さな碗が、整然と並んでいた。窓辺の藁籠には、何種類かの土が、ひとつかみずつ分けて置かれていた。
ガランは颯太のために、一杯の薄いエールを注いだ。冷たい、麦の匂いの濃い飲み物だった。
颯太はそれを舐めるように飲みながら、ガランが村で語る話を聞いた。
かつてこの村には、炎神メリオラの窯があった。古代に、炎の継ぎ手の民と呼ばれる職人衆が、この大陸に三十六か所、結界の壺を配した。壺は世界の腐朽を抑え、地に瘴気が湧くのを防ぐためのものだった。継ぎ手の民はやがて諸国に散り、その血は薄れ、技は途絶えた。燠村に残されたのは、最後の番人としてのガランただ一人と、雑草に呑まれた穴窯の跡だけだった。
「俺の親父も、爺さんも、番をしていた。番だけだ。火をくべる手は、もうとうに失った」
ガランの灰色の目は、暮れ始めた窓の外を見ているようだった。
「火ってのは、奪うためにあるんじゃねえ」
老人は、独り言のようにそう言った。
「返すためにあるんだ」
颯太は、手の中の杯を見つめた。
返すため、と言われても、何を返すのか、まだ分からない。年寄りの口にする、その手の言葉だ、と彼は内心で思った。詩心の発作のような、そういう抒情だ。彼は、無視することができた。彼はそうした。
無視することのできた自分を、彼はまだ、その夜は気にしなかった。
ガランは、颯太の杯にもう一度エールを注ぎながら、独り言の続きのように話した。三十年前、村で最後に焼かれた壺のこと。その時の薪の匂い。その時の煙の色。火を入れる前の晩、若かったガランの父親が窯の前で歌った節まわし。歌詞は、もう半分しか覚えていない。もう半分は、彼の父親と一緒に土に還った。
「歌は」
ガランはそこで、ふっと笑った。
「歌は、土の中まで持っていくものだ。お前さんも、いつか自分の歌を持つだろう。その時に、思い出すのは別の誰かのことだ」
颯太は、その言葉の半分を、聞き流した。
残りの半分が、なぜか胸の奥のどこかに、薄く釉薬のように引っかかった。引っかかったまま、彼はその夜は、気づかないふりをした。
その夜、颯太は村のはずれの草地に寝そべっていた。
ガランの小屋では遠慮があった。リーラの家でも遠慮があった。彼は誰の遠慮も借りずに、ただ草の上に背中を預けたかった。
空には、二つの月が並んでいた。
大きいほうの金色の月が、低い丘の稜線にかかろうとしていた。小さい銀色の月は、まだ天頂近くにあった。風はわずかで、草の擦れる音が、彼の耳のすぐそばを撫でた。
颯太は、ポケットから祖父の手帳を取り出した。
革表紙はあの夜のままだった。
月明かりの下で、彼はそれを開いた。
手帳の中身は、半分ほどが釉薬の配合表で、残りは祖父の手による写経のような短い覚え書きだった。颯太はその全部を、もう何百回と読んでいる。けれど、最後のページの一行だけは、これまでずっと、彼の中で「読み流された」一行だった。
還元は、世を還す。
月の光に照らされて、祖父の細い字が、紙の上で、わずかに沈んだ青を帯びているように見えた。
颯太は、長く息を吐いた。
戻れるのか。あの工場へ、あの第二焼成棟へ、あの蓮見の声のするほうへ。戻る方法があるのか。あったとして、戻る価値はあるのか。十二年、削られ続けた自分の輪郭の、その削り屑を拾い集めて、もう一度組み立て直すことに、意味はあるのか。
それとも。
ここに、残るのか。
残ったとして、自分は何者でいられるのか。継ぎ手という言葉を、自分が背負えるのか。学のない一作業者は、ここでも、結局は一作業者ではないのか。
答えは、出なかった。
出るはずもなかった。
彼の両肩は、答えを出すには疲れすぎていた。明け方近くまで、彼はただ、自分の指先で手帳の革表紙の縁を撫でていた。
風が、向きを変えた。
遠くの森の方から、夜行性の獣のものらしい長い鳴き声が、一度だけ聞こえた。颯太は身を起こさなかった。彼は、自分が世界のどこにいるのかを、もう問わなくなっていた。問うことに意味のない時間が、夜にはたまにある。
彼は、思い出していた。
工場の更衣室の、自分のロッカーの内側に貼ってあった、母の若い頃の写真のこと。父はもう十五年前に死んだ。母は、今は介護施設にいる。颯太の名前を、もう確実には呼べない。月に二度、面会に行く。行くたびに、母は彼を別の名で呼ぶ。それでも颯太は、母の手を握って、半時間だけ黙って座る。母の手は、いつも乾いていて、あたたかい。
その手を、彼は、まだもう一度、握れるのだろうか。
戻る理由のひとつ目は、それだった。
二つ目以降は、なかった。
二つ目以降は、無理に探さなくてもいい、と彼は決めた。決めるというより、それは、彼の右手が決めた。右手はもう、土の方を向き始めていた。
鶏が、まだ鳴かない。
空の端が、わずかに白んだ頃、颯太は手帳を閉じた。
決断ではなかった。
決断するほどの力は、その時の彼にはなかった。ただ、彼の右手が、覚えのある形に動いていた。指の腹で土の粒を探りたがっていた。指の関節が、薪の太さを測りたがっていた。
彼は、立ち上がった。
ガランの小屋の方へではなく、村のはずれの古い穴窯の跡へ、彼は歩き出した。
まず、目の前の土を、焼く。
頭ではなく、手が、そう言った。
彼は、それに従うことにした。
窯の跡に着いた時、東の空は、もう薄い橙に染まり始めていた。
颯太は崩れた天井部の石を、ひとつひとつ、慎重に持ち上げた。雑草の根が、石の隙間に深く張っていた。彼は腰を低くして、根を一本ずつ手で抜いた。爪の中に黒い土が入った。痛みは、なかった。
石の下から、煤に染まった古い棚石の破片が出てきた。
颯太は、その破片を月光の続く朝の薄明かりに翳した。
肌理の細かい、緻密な耐火石だった。指で叩くと、乾いた高い音がした。長い眠りから覚めかけた素材の、それでもまだ生きている音。
背後で、足音がした。
ガランが、リーラに肩を支えられながら、ゆっくりと近づいてきていた。リーラの目は、もう怯えていなかった。期待と、緊張と、よく分からない何かが、その目の中で同時に光っていた。
「焼くのか」
ガランが尋ねた。
颯太は石の破片を、自分の胸の前で、しっかりと握り直した。
「焼きます」
彼は、そう答えた。
声に出して言うのは、初めてだった。
炉の前で、彼はもう一度だけ、深く息を吸った。
吸い込んだ空気の中に、まだ覗き穴の青の匂いが残っていた。




