第217話 懐中時計
アラスエ川の西岸、ジャック・レルネ大将が敷いた強固な防衛陣の左翼側に、ミレーヌ・グラッセ率いる直轄軍五万が展開していた。
彼らの前には、簡単な木柵と浅い空堀が設けられているのみ。対するルメイバ部族連合の騎馬軍団十五万にとって、それは防御陣と呼ぶにすら値しない、脆弱な障害物でしかなかった。
「全軍、蹂躙せよ!」
大族長トゥムルの野太い号令のもと、十五万の騎馬が一直線に距離を詰めていく。馬蹄が大地を打ち据える地鳴りが雷鳴のように響き渡り、巻き上がる砂塵が鉛色の空を覆い隠していく。獣と汗の強烈な匂い、そして略奪に飢えた騎兵たちの雄叫びが、一つの暴力の塊となってミレーヌの陣へと迫っていた。
トゥムルは、鷹のように鋭い瞳で、一キロ先の「獲物」を睨み据える。
圧倒的な質量と速度。この平原において、歩兵中心の五万など一溜まりもない。あと一分強。それだけで、あの脆弱な陣形に辿り着き、すべてを蹄の裏で肉塊に変えることができる。勝利はすでに彼の手の中にあった。
だが、距離が半分を過ぎ、五百メートルを切ったその時である。
静まり返っていたミレーヌの陣営から、空気を引き裂くような凄まじい轟音が鳴り響いた。白く濃密な硝煙が、一瞬にして直轄軍の陣形を覆い隠す。
(馬鹿め、遠すぎるわ!)
トゥムルは内心で嗤った。西の連中が使う銃の有効射程は、せいぜい百五十から二百メートル程度であると報告を受けている。焦りのあまり、届きもしない距離で無駄弾を撃ったのだと確信した。
しかし、次の瞬間、彼の視界で信じがたい光景が繰り広げられた。
先頭を駆けていた数千の騎馬が、見えない壁に激突したかのように次々と血飛沫を上げ、もんどり打って倒れ伏したのだ。時速数十キロで疾走していた馬体が地面に叩きつけられ、騎乗していた兵士たちは宙を舞い、首の骨を折って即死する。
「なにっ!?」
トゥムルは驚愕に目を剥いた。五百メートルもの距離から、装甲すら容易く貫通する威力を保ったまま、これほど正確に弾丸を届かせたというのか。
だが、歴戦の族長である彼は、瞬時に思考を切り替える。
(しかし、あの銃は、次の発射までに致命的な時間がかかるはずだ! 弾を込めている間に距離を詰め、我らが踏み潰せば済むこと!)
彼は速度を緩めることなく、倒れた味方の死体を踏み越えて突撃を継続させた。
だが、その目論見は、わずか数秒後に無残に打ち砕かれる。
再び地獄の轟音が荒野を揺るがし、さらに数千の騎馬が、肉を穿つ鈍い音とともに大地へ沈む。
「ば、馬鹿な……っ!」
理解が追いつかない。銃火器の常識を根本から覆す、異常なまでの連射速度。
数秒おきに、途切れることなく鉛玉の暴雨が降り注ぐ。前衛が崩れ落ち、それを避けきれなかった後続が巻き込まれて将棋倒しになり、十五万を誇った無敵の騎馬軍団は、瞬く間に大混乱に陥っていった。
雄叫びと怒号は、いつしか絶望の悲鳴へと変わり、泥と生臭い血の匂いが戦場を完全に支配する。
その時、トゥムルの愛馬の首筋にも無慈悲な銃弾が突き刺さった。
悲鳴のような嘶きとともに馬体が崩れ、トゥムルは泥濘の中へと激しく投げ出される。全身を打つ痛みに顔を歪めながらも、彼は必死に這い上がろうとした。
耳を劈くのは、全く鳴り止む気配のない銃声の嵐。視線を向けても、ミレーヌの陣営は分厚い硝煙の幕に覆い隠され、全く姿が見えない。だが、そこからは規則正しく、機械のように冷徹な死が吐き出され続けている。
「何故だ! なぜ弾を込めずに、これほど撃ち続けられるのだ!」
トゥムルは血を吐くように叫んだ。
周囲を見渡せば、地平線まで広がるのは、血の海に沈み、痙攣する無数の騎馬と部下たちの死骸だけ。パニックを起こした馬の群れに踏み潰される者も後を絶たない。最強の軍団が、手も足も出せずに一方的にすり潰されている。
「奴らは……悪魔なの、か……」
その絶望の呟きが、彼がこの世に残した最後の言葉となった。
一発の銃弾が、トゥムルの脳天を正確に貫く。大族長の思考は永遠の闇へと落ち、自分たちを死に至らしめた絶え間ない銃撃の正体を知ることは、最後までなかった。
◆◇◆◇
鼻を突く硝煙の匂いと、空を覆い隠すほどの白煙の向こう側。
ミレーヌ・グラッセは、豪奢な椅子に深く腰掛け、前方を静かに眺めていた。
彼女の眼前に広がる浅い塹壕の中では、兵士たちが一切の歓声を上げることもなく、一糸乱れぬ動作で銃弾を吐き出し続けている。
工務庁長官サミールが、王都を出発する直前までに死に物狂いで用意させた「後込め式新型銃」の数は、実に一万七千丁。ミレーヌは、それを装備した兵士を二列に分け、前列と後列で交互に撃たせる「つるべ撃ち」を命じていた。
残る兵士には旧型のマスケット銃を持たせ、同じく一斉射撃を行わせている。だが、戦場を支配しているのは、間違いなく後込め銃の異常なまでの速射性能だった。
旧型の銃が、立ち上がって銃口から火薬と弾を押し込むという無防備で時間のかかる作業を強いられるのに対し、後込め銃は、塹壕の中に伏せたまま、手元のレバーを引いて薬室を開き、真鍮の薬莢を滑り込ませるだけで装填が完了する。
一切の無駄を省かれたその動作は、熟練すれば数秒で次弾を発射することが可能だった。
兵士たちは、高揚感も恐怖も見せず、ただ工場で作業をこなす機械のように弾を込め、引き金を引く。それだけで、圧倒的な質量と速度を誇った十五万の騎馬の突撃は、物理的に完全に無力化されていく。
恐怖も、戦術も、個人の武勇すら入り込む余地のない、極めて冷徹で合理的な殺戮システム。
やがて、大地を揺るがしていた馬蹄の地鳴りが止み、野蛮な雄叫びも完全に途絶えた。
それでもなお、ミレーヌの兵士たちは、主君から停止の命令が下るまで、ただひたすらに無表情で引き金を引き続けている。
ミレーヌは戦闘時間を図っていた銀の懐中時計の蓋をパチンと閉じた。
「……撃ち方、やめ」
彼女が体温を感じさせない平坦な声を発し、ゆっくりと右手を上げると、傍らに控えるフィデールが大声で射撃停止を叫んだ。ようやく、耳を劈く轟音が鳴り止む。
冬の冷たい風が、戦場を覆っていた硝煙の幕をゆっくりと晴らしていく。
視界が開けた先に広がっていたのは、見渡す限りの地平線を埋め尽くす、十五万の騎馬と兵士の死体の山だった。
戦闘は、わずか数分で終わっていた。
いや、これを戦闘と呼ぶのは正確ではない。兵士たちは単に、安全な場所から弾を込め、ひたすらに撃ち続けていただけだ。これは圧倒的な火力による、一方的な害虫駆除の処理作業に過ぎない。
「呆気ないものね」
ミレーヌは、見下ろすような眼差しでその惨状を一瞥し、退屈そうに目を細めた。
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