第218話 崩壊
アルノーは、自陣の小高い丘から、対岸に陣を構えるジャック・レルネ大将の軍勢を冷ややかに見下ろしていた。ルメイバ部族連合の騎馬軍団が、はるか上流で渡河を完了したという報告はすでに受けている。彼らがミレーヌの直轄軍に突撃を仕掛けるタイミングに合わせ、アルノーは自軍にも総攻撃の命を下していた。
アルノーの号令のもと、中央の大橋では凄惨な光景が展開されていた。前面に鉄板を打ち付けた分厚い装甲馬車を盾として押し立てながら、ズタリア王朝の兵士たちが橋を渡っていく。
さらに、ズタリア兵を酷使して築き上げた高台からは、対岸に向けて苛烈な銃撃が加えられている。ジャックの陣営からも猛烈な反撃の弾幕が降り注ぎ、橋の上は瞬く間に血と肉片にまみれていった。
だが、目の前で繰り広げられる激戦に、アルノーはほとんど関心を払っていなかった。彼は純白の手袋をはめた手で望遠鏡を構え、はるか北西の方角、ミレーヌの直轄軍が布陣している平原を食い入るように見つめ続けていた。
やがて、鉛色の空の下に、巨大な土埃の壁が湧き上がるのが見えた。かすかに、だが確実に、大地を揺るがす十五万の馬蹄の音と、野蛮な雄叫びが風に乗って届いてくる。
(ようやく来ましたか。これで、すべてが終わる)
アルノーの端正な口唇が、愉悦に吊り上がった。望遠鏡のレンズ越しに、怒涛の如く押し寄せる騎馬兵団の波が、ミレーヌの本陣まで中間地点に差し掛かったのが見えた。
その瞬間、ミレーヌの陣営から白い煙が立ち上がり、わずかに遅れて銃撃の轟音が鳴り響く。
「馬鹿め、遠すぎますよ。大軍の圧力に呑まれ、恐怖のあまり距離を誤ったのでしょう」
アルノーが鼻で笑った。マスケット銃の有効射程を考えれば、五百メートルも離れた位置からの射撃など、ただの無駄弾に過ぎない。
しかし、彼のその常識的な軍事思考は、わずか十秒後に根底から覆されることとなる。
最初の射撃から間を置かず、二度目の銃撃音が轟いた。部隊を分けての二段、三段撃ちは珍しい戦術ではない。だが、三度、四度と、銃声は全く鳴り止む気配を見せなかったのだ。
北西の平原は、ミレーヌの直轄軍が吐き出す尋常ではない量の硝煙と、騎兵団が巻き上げる砂埃に完全に覆い隠され、中の様子はまったく見えなくなった。ただ、腹の底を揺るがすような途切れることのない異様な連射音が、鳴り響き続けている。
突撃していたはずの騎馬軍団の土埃の波が、明らかに不自然に停滞し、激しく混乱しているのが遠目にもわかった。
「あれは……何だ!」
常に泰然自若としていたアルノーが、初めて声を荒げた。
「閣下、銃撃音が止みません!」
傍らのエディ・ベケ少佐も、血相を変えて叫ぶ。
「そんな事は分かっています! よもや、あの後込め銃の開発を完了させたというのですか? 私は聞いていませんよ!」
アルノーは王宮の中枢にいた頃、ミレーヌが後込め式の銃の開発をホマンに命じていたことは知っていた。だが、密閉性の問題などで難航しているという報告を最後に、続報は一切上がってきていなかったのだ。開発は失敗したと思い込んでいた。
「後込め銃、ですか? 私も《《初めて》》聞きましたが……」
「当たり前です、極秘の機密情報ですから。しかし、いつの間にあれほどの数を量産し、実戦配備していたというのか……!」
アルノーは、あの絶え間ない弾幕の正体が、装填の隙を無くした後込め銃によるものだと確信した。己の完璧な計算式に、未知の変数が突然叩き込まれたのだ。
やがて狂気の銃撃音が唐突に鳴り止み、吹き抜ける風が土埃と硝煙を払い落としていく。
望遠鏡を覗き込んでいたアルノーは、文字通り息を呑んだ。十五万を誇った無敵の騎馬兵団の姿はどこにもない。そこにはただ、大地を赤黒く染め上げる莫大な肉の山が、不気味な静寂の中に横たわっていた。
「ば、馬鹿な……」
純白の手袋が微かに震える。
「閣下、ミレーヌ直轄軍に動きがあります!」
エディの悲鳴に近い声にハッと我に返る。望遠鏡の先で、ミレーヌの軍勢が、自らが築き上げた死体の山を避けるようにして、アラスエ川に沿って北上を開始していた。
「渡河ポイントへ向かうつもりかもしれません!」
「左翼の軍を直ちに回し、何としても渡河を阻止しなさい!」
アルノーの顔から余裕が完全に消え去っていた。
◆◇◆◇
アルノーの命を受け、左翼を任されていたマカーリオ少将は、自身の軍三万とズタリア王朝の兵四万、計七万の大軍を率いてアラスエ川を北上した。
一時間後。大橋から北へ五キロほど離れた渡河ポイントへ到着すると、対岸にはすでにミレーヌの直轄軍が到着し、集結を終えているところだった。
そこは川幅がおよそ二百メートル。流れも緩やかで水深が浅く、かつてマカーリオの別働隊が渡河を試み、ジャックに阻まれた因縁の浅瀬だ。
「よし、間に合った」
元傭兵団長であるマカーリオは、馬上で下卑た笑いをこぼして安堵した。相手が対岸にいるうちは、まだ安全だ。
「全軍、岸沿いに広く展開しろ! 奴らが川に足を踏み入れ、渡河を開始したら、十分引き付けてから一斉射撃を開始だ。いいか、奴らを一兵たりともこちら岸へ渡らすな!」
マカーリオの号令に従い、七万の兵士たちが急ぎ足で陣形を組もうと動き出した。
その瞬間だった。
対岸のミレーヌ軍から、空気を切り裂くような無数の銃声が轟いた。
「なっ……!」
マカーリオが驚愕する間もなく、川幅二百メートルの距離を容易く飛び越えてきた鉛玉の雨が、展開中の自軍に容赦なく降り注いだ。
血飛沫が舞い上がり、兵士たちが次々と悲鳴を上げて地に伏していく。
「そ、そんな……届くわけが無い……!」
対岸までは二百メートル。これほど正確に、かつ致命的な威力で陣形を撃ち抜くなど、常識ではあり得ない。
だが、ミレーヌ直轄軍からの銃弾は、常識を嘲笑うかのように、圧倒的な殺傷能力を維持したままマカーリオの軍を貫き続けた。
◆◇◆◇
「申し上げます! マカーリオの軍、完全に壊滅! ミレーヌ直轄軍が渡河を完了し、こちらへ向かってきます!」
本陣に届いた急報に、アルノーは端正な顔を醜く歪ませた。
「七万の軍が、こんな僅かの間に壊滅しただと!」
「閣下、正面のジャック軍の先陣が、防衛陣を出て大橋を確保するような動きを見せています!」
エディの報告に、アルノーの優れた頭脳が瞬時に最悪の結末を弾き出した。
このままここに留まれば、正面のジャック軍に押さえ込まれたまま、右側面からミレーヌの直轄軍による圧倒的な火力の強襲を受ける。完全に挟撃され、軍が消滅する。
「……一旦、撤退します」
「閣下……」
「このままでは挟撃されます。直ちにミランドラへ戻り、城に籠って再起を図るしかありません」
アルノーが屈辱を噛み殺しながら決断を下した、まさにその時だった。
「ご報告します! 前線のズタリア王朝軍が、突如として武器を捨て、逃げ始めました!」
その報せが、アルノーの完璧な軍団に致命的な崩壊をもたらした。
もともと戦意の低かったズタリアの兵士たちは、無敵と思われた騎馬兵団の壊滅と、正面のジャック軍の猛攻、さらには自分たちが挟み撃ちにされるという絶望的な状況をいち早く察知したのだ。彼らは、アルノーの撤退の指示など待つことなく、死の恐怖に駆られて我先にと背を向けて走り出した。
「おのれ、あの下等な虫けらどもめ……!」
十万以上のズタリア兵の逃亡は、アルノー軍の陣形を内部から無惨に破壊した。味方同士がぶつかり合い、怒号と悲鳴が入り混じる大パニックに陥る。
アルノーは必死に軍を統制し、撤退を急がせようとした。だが、そこに側面からミレーヌの直轄軍が現れ、容赦のない射撃を開始した。
圧倒的な火力の前に、アルノー軍はもはや軍隊としての体を成すことなく、総崩れとなった。アルノー自身もまた、優雅な所作を投げ捨て、血と泥に塗れながら、旧ラスカ王国の王都ミランドラへ向けて無様な敗走を余儀なくされたのである。
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