第219話 敗走
アラスエ川の決戦から一週間後。旧ラスカ王国の王都ミランドラ。石造りの床には泥と血の足跡が乱雑に残り、生臭い鉄の匂いと、疲労と恐怖に塗れた兵士たちの汗の悪臭が、重苦しい空気をさらに息苦しいものにしていた。数時間前にミランドラへ逃げ延びたアルノーは、執務室の窓から眼下に広がる城の中庭を見下ろしていた。彼の端正な顔立ちには、常に張り付いていた余裕の笑みはない。
アラスエ川での致命的な敗北。十万を超えるズタリア王朝の兵士たちは、死の恐怖に駆られて蜘蛛の子を散らすように霧散した。退却戦においてもジャックの執拗な追撃を受け、アルノーの手元に残された本軍は、わずか三万七千にまで激減していたのである。彼はは、血と泥に塗れた純白の手袋を、まるで汚物でも扱うかのように忌々しげに引き剥がし、床へ投げ捨てた。新しい手袋を引き出しから取り出し、ゆっくりと指を通す。己の描いた完璧な青写真が、あの銀髪の女によって完全に粉砕された事実を、彼の強烈な自尊心は未だに受け入れられずにいた。
「閣下」
重厚な扉が開き、血にまみれた軍服姿の副官、エディ少佐が入室してきた。彼の顔色は土気色で、目の下には濃い隈が深く刻まれている。
「どうしました。追撃してきた軍勢が、すでにこの城を包囲したとでも言うのですか?」
「いえ、敵の軍勢はまだ数日の距離にあります。……ですが、東のズタリアから、信じがたい急報が届きました。ズタリアの王都が、クライナイン王国軍によって陥落したとのことです」
アルノーの、新しい手袋をはめる手がピタリと止まった。
「クライナイン王国軍だと?」
冷ややかな声が、執務室の静寂を切り裂く。
「はい……。掲げられた旗印から、ゲオルク・グラックが率いる騎兵団の仕業と思われます」
「ゲオルクだと……」
アルノーは、美しいハニーブロンドの髪を苛立たしげに掻き上げた。
ゲオルク・グラック。奴は、北方のギルディン都市連邦の攻略を命じられていたはずだ。
(なぜ東のズタリアにいる? 北方の攻略任務を途中で放棄したというのか……いや、違う。鈍重な歩兵本隊を北に残し、圧倒的な機動力を持つ騎兵団だけを抽出して、防備が手薄となった王都を強襲したのか)
アルノーの瞳の奥で、激しい憎悪が沸点に達した。それは、自分の思い通りに動かない、軍の定石を完全に無視したゲオルクの「反則」に対する、極めて自己中心的で理不尽な怒りだった。
(あの野蛮な傭兵上がりめ……! 命令違反も甚だしい。盤上の駒は、決められた規則通りに動くからこそ美しいのだ。それを、いきなり盤をひっくり返すような真似をして、私の完璧な戦略を汚すとは……!)
自身が最大の反逆者である事実は棚に上げ、アルノーは理不尽な怒りによって、崩れかけた自尊心を必死に保とうとしていた。
「閣下、いかがいたしますか?」
エディが、乾いた唇を開いて決断を促す。アルノーの頭脳が高速で回転し始める。東へ軍を向け、ゲオルクの騎兵団を討って鬱憤を晴らすか? いや、それは下策だ。東へ向かえば、背後から迫り来るクライナイン本軍に挟撃される。かといって、このミランドラに籠城しても、士気の低い敗残兵では、数日と持たずに城門を突破されるだろう。
西はミレーヌの支配下。北東にはゲオルク。
完全に袋の鼠だった。
だが、アルノーの薄い唇から、ふと乾いた笑い声が漏れた。
「ふふ、ふふふふ……」
「か、閣下?」
「簡単なことでした。現状の盤面が気に入らないのなら、他の盤へ移ればよいだけのことです」
アルノーは机上の大陸地図を指差した。その指先が示したのは、焦土となったイの国の東隣、大陸の五分の三を支配する超大国。
「メーラ天帝国へ亡命します」
その言葉に、エディは息を呑んだ。
「メーラ天帝国ですか……! 確かにあそこならば、ミレーヌの軍勢も容易には手出しできません。しかし、兵はどうしましょうか? 連れて行くとなると、食料も物資も全く足りず、兵站が持ちませんが」
エディは少し表情を曇らせて確認した。だが、アルノーはひどく涼しげな顔で返答した。
「軍を連れて行けば、行軍速度が落ちて追いつかれるだけです。それに、飢えた三万の口を養う無駄なコストを払う必要などどこにもない。私と貴方、そしてわずかな護衛だけで脱出の手配をしなさい」
アルノーにとって、兵士の命など、自分が逃げるためのただの時間稼ぎの道具に過ぎなかった。
(メーラ天帝国は、優秀な人材を求めているはずだ。私のこの圧倒的な軍略と明晰な頭脳があれば、あの超大国でも必ず重用される。そこでもう一度軍権を握り、のし上がればいいだけの話ではないか。私の才能を理解できなかったあの銀髪の女に、いずれ天帝国の巨大な軍勢をもって復讐してやります)
肥大化した自己愛と野心が、アルノーの瞳に再び昏い光を宿らせた。
「……かしこまりました」
主君の冷酷な本性を理解しきっているエディは、一切の感情を排した声で深く一礼した。
「頼みましたよ、エディ」
◆◇◆◇
数時間後、ミランドラ城の中庭には、生き残った三万七千の兵士たちが集められていた。
冷たい風が吹きすさぶ中、バルコニーに立ったエディが、声を張り上げて演説を行っていた。
「聞け、勇敢なる兵士たちよ! 敵はすぐそこまで迫っている! だが、我々にはこの堅牢なミランドラの城壁がある! アルノー閣下は、すでに次なる反転攻勢の策を練っておられる。ここで敵の血を流させ、必ずや勝利を掴み取るのだ! 城門を固め、死に物狂いで抗え!」
エディの熱を帯びた嘘の演説に、逃げ場を失い恐怖に追い詰められていた兵士たちは「おおおっ!」と悲壮な雄叫びを上げて応えた。彼らは、自分たちが見捨てられた囮であることなど知る由もなく、必死に防衛の準備へと走り出していく。
その兵士たちの喧騒と熱狂を背に、城の薄暗い裏口には、数頭の馬と、目立たない外套を深く被った数人の男たちが集まっていた。
「準備は整いました」
エディが小声で告げる。
「ええ。では、行きましょうか」
アルノーは、背後の堅牢な城壁を一瞥することもなく、馬に跨った。
兵士たちが、迫り来るクライナイン王国軍に備えるため、武器を握りしめて防衛網を構築しているその隙に。
彼らを地獄の釜の底へと置き去りにした、かつて世界を支配すると豪語した青年将校は、音もなく夜の闇へと溶け込み、新天地を求めて東方へと逃亡していったのである。
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